クールジャパン★Cool Japan

今、日本のポップカルチャーが世界でどのように受け入られ影響を広げているのか。WEB等で探ってその最新情報を紹介。

セーラ―ムーンと初音ミク:世界に広がるマンガ・アニメ09

2013年01月22日 | 世界に広がるマンガ・アニメ
日本のマンガ・アニメの発信力の理由を5つの視点に注目して、これまでにアップした記事を集約、整理している。5視点は次を参照のこと。→アニメとアニミズム:世界に広がるマンガ・アニメ02

今回も引き続き、次に示す5番目の視点を取り上げる。

⑤民族や言語、階級などによって分断されない巨大で知的な庶民を基盤とし、その価値観を反映する。

ただし、今回取り上げる例は、⑤以外の視点から見ても面白く、とくに初音ミクの現象は5つの視点のすべてが当てはまる好例だと思う。

マンガ・アニメの発信力:セーラームーン(1)
アメリカの女性人類学者による、「クール・ジャパン現象」をめぐる本格的で緻密な研究書である『菊とポケモン―グローバル化する日本の文化力』の第5章で「セーラームーン」を取り上げている。

アメリカのセーラームーンのファンは、この国に溢れているありきたりの男性スーパーヒーローとのちがいに惹かれた。女性アクションヒーローの登場や、誰か一人を特別扱いしたり悪者にしたりするのではなく、さまざまな要素を絡めて描く複雑なストーリーが絶賛された。

アメリカのファンたちが繰り返し称賛したのは、「セーラームーンには、戦闘とロマンス、友情と冒険、現代の日常と古代の魔法や精霊とが混在し、並列して描かれている点だ」という。物語と登場人物をさまざまな方向から肉づけすることで、ほかのスーパーヒーローものよりも、「リアル」で感情的にも満足できる、というのだ。

この本で紹介される、ファンの代表的な声を抜き出してみよう。

「米国のテレビキャラクターのように無敵でないところがいい。」
「普通の女の子がスーパーヒーローに変身する物語に魅了された。」
「死や真実の愛といったテーマにさまざまな角度から向き合っている。」
「セーラー戦士は男性ヒーローよりも不器用だが、女の子でもヒーローになれるというまったく新しい視点を与えてくれた。」
「変身して人間を超えた力を授かり、戦士として戦う一方、アイスクリームを食べたりビデオゲームをしたりショッピングをしたりといった日常の描写が重要なのだ。」
「泣き虫でもヒーローになれるのよ」
「セーラームーンはごく普通の女の子だと思います。」
「何でもない女の子たちが宇宙を守るなんてすごい。」

こうして並べるとあきらかなように、これらの声は、日本のマンガ・アニメの発信力⑤にいちばん関連がある。意識的にそういうものを選んだこともあるが、全体としてそういう内容のものがかなり多かった。「ごく平凡な主人公」が、しかもアメリカでは従来ありえなかった普通の女の子が、スーパーヒーローに変身するというところに、ファンは強烈な驚きと魅力を感じたようだ。

マンガ・アニメの発信力:セーラームーン(2)

ファンである子どもにとっても、また大人にとっても、セーラームーンの一番の魅力は、登場人物がアイデンティティを変化させるという点だろう。「少女がモンスターに、モンスターが少女になるという双方向の変化があり、どちらに変化してもそれぞれの特徴が出ている」 そして少女が、そのアイデンティティをファッションで表現するのと同じ感覚で、アクションシーンにおいても、装備やボディパーツを身に着けるのだ。登場人物は、服を変えるのと同じようにかんたんに、身体をアクションモードに切り替える。

セーラームーンが米国で放送されはじめた当初(1995年)は、登場人物のフレキシブルな変化など、米国にない特色が視聴者に違和感を感じさせ、それが一時的な失敗の原因になったかもしれない。しかし、2000年になると日本語、着物、侍、寺などはっきり日本とわかる要素を前面に出していくことは、ファンを失うどころか、むしろ「クール」とみなされプラスに働くようになったという。

しかし私は、そのような表面的な日本的要素が「かっこいいもの」として受容されるようになっただけではなく、日本文化の根元とつながる発想が受容されるようになったのだと思う。たとえば「登場人物のフレキシブル」な変化、つまり登場人物たちがアメリカのアニメに比べるとはるかに自由にいろいろなものに変身するということは、マンガ・アニメの発信力5項目の①に深くかかわっている。

①生命と無生命、人間と他の生き物を明確に区別せず、またあの世や異界と自由に交流するアニミズム的、多神教的な文化が現代になお息づき、それが作品に反映する。

人間とほかのもの(動物でも、モンスターでも、機械でもよい)との区別があいまいだからこそ、いともかんたんにその境界を飛び越えて双方向に変化が行われるのだ。日本のアニメが、クールと受け止められる底流には、このような発想が米国のファンにも肯定的に受け入れられるようになったという事実があるのだと思う。

日本発ポップカルチャーの魅力01:初音ミク
日本発ポップカルチャーの魅力02:初音ミク(続き)

初音ミクは、もともと音楽のソフトとして発売されたが、そのキャラクターをこれほど反響があるとは発売元の会社も考えてもいなかったようだ。しかしキャラクターはイラストや動画として二次創作され、予想もしなかった盛り上がりを見せていく。多くの初音ミクのファンが、音楽ソフトに添えられたキャラクターに命を吹き込んでいく、文字通りanimateしていくプロセスがすごい。ファン一人ひとりの並々ならぬ情熱が、ソフトによる固有の声をもったヴァーチャルアイドルを、あたかも実在するかのように作りあげ、そのアイドルのライブに熱狂し始めたのだ。そして日本のポップカルチャーに関心を持つ世界の若者たちが、日本で始まったこの現象に注目し、ライブの歌やダンスの質の高さに驚き、もっと詳しい情報を得たい、自分たちもライブに参加したいと待ち焦がれている。

日本のポップカルチャーの発信力の秘密という観点から、この現象を考えてみよう。

①生命と無生命、人間と他の生き物を明確に区別しない文化、アニミズム的、多神教的な文化が現代になお息づき、それが作品に反映する
②小さくかわいいもの、子どもらしい純粋無垢さに高い価値を置く「かわいい」文化の魅力
③子ども文化と大人文化の明確な区別がなく、連続的ないし融合している
④宗教やイデオロギーによる制約がない自由な発想と表現と相対主義的な価値観
⑤民族や言語、階級などによって分断されない巨大で知的な庶民を基盤にする

まさに①のアニミズム的なものへの親和性が、私たちの心に流れているからこそ、ファンの一人ひとりの力を結集してヴァーチャルなものに命を吹き込んでいこうとする動きが、こんなにも盛り上がるのではないか。

そしてヴァーチャルアイドルが、こんなにもファンの心をつかむひとつの理由が、動きがあれほどリアルでありながら、どこか現実ばなれした純粋無垢なかわいらしさの象徴のような表情をしていることにあるのではないか(②)。あれが、もっと生々しい現実的な顔をしていたら、これほどの盛り上がりはなかったかもしれない。

初音ミクらは、音楽ソフトにで作られた音声で自由に歌い、信じられないくらい上手にダンスをする「お人形さん」なのだが、もはや子どもではない若者たちがそれに熱狂することに何の違和感も感じない(②、③)。

おそらくキリスト教文化の本流は、こうしたすべてのことに本来抵抗感をもつので、ヴァーチャルアイドルに熱狂するというような動きは、その文化の内側からは生れて来にくいだろう(④)。

さらに日本語という共通の言語をもった、巨大で知的な庶民が、コンピューターテクノロジーを駆使して、協力しながら創作していったからこそ、ヴァーチャルアイドルのクオリティーの高いパフォーマンスが実現したのだ(⑤)。

こうして考えてみると、日本のポップカルチャーの発信力の秘密のすべてが、初音ミク現象の背後ではたらいているといえそうだ。
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庶民の力とポップカルチャー:世界に広がるマンガ・アニメ08

2013年01月20日 | 世界に広がるマンガ・アニメ
日本のマンガ・アニメの発信力の理由を5つの視点に注目して、これまでにアップした記事を集約、整理している。5視点は次を参照のこと。→アニメとアニミズム:世界に広がるマンガ・アニメ02

今回は、次に示す5番目の視点を取り上げる。

⑤民族や言語、階級などによって分断されない巨大で知的な庶民を基盤とし、その価値観を反映する。

マンガ・アニメの発信力と日本文化(5)庶民の力

この5番目の視点は、コンテンツそのものがもっている発信力というより、発信力が生まれてくる基盤といっていいかもしれない。むしろ、日本文化のユニークさのひとつと言えるかもしれない。これは、日本文化のユニークさ8項目のうちでいえば、次の二つに関係が深いだろう。

(4)大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族により侵略、征服されたなどの体験をもたず、そのため縄文・弥生時代以来、一貫した言語や文化の継続があった。

(5)大陸から適度な距離で隔てられた島国であり、外国に侵略された経験のない日本は、大陸の進んだ文明のの負の面に直面せず、その良い面だけをひたすら崇拝し、吸収・消化することで、独自の文明を発達させることができた。

異民族との闘争のない平和で安定した社会は、長期的な人間関係が生活の基盤となる。相互信頼に基づく長期的な人間関係の場を大切に育てることが、日本人のもっとも基本的な価値感となり、そういう信頼を前提とした庶民文化が江戸時代に花開いたのだ。

江戸の庶民文化が花開いたのは、武士が、権力、富、栄誉などを独占せず、それらが各階級にうまく配分されたからだ。江戸時代の庶民中心の安定した社会は世界に類をみない。歌舞伎も浄瑠璃も浮世絵も落語も、みな庶民が生み育てた庶民のための文化である。近代以前に、庶民中心の豊かな文化をもった社会が育まれていたから、植民地にもならず、西洋から学んで急速に近代化することができたのである。(中谷巌『日本の「復元力」―歴史を学ぶことは未来をつくること』)

