雲は完璧な姿だと思う。。

いつの日か、愛する誰かが「アイツはこんな事考えて生きていたのか、、」と見つけてもらえたら。そんな思いで書き記してます。

喫茶去(きっさこ)2

2017-08-22 21:03:22 | 不思議...パワスポ寺社
今まで譲れていたものが、

いつの頃からか譲れなくなっている。

そんな自分に気付く。

気付いていても、

そんな自分をどーにも変えられない。

はて?

何故でしょうか?

何かを手にし、傲慢になってしまったからなのか。

手にしたもので、

譲る必要性など無くなってしまったからなのか。

何かの嫉妬からくるものなのか。

はたまた、

いつからか相手を敵とみなす様になってしまったからなのか。

それら色々な可能性をひっくるめて、

本来真っ直ぐだったものが捻れてしまったからなのか。

捻れが......

どうしても取れなかったから......なのか......



大阪、堺市。千利休屋敷跡。
利休さんとは勿論、茶道界の偉人。茶聖。
所謂「裏千家」「表千家」の家元ともなる様な方。



今年の7月の末。
僕は神様の言葉に導かれるままに、この場所を訪れました。

堺の街で僕が一番感じてしまうことは、
切腹を言い渡されて亡くなった利休さんが残した
あまりにも痛ましい思念。
そして意外なことに、その切腹を命じた張本人で、
元は盟友でもあった「豊臣秀吉との和解」という、
痛ましさとは真反対にあるような利休さんの望み。
堺の地の表層部分には、
いつも利休さんのそんな複雑な想いが入り混じり、
そこかしこに、
そこはなとなく漂っている様に思います。
堺という地の影なる部分。
ポンチキ能力甚だしいプリリンねーさんも、突然、

「◯◯◯の神が、堺に来て!だってぇ。
場所はuzmetならわかるだろうって」

などと涼しげに言ってきやがりまちて......
個人的には上記したような不穏な理由もあって
「気になってはいたけれど避けていた」
利休さんの生家跡地に行ってみる、と、
すぐ隣にはヤタラと目立つ、真新しいモダンな建築物......
「さかい堺利晶の杜(りしょうのもり)」なんかもあって。



利休さんは堺市の有力商人の家に生まれたそうです。
当時、この国随一の貿易都市であった堺市で、
利休さんは様々な物品や文化、
渡来人も含めた多様な人々に触れながら育ちます。
彼の類い稀なる「美の感性」は
そんなところからも磨かれていったのだと思われます。
そんな感性は、やがて、
当時の天下人「織田信長」に見出され。愛され。
それはそのまま信長の忠臣、豊臣秀吉にも引き継がれました。
秀吉の世においては
「茶人」としては後にも先にも例がないほどの
名声と権威を手に入れ。
秀吉政権の中心人物であった「豊臣秀長」が
訪れる客人達に語っていた事として、
こんな言葉も残されています。

「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」

この時代、
利休さんはそれほど迄に力を持っていたようです。
戦国時代、鉄砲の製造技術を始め、
当時最先端の用具や用品の製造技術や職人を
寡占的に有していた堺という街は、
戦における武器卸の様な地位も固めていて。
その為、全国でも特別な
独立国家的な自治権も認められていたという貴重な地。
ちょうど江戸時代における長崎の出島、
と言えば分かりやすいのでしょうか。
そんな地に深いコネクションのある利休さんは
「茶の湯」以外にも
権力者達に重用される様な事が沢山あったのだと思います。
信長は勿論、秀吉にも愛された理由には
そんな部分もあったのかも知れません。
もはや「茶人」の域を超えた人物。
しかしその最期は、意外にも、
仲の良かった天下人、秀吉を怒らせたことによる
切腹命令でした。

何故?

秀吉さんは友人にそんな命を下したのか?

