毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「海ゆかば いろいろ」No.2300

2018-06-26 22:47:53 | 

  

   ♪海ゆかば 水漬く屍 山ゆかば 草生す屍  

       大君の辺にこそ 死なめ かへり見はせじ♪ (大伴家持)

 

前川元文科相事務次官が少年時代に、

軍歌とフォークソングを相次いで好きになったという話を聞いて、

思い出したのが『海ゆかば』にまつわるエピソードです。

私は、「軍歌」という言葉そのものは、聞いただけでげっそりするのですが、

そのジャンルに含まれる歌は、実はそうでもないのです。

特に、♪どこまで続く ぬかるみぞ 三日二夜 食もなく~♪

と ♪海ゆかば 水漬く屍~♪ は、

何かのとき、例えば、

アベ政権の支持率が少しでも上がったりした時、

ふいに口をついて出るほど心に入っています。


今から5年ほど前に前任地の江西省南昌市で、

博堅先生という中国人の方に出会いました。

南昌市内の八一公園では、毎週末、

「日語角」(日本語コーナー)という青空日本語教室が開かれていましたが

(今も続いているはずです)、

1980年代にその教室を始めたのが、博堅先生です。

先生は1933年福島で生まれ、11歳まで福島の地元の小学校に通っていました。

日中戦争が勃発すると、中国人である両親は当局に目をつけられ、

憲兵が家に来て、

「天皇陛下万歳をしろ」と、

父親の両腕を持って、むりやり万歳をさせるのを

小学生の博堅さんは目の前で見ていました。

博堅さんも学校の帰りにいじめっ子たちに襲われ、

チェーンで叩かれたり、

制服のボタンを全部引きちぎられたりして、

泣いて帰ることも多かったそうです。

1944年、迫害が酷くなり、博堅さんのお父さんは

職場の福島高等商業学校(現在の福島大学経済学部)を退職し、

一家は中国に帰りました。

そんな経歴を持つ博堅先生と南昌でたまたま知り合い、

個人史を伺う機会が何度もありましたが、ある時、先生がふっと、

♪海ゆかば 水漬く屍  山ゆかば 草生す屍

   大君の辺にこそ 死なめ  かへり見はせじ~♪

と歌われたのには仰天しました。

福島の小学生時代、町でよく聞いた歌なので自然に覚えてしまったとのこと。

軍人が亡くなって戻ってきたときはその歌で出迎えたのだそうです。

それを歌われた時は確か80歳でした。70年前の記憶です。

博先生は他にも『満州開拓の歌』や、果ては『君が代』まで

全部覚えていて、朗々と歌ってくださいましたが

それはまた今度ね。


もう一つ、これはネットで見つけた文の一部です。

全文読むと涙が出ます。可笑しくて。

         ーーーーーーーーー
 
むかし、徳島県板野郡にあった、さる国民学校でのお話です。 

戦時中の国民学校では、何かというと宮城(皇居)遥拝だとか、

校長先生の読む教育勅語を黙祷姿勢で拝聴するとか、
君が代の斉唱、

紀元節(建国記念日)の歌から天長節(天皇誕生日)の歌、明治節

(明治天皇の誕生日)の歌なども斉唱して皇室をめていました。  

戦況が不利になってきて、相次ぐ玉砕の報に接したその国民学校では、

死者を悼もうと全校生徒を集め、「海行かば」を、斉唱することに

なったのです。 

ところが運の悪いことにこの学校には、顏がカバとそっくりの怖い

先生がいて、生徒たちは彼を「カバ」と呼んで恐れていました。

お察し通り海行かば
の歌詞には「カバ」が四匹も出てきます。

♪ 海行カバ 水漬くカバね  山行カバ 草生すカバ~~♪

生徒達はカバの所だけ声を大にして日頃の鬱憤を晴らすのでした。

これを晴らすメント」と言うのだそうで…。」

「海ゆかば 向田邦子」より:元朝日放送アナウンサー 上田 博章
http://weddson.my.coocan.jp/umi.html


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【沖縄の願い】「生きる」慰霊の日に  No.2299

2018-06-26 00:27:27 | 我が心の沖縄

慰霊の日での平和の詩「生きる」、

中学3年生の相良倫子さんが、

「戦力という愚かな力を持つことで、 得られる平和など、本当は無い」

と朗読した時、カメラはちょうどアベ首相を捕らえました(グッジョブ)。

無表情にスルーした首相。

おそらく、いつものように聞いていなかったんでしょう。

それとも、中学3年の女の子の渾身の朗読を

(こんな人たちに負けるわけにいかない)と思っていたのかも

 