幕末から明治初期にかけてヨーロッパとくにフランスを中心としてジャポニズムと呼ばれる現象が巻き起り、日本の浮世絵などが印象派の絵画に大きな影響を与えた。これもまた、江戸時代の豊かな庶民文化が背景にあり、庶民の生活から生み出された浮世絵や工芸品だったからこそ、当時のヨーロッパ市民階級の共感を呼ぶものがあったのである。

日本のマンガがここまで受け容れられた背景には、欧米のコミックとのマンガのストーリーづくりの違いにある。顕著な相違点は、「強くもなく、特別でもない主人公が、試練と努力を重ね、強く成長していく」というところだ。 欧米のコミックの主人公は、特別な才能を持っていたり、タフだったりと、いかにもヒーローらしい主人公が多い。無敵の主人公に憧れるタイプのストーリー展開になっている。

その点、日本のマンガの主人公は、落ちこぼれだったり、不良だったり、ごく普通の学生だったり、と最初からヒーローでない場合が多い。普通の人間として、マンガに登場する主人公に共感できる。

日本の社会は、階層性のきわめて少ない、巨大な中間層が中心をなし、大衆を形成している社会だ。そのような大衆が生み出す価値観が、マンガの中に自ずと反映されており、それが日本のマンガが受け入れられるひとつの背景になっているかも知れない。マンガは、そうした巨大な「中間層」に消費され、そのような普通の日本人の意識や希望や挫折や喜びや悲しみを反映している。日本人には意識しにくいが、マンガには、外部から見た日本の社会の魅力が、自ずと反映している。だからこそ、それはクールと感じられ、好感ももって受け入れられるのだろう。

現代の庶民文化は、マンガ・アニメを代表とするポップカルチャーを生み出し、それらが世界に影響を与え始めた。ヨーロッパでフランスを中心にマンガ・アニメブームが起こったことは、第二のジャポニズムになぞらえることができるかもしれない。

マンガは世界にどう広がっているか03

日本のマンガの浸透は、社会的な中間層の形成と一体となっている。それが、タイやインドネシアの状況を見るとはっきりと分かるという。中間層の子弟たちは、マンガをクールでかっこいいものと感じ、尊敬している。基本的に戦後の日本のマンガは、大衆社会とそれを支える中間階級の文化なので、他の国でもそういう階層が増えれば増えるほどマンガが受け入れれていくのであろう。

日本は、「一億総中流」といわれるように、巨大な中間層があったからこそ、マスとしてのマンガ市場が出来、そこにいろいろな表現が芽生えてきたのではないか。マンガがクールな何かとして受け入れられるひとつの理由がここにあるのかもしれない。今こそ「格差社会」などといわれるが、それでも日本の社会は、階層性のきわめて少ない、巨大が中間層が中心をなす社会だ。そのような社会そのものの魅力が、マンガの中に自ずと反映されていても不思議ではない。

マンガは世界にどう広がっているか04

外国からやって来てある程度、日本の社会を知った人々が驚くのは、日本では貧富の格差がそれほど大きくなく、人々がほとんど同じような暮らしを営んでいるということだという。日本以外の国々では貧富の差が非常に激しく、金持ちの暮らす場所と貧困者が暮らす場所は明確に分かれている場合が多い。

しかも、両者の環境はまったく異なっているという。富裕層が暮らす市街は清潔で治安もよい。逆に貧しい人々が暮らす街は不潔で、治安も悪いことが多い。日本にも、山の手と下町の呼び方はある。私は東京の下町に暮らしているが、自分が下層だとコンプレクッスに陥ることはない。下町に住んでいる富裕層もたくさんいる。しかも、どちらに住んでいようと、安心して住める。下町の方がより危険だと感じたことは、もちろん私もない。

外国人がもっと驚くのは、山の手の人間が下町に、下町の人間が山の手に自由に往来できることだという。そんなことを指摘されると逆に日本人の私たちが驚いてしまう。日本以外の国々では、必ずしもそうではないらしい。

ある外国人はいう。「日本では、金持ちも庶民も同じ商店街で買い物をし、気軽に言葉を交し合っている。そこには、欧米のような階級社会はないのだと知った。それは‥‥‥、まさにユートピアの一つの形であると感じた。」

日本が格差社会になりつつあるというが、上流社会と下層社会が画然と区別され、そこに普通の交流すらない、などということはない。世界のほとんどの格差社会とは、やはり違うのである。

マンガは、そうした巨大な「中間層」に消費され、そのような普通の日本人の意識や希望や挫折や喜びや悲しみを反映している。日本人には意識しにくいが、マンガには、外部から見た日本の社会の魅力が、自ずと反映している。だからこそ、それはクールと感じられ、好感ももって受け入れられるのだろう。

欧米にない日本の大衆社会のユニークさ

以下は『格差社会論はウソである』のレビューとして書いたものの一部である。

世界中のほとんどどの国にも大衆をがっちり支配する知的エリート階級が存在する。しかし日本ではそのような階級はすでに崩壊してしまったか、崩壊寸前だと著者はいう。『上品で美しい国家―日本人の伝統と美意識』や『カウンターから日本が見える 板前文化論の冒険 (新潮新書)』の中で伊藤洋一氏は、日本の文化のいちばん強いところは庶民的であるとともに、民主主義的であることだといった。日本文化が庶民から生まれた民主主義的な文化だからこそ、世界に受け入れられる。これは、知識人と大衆のあいだで知的能力格差が少なく、大衆の知的レベルが高いとうこととも深く関係するだろう。

日本の大衆のレベルは高い。「大衆・女・子どもこそが、日本経済の今後の繁栄を約束する世界一貴重な資源なのだ」と著者はいう。日本では、「女子どもののために」中年男が作りだす消費社会ではない、本当に女子どもが主人公の消費社会、知的エリートに統制されない大衆社会が形成されつつあるというのだ。

よく知られるように連載マンガのストーリーは、読者である子どもからのフィードバックを通して変えられたり発展されたりする。これは、子どもが独立した消費者となっているからこそ可能なことだ。欧米では、子どもが何を買わせるかついて親が支配する度合いが高いようだ。

日本の子どもは、ひとりで電車で学校に通うこともある。小学高学年なら、友だち同士で電車に乗り、遊んで帰ってくる。こんな安全な社会環境が存在するのは日本だけだ。それに比べアメリカの子どもたちにとって自由に動きまわれる街は、郊外ショッピングモールぐらいのものだ。

さらに日本では、おたくや若者が主導する形で新しい文化や街が出来ていく。秋葉原や、池袋の乙女ロードなどがそれだ。子どもが一方的に巨大資本の餌食となっているとしか思えない欧米社会とは、文明の成り立ちが違っている。

日本のポップカルチャーが世界に受け入れられる背景には、女子どもが主人公の消費社会、知的エリートに統制されない独特の大衆社会が形成されているということがあるのかも知れない。

《関連記事》
日本の庶民文化の力
欧米にない日本の大衆社会のユニークさ
日本のポップカルチャーの魅力(2)
世界一の「一般人」がいる日本
平凡な日本人のレベルの高さ
自分の仕事に誇りをもつ日本人
日本の長所10:仕事への責任感、熱心さ、誇り①

《関連図書》
★『日本の「復元力」―歴史を学ぶことは未来をつくること
★『格差社会論はウソである
★『ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)
★『日本の曖昧力 (PHP新書)

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異界の描かれ方の秘密:世界に広がるマンガ・アニメ07

2013年01月18日 | 世界に広がるマンガ・アニメ
日本のマンガ・アニメの発信力の理由を以下のような5視点に注目して、これまでにアップした記事を集約、整理している。

①生命と無生命、人間と他の生き物を明確に区別しない文化、アニミズム的、多神教的な文化が現代になお息づき、それが作品に反映する。

②小さくかわいいもの、子どもらしい純粋無垢さに高い価値を置く「かわいい」文化の魅力。

③子ども文化と大人文化の明確な区別がなく、連続的ないし融合している。

④宗教やイデオロギーによる制約がない自由な発想・表現と相対主義的な価値観。

⑤民族や言語、階級などによって分断されない巨大で知的な庶民を基盤とし、その価値観を反映する。

④まで見てきたが、今回は①に戻りたい。①で触れておくべきだったものに気づいたからである。①は、もちろん日本文化のユニークさ8項目でいえば、(1)「漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている」に深く関係する。ところで、マンガやアニメに描かれる「異界」も、縄文以来の日本人の「あの世」観を暗黙の前提としているように思えるのだ。

マンガ・アニメの発信力:異界の描かれ方

BLEACH―ブリーチ―
涼宮ハルヒの憂鬱
DEATH NOTE デスノート
鋼の錬金術師
犬夜叉
幽・遊・白書
ヒカルの碁

これらに共通する内容上の特徴は、これらのいずれも何らかの形で、あの世、霊、異界、異次元などに深くかかわることである。もちろんそれぞれが異界を描く仕方はさまざまだ。ひとつの宗教に縛られないだけに、自由に多様な仕方で描かれている。しかし、この世界と異界が密接に結びついていたり、自由に行き来ができるところに大きな特徴があるような気がする。たとえば『デスノート』などはどちらかというとキリスト教的なにおいがする。『犬夜叉』などは純日本的である。『ブリーチ』は、日本的なイメージも強調されるが、その異界観は独特である。いずれにせよ、この世と異界との間に厳密な区別がなく、その自由な交流のなかでストーリーが展開するのが特徴だ。

こうした特徴にも、何らかの仕方で日本文化のユニークさが背景にあるのではないか。日本人の異界観や霊界観は、仏教の影響も受けているだろうが、しかしテレビ番組などでよく取り上げられる怨霊とか地縛霊とかは、もともとの仏教とは関係がないといわれる。キリスト教だったら、教義としてある程度はっきりした「死後世界」観があるだろうが、日本人はそういう「明文化」できるうような「あの世」観をもっていない。でいながら、あの世や霊界を意外と近しいものと感じている。

日本人が漠然と無意識に受け継いできた「あの世」観とはどんなものだったのか。それが現代のマンガやアニメにどのように反映しているのか。今後は、個々の作品も取り上げながら探っていきたい。

それで、この特徴を①に追加して以下のように文章を変えることも考えている。

①生命と無生命、人間と他の生き物を明確に区別しない文化、あの世や異界と自由に交流するアニミズム的、多神教的な文化が現代になお息づき、それが作品に反映する。

マンガ・アニメの発信力:BLEACH―ブリーチ―(1)

縄文以来の日本人のあの世観を扱った本として、梅原猛の『あの世と日本人 (NHKライブラリー (43))』がある。これを読み直して改めて思ったことは、『ブリーチ』にも縄文時代以来の日本人の「あの世」観が、かなり色濃く反映されているのではないか、ということであった。具体的な習俗やイメージの描き方としてよりは、基本的な「あの世」観としてということであるが。もちろんそこに『ブリーチ』独特の「あの世」観が重ね合わされてはいるが。

『ブリーチ』では、死神は大切な役割を担っている。この世の何かに強い未練を持ち、それに因果の鎖を絡めとられ、憑き霊や地縛霊となっているの迷える霊を、この作品では整(プラス)と呼ぶ。これらの霊は、この世に迷っているだけで基本的には無害だが、彼らを尸魂界(しこんかい:ソウル・ソサイアティ)に送るのが、死神の役割の一つだ。

死神のもう一つの大切な役割は、虚(ホロウ)の浄化だ。死神によって成仏させられなかった霊は、ある一定期間が経つと虚(ホロウ)になってしまう。虚は、現世を荒らす悪霊となり、人間の魂魄(たましい)を主食とするので、生きた人間を襲っては命を奪う。

この作品の主人公の一人は、朽木(くちき)ルキアという死神だ。虚(ホロウ)と戦っているさなかに、主人公の高校生・黒崎一護と出会う。ルキアは、霊が見え優れた霊力を持っていた一護に、死神になるきっかけを与える。出だしのストーリーである「死神代行篇」では、彼ら二人が協力しながら、さまざまな虚(ホロウ)たちと壮絶な戦いを繰り広げる展開が中心だ。

『ブリーチ』の「あの世」観は、きわめて精緻に構築されており、そこに分け入っていったら切りがない感じだ。ここでは基本の一部を押さえただけだが、これを日本人にもともと伝わってきた「あの世」観と比較してみよう。その過程で必要に応じて『ブリーチ』の、もう少し突っ込んだ「あの世」観にも触れるかもしれない。

マンガ・アニメの発信力:BLEACH―ブリーチ―(2)

縄文以来の日本人のあの世観の大まかな姿を、梅原猛の『あの世と日本人 (NHKライブラリー (43))』を元にしてまとめ、『ブリーチ』のあの世観と比較してみたいと考えた。

梅原は、日本国家ができる以前に、沖縄、本土、北海道を含めて、一つの共通の基層文化があったと考える。そして、北においてその基層文化を色濃く残存させたのがアイヌ文化、南においてそれを残存させたのが沖縄文化だとし、アイヌ文化や沖縄文化を参考にしながら、『古事記』、『日本書紀』、さらに民俗学の研究などを照らし合わせて、縄文時代以来の古代日本人のあの世観を次のようにあぶりだしている。

1)あの世とこの世はあまり変わらない。極楽のようないいところでもなく、地獄のような苦しいところでもない。ただし、すべてがこの世と逆になっている(この考えは、現在も、弔いのとき死者の着物の合わせをあべこべに着せるなどの風習として残っている。)

2)原則的に、すべての人間があの世に行くことができ、あの世で神になる。ただし、この世で嫌われた人間は、あの世でも嫌われて受け入れてもらえない。またこの世に執着の強い霊は、なかなかあの世に行かない。

3)あの世に極楽も地獄もないから、どちらに行くべきかを決する裁判官もいない。キリスト教でいう最後の審判もなく、仏教でいう閻魔様もいない。

4)人間だけでなく、生きとし生けるものはすべてあの世へ行く。すべてが生と死の絶えざる往復をくり返す。太陽など天地自然もまた、生の世界と死の世界を往復する。

5)あの世とこの世は、それほど遠く離れておえらず、この世の裏側にすぐあの世がある。だからあの世の人たちはすぐにこの世にやってこれるのだが、年中来られてはこまるので、来れる日をお盆や正月やお彼岸に定めている。

6)お彼岸などでの短期の帰還だけでなく、もっと長い帰還がある。ある人が子どもを身ごもると、その一族の死んだ先祖たちが話し合って誰を帰すかを決める。よいことをした人は早く帰れて、悪いことをした人はなかなか帰れない。その基準で一人が選ばれると、あの世から魂が妊婦の腹にヒューッと移動して、この世への長期滞在となる。

こうして見ると、現代日本人の漠然とした最大公約数的なあの世観も、縄文時代の日本人が描いていたあの世観とそんなにずれていないのかもしれない。

そして『ブリーチ』で描かれるあの世も、大枠はこのようなあの世観の上に築かれている。尸魂界(しこんかい:ソウル・ソサエティ)と言われる霊界は、一見したところ、この世とそれほど変わらない家並みの中で、この世とそれほと変わらない生活をしているように見える。

ただし、尸魂界は、霊力を持つ貴族や死神達が住む瀞霊廷(せいれいてい)と、その周囲にある死者の魂が住む流魂街(るこんがい)に区分されていて、暮らし向きや待遇などに厳然とした差がある。この辺は、古代日本人のあの世観にはない差別待遇だが、しかし極楽と地獄、天国と地獄ほどの絶対的な違いがあるわけではない。

梅原は、極楽(天国)、地獄という区別がないのは、この世に階級とか差別がなかった社会の反映ではないかという。キリスト教や仏教のような世界宗教は、巨大国家が成立し、ひどい階級差別や奴隷制度が生じて、その差別に悩む人々を救おうとした宗教で、だからこそ、この世で富み栄えて贅沢三昧だった人々は、あの世で地獄の苦しみを味わうことが必要だったのだろうという。比較的に階級的な差が少なかった日本人には、縄文時代以来の平等なあの世観が受け入れやすいのかもしれない。

極楽(天国)と地獄の区別がないから、裁判官(閻魔)もいらない。『ブリーチ』ではないが、『幽遊白書』で閻魔様がジュニアのかわいい幼児になっているのも、そういう日本人の感覚にあっているのかもしれない。

古来の日本人のあの世観の2)、とくに後半の「この世に執着の強い霊は、なかなかあの世に行かない」という特徴は、『ブリーチ』の中でも重要な意味を持つ。この世の何かに強い未練を持ち、それに因果の鎖を絡めとられ、憑き霊や地縛霊となっている迷える霊を尸魂界(ソウル・ソサイアティ)に送るのが、死神の大切な役割の一つだからだ。成仏できなかった霊が、虚(ホロウ)になるというのは作者の創作だろうが、それもこのような日本人のあの世観を基礎にしてのことだ。

興味深いのは、日本の代表的な芸術のひとつである能も、霊についての同じような考え方を反映させているということだ。能の主人公シテは、多くの場合、怨霊であるという。つまり、この世に強い執着を抱いているために、あの世になかなか行けない霊なのである。そこにワキ(多くは旅の僧)が出てきて、シテの霊を慰めることによって恨みがゆるみ、無事あの世に行けるという筋たてが中心になることが多いのである。

こうして見ると、『ブリーチ』という作品も縄文時代以来の日本人のあの世観を下敷きにしていることは明らかである。

マンガ・アニメの発信力:BLEACH―ブリーチ―(3)

先に紹介した梅原猛の『あの世と日本人 (NHKライブラリー (43))』と内容はかなりダブるのだが、もう少し本格的な研究書になっている本に同著者の『日本人の「あの世」観 (中公文庫)』がある。その中で著者は次のようにいう。

著者があぶりだしたような日本人の原「あの世」観が、キリスト教、仏教、イスラム教、古代シュメールやエジプトの宗教など世界の多くの宗教のあの世観と比し、どのような位置づけになるかは、本格的な研究を待たなければならない。ただ、著者の推測では、日本人の原「あの世」観は、人間の「あの世」観のごく原初的な形態をとどめており、おそらく旧石器時代に形成されたものなのではないかという。

日本人のあの世観に人類の原初的なあの世観の名残りを見るのは、そこに都市文明の成立以後に発展した世界宗教とは違う姿が見られるからである。日本人のあの世観には、天国と地獄、極楽と地獄の区別も、死後審判の思想も、因果応報の思想も認められない。現世の階級差の激しい社会で虐げられた人々の、願望の投影が見られない。とすれば、日本人の原「あの世」観は、階級や階層が生まれない旧石器時代の人類に共通な原初的な「あの世」観の姿をかなりとどめているのではないか。

この原日本的なあの世観は、決して日本だけのものではなく、かつては普遍的なものであったが、農耕牧畜文明の出現、それに伴って生まれた都市文明の発達によって失われてしまったあの世観だった。ところが日本列島では、世界の文明の流れとは合流せずに、高度に発達した漁撈採集文明が1万数千年も続いた(縄文時代)。しかも水稲農業文明を受け入れたのちも、旧石器時代や縄文時代の心性をそのまま残し、言葉も受け継がれていったため、旧石器時代以来のあの世観も存続していったのではないか。

旧石器時代や縄文時代に息づいていたであろうアニミズムや自然崇拝、生きとし生けるものとの同根・共生の心性は、もちろんあの世観とも一体となって存在していた。縄文遺跡から発掘される土偶は、縄文人たちの生への願望や死への恐れ、畏敬、祈りといった感情が強く反映されている。それらが全体として私たち、現代の日本人の心の深層にも受け継がれている。

