脳出血で無職になった親父のブログ

株式投資に腕時計が好きなオッサンのブログです。年齢を重ねスピリチュアルにも興味を持ったお蔭で人生感も変わりました。

昭和のヤンキー高校生♪(^^) サンペンって?

2019年01月08日 21時56分38秒 | わが半生
1970年代はヤンキー全盛でした(^ω^)

東京では何といっても国士舘高校だそうですが。
大阪では浪商ですかねぇ(^^)
紺色でファスナーの学ランは一目で浪商とわかります。

もちろん浪商に限らず数多くのヤンキー高校はありましたが。
怖かったのは。
大阪朝鮮高校でしたね_:(´ཀ`」 ∠):
いわゆる『サンペン』
校章がペン3本なのです。

映画『パッチギ!』は確か京都の朝鮮高校生をストーリーにした井筒監督の作品。
井筒監督の世代は正にヤンキー全盛ですが。
監督は奈良県出身だと思いますが。

とにかく凶暴でした。
天王寺にアポロビルが今でもありますが。
アポロビルによく朝鮮高校の生徒がいると私の同級生も言ってましたが。
その同級生曰く。
『俺のツレが天王寺でチョン高の奴らと目が合った時な、ツレに1人の朝鮮高校の奴が近寄ってきよってん。ソリャ、カツアゲされるか?ボコボコにそれるか?と思って目を背けて下を見ててんと。そしたらな、そのチョン高の奴、「コラ!お前、アホちゃうか?地面にメンチ切ってナニをしとんねん。はははっ笑って去って行ったんやて。でも正味、小便ちびるほど怖かったって。』

たまたま機嫌が良かったんでしょうね。(^^)

当時、学生服を特注であつらえるのは日常。
学ランもズボンも。
ズボンは東京で言う『ボンタン』
大阪では当時は『ゴケやん』『極やん』と言ってました。

昭和50年前後、大阪朝鮮高校が日本人高校生の『極やん狩』がありましてね。
まぁ。そんなに派手にあつらえてなければ大丈夫でしたが。
中ランにハイカラー5㎝以上。あ、ハイカラーって学生服の襟のカラーの高さです。
袖にボタンを4個つけて。
極ヤンの太もも周りは、かなり太くて。
裾はダブルにしてる奴もいました。
そんな派手な格好をしてると?
大阪天王寺や、その周辺をウロウロしてると?
狩られると噂がありました。

そんな大阪朝鮮高校に立ち向かって
朝鮮高狩をしていたのが大阪では浪商ぐらいしかなかったです。
東京では国士舘か帝京と聞いてますが。

天王寺はコリアンタウンの生野区にも近いし環状線の外側で鶴橋、桃谷や玉造は在日朝鮮、韓国人が多く住んでいます。

だから。
私も高校時代天王寺に行ったは大学受験で通過したくらい。
遊びに行くなら梅田や心斎橋の安全地帯ばかり。
通学路線で京橋も通るので
京橋のダイエーや京阪モールが主な活動拠点なので朝鮮高校の人達と揉めることは全くありませんでした。
同級生は
『太成なんか相手にしてくれへんワ。心配すんな。』と言ってましたがね。

まぁ大阪朝鮮高校に喧嘩売る程の強者はいてなかったのは事実です。

その太成高校も、その昔。かつて大阪天満学園と言われ市内北区に校舎があった頃は
浪商と肩を並べるほどのヤンキー高校だったそうですが。私が在学中の頃は
いわゆる『ヘタレ』なヤンキー高校でした。
浪商と言えば
その昔、今は日曜の朝、某番組で『あっぱれ!』とか『渇!』とか言ってる、おじさんは浪商OBでもありますが。相当、喧嘩は強かったそうです。

今では高校生同士の喧嘩って聞いたこともなく
大人しくなってますが。
1970年代は
そりゃ。凄かったんですよ。
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