脳出血で無職になった親父のブログ

株式投資に腕時計が好きなオッサンのブログです。年齢を重ねスピリチュアルにも興味を持ったお蔭で人生感も変わりました。

47歳の転職は厳しかった2

2015年12月27日 10時18分57秒 | わが半生
平成19年6月に希望退職し就職活動をしました。私の心の中は不安と焦りがいっぱい・・。退職を決めた時、東京で働いていた時の同僚から『Yさんなら大丈夫です!』関西に戻るとき言ってくれた一言が心に響いていたのです。なぜ大丈夫と励まされたのか?実は私は大阪から東京へ異動した時は昇進し日本の会社でいう部長クラスとなったのです。栄転に心は踊り都内にある本社へ横浜から通勤していたのですが・・現場で陣頭指揮を執っていた私には本社の水になじめなかったのです。外人も多く合理主義・・周りは高学歴の社員ばかり・・英語が話せて当然のような風土・・社内には白人もいれば黒人もいたり中国人にインド人・・様々な民族と文化を持った人たちがいて、それだけでも精神的なストレスが大きくミーティングの途中に突然、外人が入室したときなどは、その外人が席に座ると・・ミーティングはとたんに英語に変わるのです。(ここは日本やんけ!お前が日本語を話せ!)心の中で入室してきた外人に向かって叫んだものでした。私は仕事らしい仕事も出来ないまま自律神経をやられ半月ほど休職・・その後、復帰したものの一体、何をしてよいのやら・・もう訳が分からず元の事業部・・関西に戻してほしいと上司に相談したのです。今、思えば、それは大変な我儘であったと思います・・私は私自身がリーダーとして行っていたプロジェクトを下ろされ神田にある審査部門に少しの間、席を置いたのです。そして・・何度か人事担当者との面談を経て関西に戻ることになったのですが・・その条件には役職を2階級降格というものでした。この挫折感・・しかし自分が東京で、やるべきことを放棄し周囲に迷惑をかけたわけですので当然の処遇であると・・そして何より東京に居て、このセクションで仕事を続けることは精神的に崩壊することは自分自身が一番、よく理解していたのです。私は何より、関西へ戻りたいというより東京の、今の部署から逃げたかったのだと今なら冷静に受け入れられます。関西へ異動と決まったとき周囲の目は冷たく・・これも自業自得と・・そんなとき神田の審査部門のマネージャーから『Yさん・・Yさんなら大丈夫ですよ!』神田の牛タンがおいしい店で昼食を一緒にとってくれたTさんに言われた一言。この一言が退職後の私の心の中で何度もコダマするのを覚えました。2階級ダウンし年収は下がったとはいえ、その職位での年収は天井である私は・・平成19年のリストラ対象となったのです。転職支援企業を紹介され、そこでの研修を受けながら自分自身もハローワークと、同僚に紹介された谷町にある管理職専門の就職支援の法人へ足を運んだのでした。そこの法人の担当者はOさんという初老の方。穏やかで相談しやすい紳士でした。その方から紹介された、お菓子の販売会社。大阪ではスーパーマーケットを数店舗やお菓子の店舗は数多く出店している会社です。面接も感触をつかみ私自身も(採用かな?)そう自信を持っていたのです。社長面接を控えていた時・・ふと気になることが頭をよぎりました・・就業条件です。専務から面接時に『当初1年は日曜・祝日もなく頑張ってください』この言葉は一体どういうことなのか??今でいうブラック企業??そんな不安を抱えてしまったのです。そんな気持ちになったのですが時計を見ると午後10時30分・・(明日・・電話してみよう)一旦は連絡をやめておこうと思ったのですが・・(いや・・待てよ。もしかしたら・・電話に出るかもしれない)私は携帯を手に取ってダイヤルボタンをプッシュしました。すると2~3度のコールのあと『はい。●●本社でございます。』出たのです・・電話の向こうはザワザワと仕事をしている様子が私の耳元に聞こえてきます。『先日、面接して頂いたYと申します。総務部の●●様はおられますでしょうか?』私は・・(この会社は止めておこう)不思議と、そう判断してしまったのです。総務部長と話し就業について幾つか確認し電話を切ったのですが・・当然・・後日ですが不採用通知が届きました。私は谷町にある就職支援の法人へ再度、結果を伝えるべくOさんを尋ねると『Yさん・・なんで連絡なんかしたのですか!先方はあなたを幹部候補として迎える予定だったそうです。年収もあなたの希望通りにスタートしてくれるはずだったのに・・こんな条件で再雇用されることは本当に稀なんですよ!普通なら年収300~400で契約社員であるのが当然なんです!!』Oさんは穏やかな口調であったものの、その言葉の節々は怒りが込められていました。。また迷惑をかけてしまった・・・その後、私は二度と谷町にはいきませんでした。そんなとき・・私が退職する1年前に会社を去った元同僚から連絡が入ったのです・・『どうやった?』ことの経緯を話すと『そうか・・もしよかったら話があるんやけど?』ということで後日、淀屋橋で会うことになったのでした。

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