そして現代のマンガやアニメ、『ブリーチ』にも、『犬夜叉』にも、『幽・遊・白書』にも、原日本的なあの世観、世界観が反映している。それらは、もしかしたら期せずして世界に、農耕文明以前の人間と自然、人間とその生死とのかかわり方を思い起こさせる役割を果たしているのかもしれない。
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相対主義の魅力:世界に広がるマンガ・アニメ06

2013年01月16日 | 世界に広がるマンガ・アニメ
日本のマンガ・アニメの発信力の理由を5つの視点に注目して、これまでにアップした記事を集約、整理している。5視点は次を参照のこと。→アニメとアニミズム:世界に広がるマンガ・アニメ02

今回は、以下の二つの視点に触れる。

③子ども文化と大人文化の明確な区別がなく、連続的ないし融合している。

④宗教やイデオロギーによる制約がない自由な発想・表現と相対主義的な価値観。 ②小さくかわいいもの、子どもらしい純粋無垢さに高い価値を置く「かわいい」文化の魅力。

ただし③については、②「小さくかわいいもの、子どもらしい純粋無垢さに高い価値を置く「かわいい」文化の魅力」との関係も深く、そこでもすでに語っているのでごくかんたんに触れるにとどめたい。

マンガ・アニメの発信力と日本文化(2)融合

日本文化のユニークさ8項目のうち、③に直接かかわるものはないが、あえて挙げれば、

(3)ユーラシア大陸の穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とも言うべき文化を形成し、それが大陸とは違う生命観を生み出した。

にかかわるかもしれない。日本には、牧畜文化が流入しなかった。そのため、人間と家畜との間には明確な違いがあるものとして厳格な区別をする必要がなかった。ヨーロッパの牧畜文化では、人間とほかの生き物を区別するいちばん大きな違いは、「理性」をもっているかないかにあった。「理性」がまだ充分には発達しない子供もまた、完全な人間とは言えず、したがって子ども文化と大人文化の間にも、はっきりとした区別があった。牧畜を知らない日本人は、人間と動物、強いては大人と子どもの間に厳然たる区別をする必要がなかった。だからマンガ・アニメも、子どもの専有物である必要はなかったのだ。

それ故日本では、マンガやアニメは「子供への教育的配慮」という制約からの自由を得て、幅広い年齢層の読者のそれぞれを対象にしたエンターテイメントとして発達した。豊かな可能性をもった、表現の一ジャンルとしても発展していったのだ。

次は、④に関連する記事を集約、整理する。④は、日本文化のユニークさ8項目の中では、(7)「以上のいくつかの理由から、宗教などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配がほとんどなく、また文化を統合する絶対的な理念への執着がうすかった」に最も深く関連するのは言うまでもない。

マンガ・アニメの発信力と日本文化(3)相対主義

絶対的なイデオロギーを嫌う日本文化とマンガ・アニメの関係は、増田悦佐が『日本型ヒーローが世界を救う!』のなかで論じている。

著者によれば、日本のマンガ・アニメの特徴は、集団的英雄像と善悪を相対化する視点だという。私たちが生きる現実は、たったひとりの英雄が大衆の無気力や妨害をはねのけて巨悪と対決するおとぎ話ではない。また戦争状態にある集団同士は、一方が完全に正義を体現し、他方は完全に悪を体現するなどということはありえない。そのような相対的な現実を日本のアニメが語り始めた。

日本のアニメ・マンガは、人類全体にとっての優れた無形の財産を形成しつつある。それらが世界に発するメッセージは、「善と悪」、「敵と味方」といった二元論に振りまわされない物語展開の中に隠されているという。その素晴らしい実例が、『EMOTION the Best GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊 [DVD]』だという。そのラストシーンで草薙素子は、悪役人形つかいの提案を受け入れて、一体化していく。

日本のマンガには、たとえば『らんま1/2 (少年サンデーコミックス)』など、男性と女性の役割がコロコロと入れ替わることをネタにした名作が多い。この役割転換の発想は、戦争での敵・味方を相対化する視点につながるという。

この自由自在の視点の転換が、知識人主導型の社会(アメリカなど)では危険思想に感じられ、脅威になっているのではないかという。そういえば、アメリカン・ヒーローが一方的に正義を振りかざすのは、アメリカの国際社会での態度に似ているかもしれない。同じことは最近の中国にも当てはまるだろう。

《関連記事》
世界カワイイ革命(2)
日本文化のユニークさ04:牧畜を知らない
日本文化のユニークさ05:動物とつらなる命
日本文化のユニークさ06:人間中心主義でない
日本文化のユニークさ07:正義の神はいらない
日本文化のユニークさ13:マンガ・アニメと中空構造の日本文化

《関連図書》
日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)
森林の思考・砂漠の思考 (NHKブックス 312)
日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)
アーロン収容所 (中公文庫)
肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公文庫)
日本人の価値観―「生命本位」の再発見
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子供観の違いとアニメ:世界に広がるマンガ・アニメ05

2013年01月15日 | 世界に広がるマンガ・アニメ
日本のマンガ・アニメの発信力の理由を5つの視点に注目して、これまでにアップした記事を集約、整理している。5視点は次を参照のこと。→アニメとアニミズム:世界に広がるマンガ・アニメ02

今回も引き続き、

②小さくかわいいもの、子どもらしい純粋無垢さに高い価値を置く「かわいい」文化の魅力。

に関係した記事を集約・整理する。これは、日本文化のユニークさ8項目でいえば、(2)「ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた」に深く関係し、この項目のもと、「母性社会日本」というタイトルでこれかでにアップした記事を集約したときにも、ある程度触れた。具体的には、以下の2回で母性社会と「かわいい」の関係に触れている。

カワイイと平和日本:母性社会日本04
「かわいい」人とは、成熟した美しさの持ち主ではなく、どちらかといえば子供っぽく、隙だらけで、たとえ頭の回転はよくなくとも、素直で無垢な存在なのだという。これはそのまま日本人が大切にしてきた価値観ではないか。まさにそうした日本人の価値観や感性が「かわいい」カルチャーを通して世界にひろまっているのではないか。

子ども観の違い:母性社会日本05
子どもを劣等な大人として、鞭打ち躾ける対象として見るのではなく、大切な授かりものとして、その子どもらしさを愛し続けたのが、日本の伝統だったのであり、そうした伝統が何らかの前提なって、現代のマンガやアニメに代表されるポップカルチャーが花開いたとしても不思議ではない。

子供観の違いとアニメ
マンガ・アニメが欧米に衝撃をあたえ、「カワイイ」文化が浸透する背景のひとつに、子供観の違いがあるのは確かだろう。欧米の文化の根幹には、キリスト教とギリシア以来の哲学からくる人間観がある。幼児は、heやsheではなくてitで指すというものそういう人間観から来るのだろう。理性をもってはじめて完全な人間であり、子どもはその意味で「人間になる途上の不完全な存在」だという子供観である。

さらにヨーロッパ・ユーラシア的な文明の根底には、家畜・穀物文化がある。日本は歴史的に、ヨーロッパ・ユーラシアに見られるような大掛かり家畜文化を知らない。大陸の文明は、家畜を支配化において人間の手でコントロールすることを不可欠としていた。子供も、理性と判断力をもった完全な大人になるまでは、大人に支配されコントロールされる対象と見なされる。

それに対して日本は魚介・穀物文化といわれる。魚介類は、あるものを捕るだけで、家畜のようにそれを制御して支配することはない。子供も、家畜のように支配したり、完全に制御するという発想では見ない。むしろ、大人と子供の、どちらが神と近いのかと問われれば、間違いなく西欧は前者と答え、日本は後者だと答えるだろう。そのせいか、日本人は大人になっても「子供のモノ」に抵抗が薄い。子供の感性を未成熟とは感じず、大人にない純粋さや無邪気さを神に近いものと感じる。

さらに、子供観の違いに関係するのだろうが、日本には、子どもの自立的な文化がある。西洋では、マンガは親が子どもに買い与えるものだけど、日本では、子どもがある程度自由に買い求めることができる。だから子どもの反応がストレートに作品に反映していく。子どもとマンガ家の相互作用のなかで、作品が形成されていく。そんな違いも作品に大きく反映され、日本独自のマンガ文化が形成されていったのだろう。

そしてもうひとつ興味深いのは「女の子向け」の存在だ。JPOPのキーワードとも言える「カワイイ」モノ(キティちゃんなど)が、なぜ日本以外にほとんど見られななかったのか。少女マンガや、セーラームーンなどの少女アニメは、日本で生まれたジャンルだ。「女の子向け」のいくつものジャンルが確立していること自体が、世界に新鮮な驚きを与えた。

ヨーロッパのキリスト教的、父性原理的な伝統の強い文化は、あきらかに文化のなかの女性的な要素を抑圧してきた。その無理やり抑圧したものが、歪んだ形で噴出すると、魔女狩りのようなものになるのだろう。

「子ども」や「女の子」を抑圧しない母性原理の国・日本だからこそ、「カワイイ」文化がこれだけ盛んとなり、しかもそれが世界にある種の衝撃をもって迎えられているのだ。
(もとの記事は、pkさんからのコメントへの応答という形をとっており、上のコメントを取り入れながらまとめたものである。pkさんに謝意を表したい。)

アトムと縄文(2)
『鉄腕アトム』は、幼い少年の顔で、低学年の小学生くらいのかわいいイメージである。少年漫画の主人公なのだからそれは当然と思うかもしれない。しかし、それは日本人の感覚なのである。

『鉄腕アトム』を原作とした米国版のコンピューターアニメーション映画『ATOM』(アトム、米題:Astro Boy、2009年)では、制作にあたってアトムの幼い顔が大いに問題になったという。

アメリカの製作者側がデザインした最初のアトムは、かなり大人びたイメージだったようだ。しかし、これには日本側が納得しなかった。何度かの厳しいやりとりとデザインの変更の末、原作のアトムよりは少しあどけなかさがとれたくらいの顔に落ち着いた。小学生高学年くらいか。おかげで、私もさほど違和感なく楽しむことができた。ハリウッド版のアトムのイメージは以下を参照されたい。

http://youtu.be/aJQ-bsGoG_8

日本人には、アトムの幼い姿形やかわいさが自然に受け入れられるが、アメリカ人には不自然に感じられる。その背景には、あどけなさやかわいさに対する日本人の独特の感覚がある。もちろん、現代の「カワイイ」文化の流行も、根は同じところにある。つまり、縄文時代以来の一貫した母性原理の文化が日本人独特の、かわいさへの感性を形づくっているのではないか。

日本人は未成熟で子供じみたものにひときわ愛着を示し、また自分の子供っぽいイメージを進んで周囲に示したがる傾向すらある。それは、幼稚であること、無害であることを通して隣人の警戒を解き、互いにその幼稚さを共有しあいながら統合された集団を組織していくからではないか。つまり、甘え合える親しさをよしとする母性原理の社会なのである。

日本は太古からほどんどずっと、子供っぽさ、幼稚さ、無害、素直さなどをどこかで互いに認め、共有しあって社会関係を結ぶことが許される平和な社会だったのである。逆に、成熟し独立した人格こそが、人間にもっとも大切な価値であるとする社会とは、個々が人が独立した主体として責任をもって判断しながら生きていかなければ、いつ殺されるかもしれない熾烈な社会なのではないか。「かわいい」ことが生き延びていくうえでプラスにもなる社会と、かわいかろうとなかろうと、殺されるときには殺されてしまう社会との違い。

この違いは、日本と西欧との子供観の違いとも重なっている。西欧では、子供は未完成な人間であって、教え導かれ知性と理性を磨くことで、初めて一人前の「人間」に成ると考える傾向がある。子どもはその意味で「人間になる途上の不完全な存在」という文化が支配的であった。一方日本では、「子供は人間らしさの原点」と考えられる。大人になるとは、その無邪気な人間らしさが何がしか失われていくことを意味する。

《関連記事》
『「かわいい」論』、かわいいと平和の関係(1)
『「かわいい」論』、かわいいと平和の関係(2)
「カワイイ」文化について
子どもの楽園(1)
子どもの楽園(2)
子供観の違いとアニメ
『「萌え」の起源』(1)

《関連図書》
★『世界カワイイ革命 (PHP新書)
★『「かわいい」の帝国
★『逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)
★『「萌え」の起源 (PHP新書 628)
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「カワイイ」文化の魅力:世界に広がるマンガ・アニメ04

2013年01月14日 | 世界に広がるマンガ・アニメ
日本のマンガ・アニメの発信力の理由を5つの視点に注目して、これまでにアップした記事を集約、整理している。5視点は次を参照のこと。→アニメとアニミズム:世界に広がるマンガ・アニメ02

今回からは、

②小さくかわいいもの、子どもらしい純粋無垢さに高い価値を置く「かわいい」文化の魅力。

についての記事を集約・整理しているが、これは、日本文化のユニークさ8項目でいえば、(2)「ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた」に深く関係する。

マンガ・アニメの発信力:「かわいい」文化の威力

今回は、櫻井孝昌氏の『ガラパゴス化のススメ』に触れながら考えてみたい。

21世紀に入ってもっとも世界に普及した日本語は和製英語の「アニメ」だろうが、それに続く言葉が「カワイイ」ではないかと櫻井氏はいう。世界の若者が「カワイイ」といいう言葉を使うとき、そこには「東京的な」とか「日本的な」といった意味が含まれると語る女の子もいるという。確かに、キュートやミニョンを使わずわざわざ日本語のカワイイを使う以上は、そこに独自のニュアンスを込めたいからだろう。そこには日本や日本のポップカルチャー全体への憧れのようなものが反映されているのだろう。

カワイイという概念が急速に世界に広がったものまた、インターネットの力が大きい。ロリータファッションの愛好家に、その出会いを聞くと、やはりきっかけはアニメであることが多いという。アニメを通して、日本の生活やファッションに興味を持ち、インターネットで日本のものを次々にチェックしていく。櫻井氏の本を読んで知ったのは、どうやら世界では、日本のアニメ・マンガや日本の若者文化の魅力そのものが「カワイイ」という概念で特徴づけられる傾向が強いらしいということだ。「かわいい」文化のもつ発信力がますます大きな影響力をもちはじめているということか。

「かわいい」文化は、おそらく一神教的な父性原理の文化とは正反対の、アニミズム的ないし多神教的な母性原理の反映であり、一表現だ。だから、上に述べた5視点のうち、②の「かわいい」文化の独自性と、①のアニミズム的、多神教的な文化が生み出す想像力の魅力とが結びついている。今、世界は一神教的な文化の強大な影響力のもとに置かれ、しかもそれが行き詰まりを見せている。「かわいい」文化は、一神教的・父性原理的な文化に対する「反乱」の始まりを意味するかもしれない。

日本のポップカルチャーの魅力(1)
日本のポップカルチャーが世界に受け入れられているのは、その背景となっている文化や社会が、他の国の人々に何かしら魅力的なものと感じられているからだろう。マンガやアニメを生み出す、日本という国の文化や人々の生き方に引き付けられるものがあり、共感を感じるからだろう。では、日本の文化のどのような面が魅力と感じられ、憧れられているのか。

何よりも「子供に対する考え方・見方」に魅力がある。マンガ・アニメの中には日本独特の「子供観」があり、それが受け入れられているというのだ。欧米では、子供は未完成なものという認識がある。大人の理性がない存在は、完成された人間としては扱われない。赤ちゃんに対し英語では「it」とう代名詞を使うのはその表れだろう。欧米では、子供っぽいことは否定されるという。「あどけない」「かわいい」という子供らしさは、教育的観点からはマイナスの見方をされるのだ。

一方日本では、「子供は人間らしさの原点」と考えられる。大人になるとは、その無邪気な人間らしさが何がしか失われていくことを意味する。

「日本の躾は、社会のために理性を押し付けるのではなく、人間として本来覚えるべき心がけや行儀礼儀を、本人のために訓練して教えることである。だから、人間の精神世界の内部は自由である。‥‥したがって日本では子供は、そのまま子供らしく暮らせるし、それがマンガに表現されている。」(『数年後に起きていること―日本の「反撃力」が世界を変える』)


《櫻井孝昌氏の関連著作》
アニメ文化外交 (ちくま新書)
世界カワイイ革命 (PHP新書)
日本はアニメで再興する クルマと家電が外貨を稼ぐ時代は終わった (アスキー新書 146)

《関連記事》
『日本はアニメで再興する』(1)
『日本はアニメで再興する』(2)
アニメ文化外交 (ちくま新書):YouTubeでのJapan熱を裏付ける本(1)
「カワイイ」文化について

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テクノ-アニミズム:世界に広がるマンガ・アニメ03

2013年01月13日 | 世界に広がるマンガ・アニメ
日本のマンガ・アニメの発信力の理由を以下のような五つの点に注目して、これまでにアップした記事を集約、整理している。

①生命と無生命、人間と他の生き物を明確に区別しない文化、アニミズム的、多神教的な文化が現代になお息づき、それが作品に反映する。

②小さくかわいいもの、子どもらしい純粋無垢さに高い価値を置く「かわいい」文化の魅力。

③子ども文化と大人文化の明確な区別がなく、連続的ないし融合している。

④宗教やイデオロギーによる制約がない自由な発想・表現と相対主義的な価値観。

⑤民族や言語、階級などによって分断されない巨大で知的な庶民を基盤とし、その価値観を反映する。

その上で今回は、①についての記事を集約・整理しているが、これは、日本文化のユニークさ8項目でいえば、言うまでもなく(1)「漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている」に深く関係する。

◆『菊とポケモン―グローバル化する日本の文化力』(アン・アリスン、新潮社)

著者は、日本のポップカルチャーがポストモダン的な最先端の美意識を表現しているのはなぜかと問い、それを戦後日本の歴史的な要因と、日本文化の伝統的な側面から考えている(第2章および第3章)。今回はとくに後者に関しての考察である。

「民族的で宗教的な伝統によって育まれた日本のアニミズム的な感性は、米国にはない日本独特のポストモダンの時代背景のなかににじみ出ている」と著者はいう。たとえば日本人はケータイに、ブランド、ファッション、アクセサリーとして多大な関心を払い、ストラップにも凝ったりする。そうしたナウい消費者アイテムにも、親しみ深いいのちを感じてしまうのが日本人のアニミズムだというのだ。そうしたアニミズム的な傾向は、『鉄腕アトム』に代表される多くの作品に見られるような、生命のあるものとないものとがたえず交わり、絡み合う世界を描く、マンガ、アニメ、ゲームなどにも現れている。

このように機械と生命と人間の境界があいまいで、それらが新たに自由に組み立て直されていく、日本のファンタジー世界の美学を著者は「テクノ-アニミズム」と呼ぶ。日本では、伝統的な精神性、霊性と、デジタル/バーチャル・メディアという現代が混合され、そこに新たな魅力が生み出されているのだ。

西欧に共通するキリスト教的な世界観では、人間が世界の中心であり、人間、生物、無生物は明確に区別される。日本人の感覚は、現代の日常生活の場面でも、モノに生命を与え、そこに精神性を見出す。日本のポップカルチャーに表現されるファンタジー世界は、日本に深く根ざした特有の文化、美的感覚、超自然的なものに対する鋭敏さを表現しており、世界中の人々がその魅力に惹きつけられるようになった。ポケモンをはじめとするファンタジー製品の人気は、そこに日本人のやさしさや感性が表現されているからで、そうした日本の精神の特徴が、現代世界の子供たちたちに伝えられ、生きる力となっている。