中3の相良倫子さんは、

弾丸のようにストレートに朗読し、胸に響きました。

皆さんなら、どう読みますか。

ぜひ、ご自身で声に出して読んでみてください。

(私も、既に何回も読みました。沖縄の子になった気持ちがしました)


【沖縄の願い】平和の詩 「生きる」慰霊の日 2018

沖縄全戦没者追悼式 平和の詩 沖縄県浦添市立港川中学校3年 相良倫子さんが朗読されました(2018.6.23)


私は、生きている。

マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、

心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、

草の匂いを鼻孔に感じ、

遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。

 

私は今、生きている。  

私の生きるこの島は、 何と美しい島だろう。

青く輝く海、

岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、

山羊の嘶き、小川のせせらぎ、

畑に続く小道、萌え出づる山の緑、

優しい三線の響き、照りつける太陽の光。  


私はなんと美しい島に、 生まれ育ったのだろう。  

ありったけの私の感覚器で、感受性で、 島を感じる。

心がじわりと熱くなる。  

私はこの瞬間を、生きている。  

この瞬間の素晴らしさが この瞬間の愛おしさが

今と言う安らぎとなり 私の中に広がりゆく。  

たまらなく込み上げるこの気持ちを どう表現しよう。

大切な今よ かけがえのない今よ 私の生きる、この今よ。


七十三年前、 私の愛する島が、死の島と化したあの日。

小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。

優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。

青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。

草の匂いは死臭で濁り、 光り輝いていた海の水面は、 戦艦で埋め尽くされた。

火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、 燃えつくされた民家、火薬の匂い。

着弾に揺れる大地。血に染まった海。

魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。

阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。  


みんな、生きていたのだ。

私と何も変わらない、 懸命に生きる命だったのだ。

彼らの人生を、それぞれの未来を。

疑うことなく、思い描いていたんだ。

家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。

仕事があった。

生きがいがあった。

日々の小さな幸せを喜んだ。

手をとり合って生きてきた、 私と同じ、人間だった。

それなのに。 壊されて、奪われた。


生きた時代が違う。

ただ、それだけで。 無辜の命を。

あたり前に生きていた、あの日々を。  

摩文仁の丘。

眼下に広がる穏やかな海。

悲しくて、忘れることのできない、この島の全て。


私は手を強く握り、誓う。

奪われた命に想いを馳せて、 心から、誓う。  

私が生きている限り、

こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、

絶対に許さないことを。

もう二度と過去を未来にしないこと。

全ての人間が、国境を越え、人種を越え、宗教を越え、

あらゆる利害を越えて、平和である世界を目指すこと。

生きる事、命を大切にできることを、 誰からも侵されない世界を創ること。

平和を創造する努力を、厭わないことを。

 

あなたも、感じるだろう。

この島の美しさを。

あなたも、知っているだろう。

この島の悲しみを。

そして、あなたも、 私と同じこの瞬間(とき)を 一緒に生きているのだ。  

今を一緒に、生きているのだ。  

だから、きっとわかるはずなんだ。

戦争の無意味さを。

本当の平和を。

頭じゃなくて、その心で。

戦力という愚かな力を持つことで、得られる平和など、

本当は無いことを。

平和とは、あたり前に生きること。

その命を精一杯輝かせて生きることだということを。  


私は、今を生きている。

みんなと一緒に。

そして、これからも生きていく。

一日一日を大切に。

平和を想って。平和を祈って。

なぜなら、未来は、 この瞬間の延長線上にあるからだ。

つまり、未来は、今なんだ。  

大好きな、私の島。


誇り高き、みんなの島。

そして、この島に生きる、すべての命。

私と共に今を生きる、私の友。私の家族。  

これからも、共に生きてゆこう。

この青に囲まれた美しい故郷から。

真の平和を発進しよう。

一人一人が立ち上がって、 みんなで未来を歩んでいこう。  

摩文仁の丘の風に吹かれ、 私の命が鳴っている。

過去と現在、未来の共鳴。


鎮魂歌よ届け。

悲しみの過去に。

命よ響け。

生きゆく未来に。

私は今を、生きていく

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする