団塊的“It's me”

コキロク(古稀+6歳)からコキシチ(古稀+7歳)への道草随筆 2週間ごとの月・水・金・火・木に更新。土日祭日休み

在京高校同期会

2024年03月04日 | Weblog

  16日金曜日、東京の新橋で高校の在京同期会があった。脚の調子が悪いので欠席しようと思った。しかしコロナの3年間を何とか生き抜くことができ、喜寿を迎える喜びを、同期生と分かち合えたらと、思い直して参加した。

 会は、午後1時からだった。午前中、都内の出版社と新しい出版物に関する打ち合わせをして、会場に向かった。新橋の会場の店を探すのに手間取った。脚が痛くて、途方にくれていると、幹事のIさんが目の前に現れた。迷っている者がいるのではという、彼の気配りで救われた。

 今回の出席者は、16名だった。4年前にはもっと多くの出席者がいたのだが、年齢的にいろいろな事情を抱えているのであろう。かつて城山三郎が『無所属の時間で生きる』の中で、「同級会同窓会には恵まれた人たちが集まる」と書いた。今回集まった面々も、少なくとも健康と体力に恵まれた者であることは、間違いない。

 私がこの会で楽しみにしているのは、一人ひとりが近況報告をすることである。これも幹事のIさんの意向が反映されているように思われる。高校の同期生ということは、まず年齢がいっしょである。76歳になるまで歩んできた時間は同じ。高校3年間を同じ学校で学んだ。卒業後のそれぞれの人生は、まったく異なる。進学した大学も、結婚も、子どもを育てたことも、同期生として知る由もないそれぞれの世界に身をおいた。この共通する高校での3年間という時間で、人はここまで素直に懐かしんで戻れることが不思議だ。私が思うに、高校時代、進路が決まっていない白紙の状態で迷って悩んでいた時間が、連帯感を生んだのではないだろうか。一人ひとりの近況報告は、それぞれの人生の歴史を、ほんの少しずつ垣間見せてくれる。秀才と言われた人、スポーツで輝かしい戦果をあげていた人、出世した人、会社を興して成功した人。でも皆歳をとった。頭髪が薄くなった人、キレイに白髪になった人。年齢がここまでになると、高校の成績も、合格卒業した大学も、入社入所した役所も教えた学校も、関係がなくなる。76歳の老人たちが、高校時代の人生の白紙状態の若者に戻れる時間は、その後の人生を飛び越え、まるで黒澤監督の映画『夢』の世界に迷い込んだ気にさせる。

 今はほとんど第一線から退いている。参加者の一人は、いまだ現役で自分の会社を経営している。そういう状態なので、どんな話を聞いても、羨ましいとか妬ましく思うこともない。若い頃は、何かにつけて他人と比較して、舞い上がったり落ち込んだりの連続だった。2月24日のBS日本テレビの『イタリアの小さな村』でラツィオ州のチェルヴァーラ・ディ・ローマ村の元精肉店経営の88歳のオラッツオ・プロイボティさんが「幸せとは自分が持てないものを羨ましく思わない事だよ」と言っていた。小学校も満足に行くことができなかった彼の言葉は重かった。私は、自分の父親と彼を重ねた。私はやっとこの年齢になって、オラッツオ・プロイボティさんの言う事が、理解できるようになった。同期会で会った同期生は、今は羨ましがる相手でも比べる相手でもない。一緒に年齢を重ねる同輩である。来年また同期会で顔を合わせることを楽しみにしている。

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