ここでは、日本文化のアニミズム性にかかわる一面だけを取り上げたが、著者の考察は多岐にわたり、複雑である。ただ前回も述べたように、日本文化のアニミズムがどのような歴史的な経緯のなかで残り、どのような性質のものかという考察はなく、誤解を呼ぶような単純化された表現が見られるだけである。

アトムと縄文(1)

アン・アリスンの『菊とポケモン―グローバル化する日本の文化力』の中の鉄腕アトム論をヒントにしながら、日本人の縄文的な心性と「鉄腕アトム」との関係を考えてみたい。

現代日本人の中に縄文的な心性が流れ込んでいるといっても、では、私たちの中の何が縄文的なのかいまひとつピンと来ない。しかし、私たち日本人の多くが、楽しんで読んだり見たりした作品の中にそれが表れているとすれば、これかと納得しやすいのではないか。

『菊とポケモン』の中で著者は、縄文時代とか縄文文化とかいう言葉はいっさい使っていない。しかし、鉄腕アトムなどを例にしながら、テクノ-アニミズムという言葉を使って現代日本のポップカルチャーのある一面を特徴づけている。アニミズムとはもちろん、巨石からアリに至るまであらゆるものに精霊が宿っていると感じる心のことだ。それがテクノロジーとどう関係するのか。

鉄腕アトムでは、たとえば警察車両が空飛ぶ犬の頭だったり、ロボットの形もイルカ、カニ、アリ、木まで何でもありだ。マンガ・アニメに代表される日本のファンタジー世界では、あらゆるものが境界を越えて入り混じっているが、その無制限な融合を可能にする鍵が、テクノロジーの力なのだ。メカと命あるものの結合によってテクノ-アニミズムが生まれる。

アトムそのものがテクノ-アニミズムのみごとな具体例だといってもよい。アトムはメカであると同時に、「心」をもった命とも感じられる。正義や理想のために喜んだり、悩んだり、悲しんだりするアトムの「心」に、私たちは感情移入してストーリーに胸を躍らせる。

手塚治虫によってアトムというロボットに「命」が吹き込まれた(アニメイトされた)が、アトム誕生の背後にある道は、かなたの縄文的アニミズムにまで続いている。手塚の作品には、メタモルフォーゼ(変身)に対する憧れのようなものが強く表現されている。『メトロポリス (手塚治虫漫画全集 (44))』など初期の作品からそういう傾向が強く出ている。この作品のミッチーという中性的人間型ロボットは、スイッチを押すことで男にも女にもなれる。男女差どころか、人間と機械の差も曖昧で、こうした変身の要素は、最初から手塚作品の根幹をなしている。こうした要素の根っこを探っていくと、縄文的アニミズムに至りつくはずだ。

そして、アトムやドラえもんなどファンタジー世界の「生き生きとした」ロボットたちが、ホンダ ASIMOのような人型ロボット開発への情熱を生み出した重要な要因になっている。つまり、縄文的アニミズムは、アトムなどマンガ・アニメの主人公たちを介して、最先端ロボットへと連なっているのだ。

《関連記事》
『菊とポケモン』、クール・ジャパンの本格的な研究書(1)
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マンガ・アニメの発信力:セーラームーン(1)
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『「萌え」の起源』(1)
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マンガ・アニメの発信力の理由:記事一覧
マンガ・アニメの発信力の理由01:ソフトアニミズム
マンガ・アニメの発信力の理由02:手塚治虫、性の垣根
マンガ・アニメの発信力の理由03:『宮崎アニメの暗号』
子供観の違いとアニメ
日本文化のユニークさ03:今息づく縄文の心性
日本文化のユニークさ04『肉食の思想』
日本文化のユニークさ05『日本人の価値観01』
日本文化のユニークさ06『日本人の価値観02』
日本文化のユニークさ12:ケルト文化と縄文文化
日本文化のユニークさ13:マンガ・アニメと中空構造の日本文化
日本文化のユニークさ17:現代人の中の縄文残滓

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アニメとアニミズム:世界に広がるマンガ・アニメ02

2013年01月12日 | 世界に広がるマンガ・アニメ
前回、マンガ・アニメの発信力の理由を4項目で取り上げたが、かつて変更して5項目としていたことに気づいたので、以下のように修正しておく。

①生命と無生命、人間と他の生き物を明確に区別しない文化、アニミズム的、多神教的な文化が現代になお息づき、それが作品に反映する。

②小さくかわいいもの、子どもらしい純粋無垢さに高い価値を置く「かわいい」文化の魅力。

③子ども文化と大人文化の明確な区別がなく、連続的ないし融合している。

④宗教やイデオロギーによる制約がない自由な発想・表現と相対主義的な価値観。

⑤民族や言語、階級などによって分断されない巨大で知的な庶民を基盤とし、その価値観を反映する。

その上で今回は、①についての記事を集約・整理するが、これは、日本文化のユニークさ8項目でいえば、言うまでもなく(1)「漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている」に深く関係する。

マンガ・アニメの発信力の理由01

呉善花は。『日本の曖昧力 (PHP新書)』で、日本のポップカルチャーが世界で受け入れられる理由を、縄文文化という歴史の根っこにさかのぼることで見事に解き明かしている。

著者は、日本を体系的に理解するには三つの指標が必要だという。欧米化された日本、中国や韓国と似た農耕アジア的な日本、そして前農耕アジア的(縄文的、自然採集的)日本だ。日本文化と特色は、アジア的農耕社会である弥生時代以前の歴史層に根をもち、それが現在にも生きていることにあるのではないかと著者はいう。

日本の神道は、強烈なものを排除する傾向が強い。強烈な匂いや音、色、血などを嫌い、静かで清浄な雰囲気を好む。その内容はアニミズムであるが、強烈な刺激や生贄の血や騒然たる踊りや音響を好まないという点では、世界のアニミズムとは正反対である。著者はこうした日本のアニミズムの特色を「ソフトアニミズム」と呼ぶ。他のアジア地域では、アニミズムそのものが消えていったが、日本ではソフトな形に変化しながら、信仰とも非信仰ともいいがたい形をとりつつ、近世から現代へ、一般人の間から文化の中央部にいたるまで残っていったのでる。

著者は、かつての「たまごっち」というサイバー・ペットの世界的な流行を、日本的なソフトアニミズムが世界に受け入れられる普遍性をもっていることの現われだととらえる。劇画やアニメはさらにはっきりと、こどもたちの柔らかなアニミスティックな世界から立ちおこった芸術表現だという。

町田宗鳳は、『人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)』で言う。近代化とは、西欧文明の背景にある一神教コスモロジーを受け入れ、男性原理システムの構築することで成立する。ところが日本文明だけは、近代化にいち早く成功しながら、完全には西欧化せず、その社会・文化システムの中に日本独特の古い層を濃厚に残しているかに見える。それは一神教的なコスモロジーに染まらない何かを強烈に残しているということであろう。他のアジア地域では、アニミズムそのものが消えていったが、日本ではソフトな形に変化しながら、それが残っていったのでる。

アニミズム的な多神教的コスモロジーは、一神教よりもはるかに他者や自然との共存が容易なコスモロジーである。もし、アニミズムや多神教的コスモロジーという言葉を使うことに抵抗があるなら、「宗教の縛りが少なく、多様化をよしとする価値観と文化」(伊藤洋一『日本力 アジアを引っぱる経済・欧米が憧れる文化! (講談社プラスアルファ文庫)』)と言い換えてもよい。

世界がマンガ・アニメに引かれる背景には、現代文明の最先端を突き進みながら一神教的コスモロジーとは違う何かが息づいていることを感じるからではないか。日本のソフト製品に共通する「かわいい」、「子どもらしさ」、「天真爛漫さ」、「新鮮さ」などは、自然や自然な人間らしさにより近いアニミズム的な感覚とどこかでつながっているのではないか。そして、そのような感覚は今後ますます大切な意味をもつようになるのではないか。

◆『宮崎アニメの暗号 (新潮新書)』(青井 汎)

宮崎アニメと、他のアニメその他のエンターテイメントの違いはなにか。それは宮崎作品の面白さのなかに隠されたとくべつの「仕掛け」にあると、著者はいう。それは作品のなかに自然に違和感なく溶け込んでいるため、ちょっと見には「暗号」のようだが、作品の血となり肉となって、宮崎作品のかぎりない魅力と豊かさとなっている。その豊かな背景とメッセージ性を明らかにしようというのが本書の意図だ。読んでなるほどと納得したり、そこまで深い背景が、と驚いたり、そのメッセージに共感したりすることが多かった。

まず冒頭で、『となりのトトロ』の背景に1972年のスペイン映画『ミツバチのささやき [DVD]』があったという事実が語られる。エリセのこの作品には、キリスト教に抑圧される以前の自然崇拝の古い世界観がもり込まれている。『となりのトトロ』は、この映画から影響を受け、似たようなシーンが見られるし、同様の世界観を表現している。ヨーロッパならローマ帝国以前のケルト人の森の文化、日本なら縄文時代やそれ以前の文化への敬愛が二つの映画の底流をなしている。

『となりのトトロ』にかぎらず、キリスト教や産業文明以前の、自然と人間が一体となった世界への共感は、宮崎アニメのいたるところに見られる。森や森の生き物に共感し、生き物と交流できたり、森から異界への入り込む森の人。キリスト教は、そのような能力をもった人々を魔女として迫害した。宮崎アニメには、そういう魔女的な一面をもった登場人物へのあたたかいまなざしがある。ナウシカにも魔女を思わせる不思議な力があった。狼少女サンにも同じような一面がある。サツキやメイはお化けを見たし、千尋は異界への通路をひらいた等。『魔女の宅急便』は挙げるまでもないだろう。

この本の中心にあるのは、『もののけ姫』の背後にある五行思想の「暗号」を解くことである。その詳細は省くが、興味深いのはシシ神が、木気(大地)の象徴であるだけでなく、神話から洞穴絵画にいたるまで人類の何重もの歴史的なイメージを合わせ持つ存在として造形されていることだ。それを説明するくだりも、興味尽きない。旧石器時代以来、欧州では「有角神」が信仰されていたが、キリスト教の興隆後は悪魔とされた。ケルトの有角神は、ケルヌンメスといわれ、動物の王でありながら、他の生物とともにあった。ここにシシ神の原型があるかもしれない。シシ神は、破壊と再生を一身に体現するという意味でモヘンジョダロのパシュパティのいう有角神にも連なる。さらに『ギルガメシュ叙事詩 (ちくま学芸文庫)』、最後には、旧石器時代の洞穴絵画のひとつ「トロワ・フレールの呪術師」という図像にこそ、始原のシシ神が見いだされる。

通読して、宮崎アニメがその上質のエンターテイメントのなかに、これほど遠くまで遡る歴史的視野と、文明の根源までを見据える深い批判精神を隠していたということに驚き、再度宮崎アニメを通して見直したいという思いに駆られた。宮崎アニメは、充分に意図的に、縄文・ケルト的な森の思想を表現しているのだ。

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日本のポップカルチャーの魅力(1)
日本のポップカルチャーの魅力(2)
子供観の違いとアニメ
子どもの楽園(1)
子どもの楽園(2)
マンガ・アニメの発信力の理由01
マンガ・アニメの発信力の理由02
マンガ・アニメの発信力の理由03
『菊とポケモン』、クール・ジャパンの本格的な研究書(1) ※1
『菊とポケモン』、クール・ジャパンの本格的な研究書(2)
『「かわいい」論』、かわいいと平和の関係(1) ※2
『「かわいい」論』、かわいいと平和の関係(2)
『国土学再考』、紛争史観と自然災害史観(1)
『国土学再考』、紛争史観と自然災害史観(2)
『「かわいい」論』、かわいいと平和の関係(3)
マンガ・アニメの発信力と日本文化(1):「かわいい」
マンガ・アニメの発信力と日本文化(2)融合
日本発ポップカルチャーの魅力01:初音ミク
日本発ポップカルチャーの魅力02:初音ミク(続き)
マンガ・アニメの発信力と日本文化(3)相対主義
マンガ・アニメの発信力と日本文化(4)相対主義(続き)
マンガ・アニメの発信力と日本文化(5)庶民の力
マンガ・アニメの発信力:異界の描かれ方
マンガ・アニメの発信力:BLEACH―ブリーチ―(1)
マンガ・アニメの発信力:BLEACH―ブリーチ―(2)
マンガ・アニメの発信力:BLEACH―ブリーチ―(3)
マンガ・アニメの発信力:セーラームーン(1)
マンガ・アニメの発信力:セーラームーン(2)
マンガ・アニメの発信力:「かわいい」文化の威力

※1と※2は、カテゴリー「マンガ・アニメの発信力の理由」ではく、「coolJapan関連本のレビュー」の中に入れたものを前後の関係の必要上ここに入れたものである。

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発信力の理由:世界に広がるマンガ・アニメ01

2013年01月07日 | 世界に広がるマンガ・アニメ
前回までで日本文化のユニークさ8項目に従って、これまで書いてきたものを集約し、整理する作業は終了したことになる。

今回からは、これまでマンガやアニメなど日本のポップカルチャーについて発言した記事を集約・整理するつもりである。これらについても、日本文化のユニークさを8項目にできるだけ沿ってまとめていきたいが、8項目のすべてに該当するわけではない。8項目のうち、2・3の項目との関係でマンガ・アニメの発信力を語ることになると思う。

最初は、個々の項目に関連した記事を扱うのではなく、マンガ・アニメが世界に広がる理由を全体としてどのように見るかを検討するための項目を確認する。

マンガ・アニメの発信力の理由02

ここでは、発信力の理由を以下の4項目に分けている。日本文化のユニークさを8項目を意識してたてた項目なので、何となく関連は分かると思う。これはあくまでも暫定的な分け方で、今後項目を増やしたり、文言を変えたりするかもしれない。

①生命と無生命、人間と他の生き物を明確に区別しない文化、アニミズム的、多神教的な文化が現代になお息づき、それが作品に反映する

②子ども文化と大人文化の明確な区別がなく、連続的ないし融合している

③宗教やイデオロギーによる制約がない自由な発想と表現

④民族や言語、階級などによって分断されない巨大で知的な庶民を基盤にする

さて、鳴海丈の『「萌え」の起源 (PHP新書 628)』は、すでに書評で取り上げたことがあるが、この本で著者は、日本の伝統との関連という視点から日本のマンガ・アニメの発信力を語っており、その発信力の理由を次のようにまとめている。これも参考にしながら、私が整理していくうえでの項目を最終的に決定したい。上に述べたように、今はまだ暫定的なものである。

ア)日本人は本来、生命と無生命を区別しない文化を持っている。
イ)日本人は「小さくて丸っこくてカワイイもの」に愛着を感じる。
ウ)日本のヒーローは他人のため、自分を捨てて、見返りを求めずに戦うことで存在意義を見出している。
エ)日本人の理想とする正義とは、敵を否定し殲滅することではなく、みんなで幸福になるために互いに知恵と力を合わせることである。
オ)これら日本古来の感性と文化が手塚治虫の出現によって拡大され、マンガ・アニメをはじめとする戦後のサブカルチャーに受け継がれた。
カ)それは日本独自のものでありながら、言語や思想や文化の壁を越えて世界に受け入れられる普遍性を持っている(らしい)。

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※1と※2は、カテゴリー「マンガ・アニメの発信力の理由」ではく、「coolJapan関連本のレビュー」の中に入れたものを前後の関係の必要上ここに入れたものである。
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日本人とユダヤ人:キリスト教が広まらない日本03

2013年01月06日 | キリスト教を拒否する日本
日本文化のユニークさを8項目に従って、これまで書いてきたものを集約し、整理する作業を続けている。

(8)「西欧の近代文明を大幅に受け入れて、非西欧社会で例外的に早く近代国家として発展しながら、西欧文明の根底にあるキリスト教は、ほとんど流入しなかった」に関する記事の集約、整理のつづきである

今回は、キリスト教を直接扱うのではなく、その母胎となったユダヤ教に関係する記事を扱う。ユダヤ人の歴史と日本人の歴史は、比較すればするほど好対照をなしており、それほど歴史が違う両者から生まれてきた宗教も極端に違う。キリスト教は、その教義のほとんどをユダヤ教から受け継いでいるので、日本人がキリスト教に違和感を感じる度合いが強いのも当然だろう。

さて、ユダヤ人と日本人の歴史や文化の違いついては下記の記事「ユダヤ人と日本文化のユニークさ」で詳しく書いた。ここではそのポイントだけを紹介する。

1)ユダヤ人の歴史は、言うまでもなく征服され、迫害され、虐殺され等々を繰り返した歴史だった。もちろん大陸の歴史は、ヨーロッパ、アジアを問わず、一般に侵略と征服の繰り返しであったが、日本は、渡航に困難を伴う海峡によって隔てられた島国だったため、大陸に共通する侵略の歴史から免れた。一方ユダヤ民族は、厳しい大陸の歴史の中でも、もっとも過酷に征服、集団捕囚、迫害、虐殺などを味わい尽くした。

ユダヤ教の成立にとって重要な意味をもつ出来事の一つが、モーセによる出エジプトである。エジプトで隷属状態に置かれていた人々が、モーセに率いられてエジプト脱出に成功するのだ。異民族の中で虐げられていた人々が、その状態から脱出し、やがてカナンの地に到着して定住する。その成功の導いてくれた神への信仰が強固になる。その成立事情は、日本列島に安住し続けた人々の自然宗教と何という違いだろう。

2)さらにユダヤ人は、自分たちの安住の地としての国土を二千年の長きにわたって失うという歴史をもつ。日本人は、日本列島という自然の境界線によって守られた国土に、だれに追われることもなく安住し続けることができた。

ユダヤ人は、民族のアイデンティティを保つためにユダヤ教という強力な観念を必要とした。日本人は、大陸から海で隔てられた列島に何らかの文化的まとまりをもって住んでいるという事実によって、ほとんど無自覚に(無観念に)日本人としてのアイデンティティを保つことができる。

3)この違いを個人の成育歴にたとえれば、どのようにいえるだろうか。ユダヤ人は、誕生と同時に両親(豊かな自然と国土、母なる大地)と死に別れ、歓迎されない親戚の家をたらいまわしされ時には虐待され、どの転校先でもひどいいじめや差別に会いながら、「私は偉人になるべく生まれてきた」と信じて、歯を食いしばって生きてきたたくましい青年とでもいおうか。

それに対して日本人は、いいとこのお坊ちゃんで大事に大事に育てられ(日本列島という豊かな国土に守られ)、いじめも虐待もまったく知らずに生きてきた人のいい青年だろうか。この日本人の育ちの良さ、善良さは、最近世界に知られるようになり、けっこう好かれて、世界でもっともよい影響を与える人(国)と評価されたりもする。ところが、なぜか彼は、変に自信がなく自分はダメだと思い込み、いつもおろおろしている。何よりも世間知らずで、周囲の人はみな良い人たちだと信じて、いつも騙されている。

この他、キリスト教のところで語った、遊牧・牧畜の有無というのも重要な要素になるが、繰り返しになるので、ここでは省略する。詳しくは、以下をご覧いただきたい。

ユダヤ人と日本文化のユニークさ(1)

ユダヤ人と日本文化のユニークさ(2)

ユダヤ人と日本文化のユニークさ(3)

ユダヤ人と日本文化のユニークさ(4)

ユダヤ人と日本文化のユニークさ(5)

ユダヤ人と日本文化のユニークさ(6)

ユダヤ人と日本文化のユニークさ(7)

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最もキリスト教から遠い国:キリスト教が広まらない日本02

2013年01月05日 | キリスト教を拒否する日本
日本文化のユニークさを8項目に従って、これまで書いてきたものを集約し、整理する作業を続けている。

続けて(8)「西欧の近代文明を大幅に受け入れて、非西欧社会で例外的に早く近代国家として発展しながら、西欧文明の根底にあるキリスト教は、ほとんど流入しなかった」に関する記事の集約、整理を行う。

日本文化のユニークさ23:キリスト教をいちばん分からない国(1)

キリスト教と同じ一神教であるイスラム教は、キリスト教との距離が近い。では中国文明はどうか。儒教のような中華帝国を成り立たせた観念は、キリスト教とはまったく別のものではある。しかし、日本の伝統的な生活態度や常識と比べれば、着想の基本的な部分でキリスト教と似たものをもっているという。

古代には一神教のほかにもほぼ同時期にさまざまな宗教が興っている。インドでは仏教、中国では儒教など。これらには共通点があり、それまでの伝統社会の多神教とは対立している。伝統社会の多神教は、日本では縄文時代の信仰や神道のようなもので、大規模農業が発展する以前の小規模な農業社会か、狩猟採集社会の、自然との調和の中に生きる素朴な信仰である。

日本社会では、先進国のなかでは唯一、そんな素朴な信仰が人々の心の無自覚な層にかなり色濃く残っている。だからこそ、キリスト教からはいちばん遠いし、キリスト教が分からない度合いもいちばん高いのだ。

日本以外のほとんどの場所(ユーラシア大陸のほどんどの文明)では、異民族の侵入や戦争や、帝国の成立といった大きな変化が起こり、自然と素朴に調和した社会は、あとかたもなく破壊されてしまう。その破壊の後に、ユダヤ教やキリスト教、仏教、儒教といった「普遍宗教」が生まれてくる。そういう「宗教」が生まれてくる社会的な背景が、日本にはなかった。日本は、それほどに幸運な地理的な環境に恵まれていたのだ。

日本文化のユニークさ23:キリスト教をいちばん分からない国(2)

狩猟・採集を基本とした縄文文化が、抹殺されずに日本人の心の基層として無自覚のうちにも生き続けている。それは、日本が大陸から適度に離れた位置にあるため異民族による侵略、強奪、虐殺など悲惨な体験をもたなかったからである。だからこそ、普遍宗教以前の自然崇拝的な心性を、二千年以上の長きにわたって失わずに心のどこかに保ち続けることができたのである。

「普遍宗教」などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配がほとんどなかったのは、民族間の熾烈な抗争を経験することなく、大帝国の一部に組み込まれることもなかったからである。

その結果、日本人の心はキリスト教からはもっとも遠くにあり、キリスト教をもっとも理解しにくい位置にある。縄文的な心性は、キリスト教的な一神教を容易に受け入れることはできない。だからこそ、西欧の近代文明を大幅に受け入れて、非西欧社会で例外的に早く近代国家として発展しながら、西欧文明の根底にあるキリスト教は、ほとんど流入しなかった。

「普遍宗教」以前の心性が今もなお無自覚なレベルで息づいている日本の社会が、近代文明をを学び受け入れた優等生でもあったという歴史の皮肉。そこに日本文化のユニークさとクールさの源泉がある。マンガやアニメに夢中になる世界中の人々は、たとえ無自覚にせよ、日本文化のこのパラドックスに夢中になっているのだ。

《関連図書》
ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)
日本の曖昧力 (PHP新書)
日本人の人生観 (講談社学術文庫 278)
古代日本列島の謎 (講談社+α文庫)
縄文の思考 (ちくま新書)
人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)
山の霊力 (講談社選書メチエ)
日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)
森林の思考・砂漠の思考 (NHKブックス 312)
母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)
日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)
アーロン収容所 (中公文庫)
肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公文庫)
日本人の価値観―「生命本位」の再発見

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キリスト教を拒否した理由:キリスト教が広まらない日本01

2013年01月04日 | キリスト教を拒否する日本
日本文化のユニークさ8項目に従って、これまで書いてきたものを集約し、整理する作業を続けている。8項目は次の通り。

日本文化のユニークさを8項目に変更

(7)「以上のいくつかの理由から、宗教などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配がほとんどなく、また文化を統合する絶対的な理念への執着がうすかった」に関係する考察は、とりあえず前回で打ち切りにし、今回からは8項目の最後にあたる

(8)「西欧の近代文明を大幅に受け入れて、非西欧社会で例外的に早く近代国家として発展しながら、西欧文明の根底にあるキリスト教は、ほとんど流入しなかった」に関する記事の集約、整理に入る。

日本文化のユニークさ01:なぜキリスト教を受容しなかったかという問い

日本人は、西欧の文物を崇拝し、熱心に学び、急速に吸収していったにもかかわらず、日本でのキリスト教の普及率はきわめて低く、今も人口の0.8パーセントを占めるにすぎない。なぜなのだろうか。

私たちが自覚していると否とにかかわらず、日本の文化には日本の文化なりの成り立ちや仕組みがあって、それと根本的に相容れないものは、受け入れてことなかったのであろう。あるいは、受け入れてきたものは、これも無自覚のうちに、日本文化の仕組みに合うように変形して取り入れて来たのかもしれない。

では、キリスト教とは相容れない日本文化の仕組みや構造とは何なのか。これは日本文化を考察する上ではきわめて大切なポイントになるのではないかと思う。

日本文化のユニークさ02:キリスト教が広まらなかった理由

日本にキリスト教が広まらなかった(現在も広まらない)要因をまとめると次のようになるのではないか。

(1)現代日本人の心には、縄文時代以来の自然崇拝的、アニミズム的、多神教的な傾向が、無意識のうちにもかなり色濃く残っており、それがキリスト教など一神教への、無自覚だが根本的な違和感をなしている。

(2)キリスト教は、遊牧民的ないし牧畜民的な文化背景を強くにじませた宗教であり、牧畜文化を知らない日本人にとっては、根本的に肌に合わない。絶対的な唯一神とその僕としての人間という発想、そして人間と動物とを厳しく区別する発想の宗教が、縄文的・自然崇拝的心性には合わない。

(3)ユーラシア大陸の諸民族は、悲惨な虐殺を伴う対立・抗争を繰り返してきたが、それはそれぞれの民族が信奉する宗教やイデオロギーの対立・抗争でもあった。その中で、自民族をも強固な宗教などによる一元支配が防衛上も必要になった。キリスト教、イスラム教、儒教などは多少ともそのような背景から生じ、社会がそのような宗教によって律せされることで「文明化」が進んだ。

しかし、日本はその地理的な条件から、異民族との激しい対立・抗争にも巻き込まれず、強固なイデオロギーによって社会を一元的に律する必要もなかった。だから儒教も仏教も、もちろんキリスト教も、社会を支配する強力なイデオロギーにはならなかった。

したがって、日本文化には農耕・牧畜文明以以前の自然崇拝的な心性が、圧殺されずに色濃く残る結果となった。要するにユーラシア大陸に広がった「文明化」から免れた。ヨーロッパで、キリスト教以前のケルト文化などが、ほとんど抹殺されていったのとは、大きな違いである。

以上が大雑把な枠組みだが、このほかにも考察すべき論点は山ほどある。日本文化とは何かを問うことが、人類の文明とは何かを問うことと同じになってしまうということは、驚くべきことだ。

これらの日本文化の特質(社会を支配する強力なイデオロギーがない、農耕・牧畜文明以以前の自然崇拝的な心性が存続する、かつ先進的なテクノロジーの国であるなど)が、マンガ・アニメにも、反映されており、それが不思議な魅力となって世界に受け入れられている。

日本文化のユニークさ03:縄文的基層を残すからキリスト教は広まらなかった

16世紀半ばに日本にもキリスト教が伝来する。しかしこの宗教は日本列島にはほとんど定着することができなかった。そのひとつの理由は、この時期に日本がキリスト教国による植民地化を免れたからだろう。つまり暴力的な押しつけができなかった。である以上、キリスト教が日本に広まることは不可能であった。キリスト教は、日本の基層文化にとってあまりに異質なために受け入れ難く、また受け入れやすく変形することも難しかったのである。

キリスト教は、形を自由に変えて受け入れることを拒む強固な原理性をもっている。日本に合うように形を変えてしまえば、それはもはやキリスト教とは言えないのである(正統と異端の問題)。仏教が、原始仏教と大きくかけ離れても仏教でありうるのとは好対照をなしている。

西洋文明は、キリスト教を背景にして強固な男性原理システムを構築した。それはしばしば暴力的な攻撃性をともなって他文化を支配下に置いた。男性原理的なキリスト教に対して縄文的な基層文化は、土偶の表現に象徴されるようにきわめて母性原理的な特質を持っている。その違いが、日本人にキリスト教への直観的に拒否反応を起こさせたのではないか。

一神教は、砂漠の遊牧文化を背景として生まれ、異民族間の激しい抗争の中で培われた宗教である。牧畜・遊牧を知らない縄文文化と稲作文化とによってほぼ平和に一万数千年を過ごした日本人にとってキリスト教の異質さは際立っていた。キリスト教的な男性原理を受け入れがたいと感じる心性は、現代の日本人にも連綿と受け継がれているのである。

日本文明は、母性原理を機軸とする太古的な基層文化を生き生きと引き継ぎながら、なおかつ近代化し、高度に産業化したという意味で、文明史的にもきわめて特異な文明なのである。

日本発のマンガ・アニメは、その特異さ、ユニークさを何らかの形で反映した、不思議な魅力を放つがゆえに、世界に受け入れられたという面があるのではないか。

《参考文献》
古代日本列島の謎 (講談社+α文庫)
縄文の思考 (ちくま新書)
人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)
山の霊力 (講談社選書メチエ)
日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)
森林の思考・砂漠の思考 (NHKブックス 312)
母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)
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