原因は諸説あり、定まってはいない様なのですが、
その大きな因とも言われているのは、
利休さんのホームグラウンド的寺院だった京都、
大徳寺の三門(山門)の上に置かれた木造の「利休像」。
寺に多大な寄付をしていた利休さんに、
住職さんが感謝の意を込めて置いたものだったらしいのですが、

「秀吉は勿論、
高貴な方々が通る三門の上に自分の像を置くとは何事か!」
皆が利休の股の下を通るというのか!」

そんなクレームが入ったとか、なんとか。
正確には、
秀吉さんは詫びを入れる機会を設けいたらしいのですが、
利休さんはソレに応じず。
京の町を出て、故郷、堺の街にスッと、
引っ込んでしまったようなのです。
そこには利休さんの
秀吉さんへの然りげないメッセージがあるようにも......
思えますが......
ともかくそんな出来事もあって秀吉さんは激怒。
利休さんに切腹の命を下したのだそうです。
利休さんはそれに逆らう事なく、
潔く、自害を決めた......と。
そう、今に伝わっています。

そして、堺を訪れた日の翌日。
僕はその京都「大徳寺」の「三門=金毛閣(こんもうかく)」 へと、
利休さんの「残留思念」的なモノに導かれ、向かいました。
実は、堺の生家跡でガイドの人に
「今もココに木製の利休像が置かれていまして......」
と、写真を見せられながら丁寧な説明を受けてしまったから......
と、いうこともあります。



堺のガイドの方から伺ったところでは、
今ある利休像は岡山の方から寄付されたもので、
本来のものではないとのことでしたが。
本来の利休像は、利休自害の後、
京都、一条、戻り橋に利休の首とともに晒された後、
そのまま焼かれたとも、捨てられたとも、
利休さんの子孫「裏千家」が現在も保管しているとも......
色々と言われているようです。



利休さんに心ばかりの花と「金の烏龍茶」を......
ズッコケルような!?お安いお茶!ですが、
そこは秀吉さんの作った「黄金の茶室」からくる意味もありまして......
利休さんは秀吉が作った総金箔の茶室を

「美が無い」

.....と非難したとも......
伝わっていますので......
金のお茶というのは、つまり、
僕なりの「和解のお茶」というシルシなのです......ね(´-ω-`;)ゞポリポリ



しかし、とんでもなく驚いたことに、
神様に呼ばれるがまま寄ってみたこの日は、
なんと、利休さんの命日......



利休さんの命日というのは、
正確には2月28日なのだそうですが。
現在の大徳寺では毎月28日を「利休忌」と定め、
院内の多くの寺院で
利休さんを偲んだお茶会が開かれるのだそうです。
全国から沢山の茶道関係者の方々が集まる日でもあるそうで、
そんな日に.....
僕は偶然!?
訪れてしまったのです......
そして、その衝撃は僕にまたまた予定外の思いを喚起させました。
それは......

「秀吉廟にも......行かないといけないな......」

僕は大徳寺からそのまま、
豊臣秀吉の霊廟(れいびょう)となっている
東山山系の南の端へと向かいました。
そこには秀吉を神として祀る「豊国神社」があり、
意外と知られていないのですが、
その神社の最奥地「阿弥陀ヶ峰」の頂上には
秀吉が埋葬されたお墓......霊廟......があります。
この写真の坂道の向こうに見える山がそうなのですが、
標高は190メートル以上。



最下にある豊国神社から奥宮も回って、
墓碑へと辿り着くには、長い坂道を歩いた挙句、
最後に恐ろしく長い階段を登ることになります。
この階段が普段から人を全く寄せ付けません。



休日なのに誰もいません。
よほどの気持ちと体の準備とマゾヒスティックな人でなければ
ここに行こうとはマズ思わないと思います。
それぐらい長い階段で、大きな墳墓。



山頂のお墓。



秀吉さんのお墓は高野山にもありますが、こちらが大元。
秀吉さん自身の遺言に従って作られ、
その後、徳川氏の時代に一度壊され、
もう一度、人々によって再建されました。
僕はこちらにも利休さんと同じ「金のお茶」を持って行きました。



なぜ、二人は反目しあわなければいけなかったのか......

本当は一番認め合っていて、

一番気になっているもの同士で、

敬愛していたもの同士だったはずなのに、

なぜ?

許し合えなかったのか......



「まぁ、一服、お茶をどうぞ」

......喫茶去(きっさこ)。

偉大なる禅僧、趙州禅師(じょうしゅうぜんじ)の魔法の言葉が頭をよぎりました。

「お二人で、お茶を、どうぞ」

二人は、なんとなく、

少し距離をとりながらも、向かい合って座り、

そして......

お茶を飲みだしたように思えました。

これから少しづつ......

色んな話をしていってくれればいいな、と。

そんな少々倒錯的で錯覚的!?

な気持ちを感じながら僕は秀吉廟を降りました。

キ◯ガイ!と言われそうですが、ま、そんな人にも......

まぁ、お茶を、一杯(^^)

どぞどぞ。



京都から戻ったスグ翌日。近所の駅に向かう僕の頭上に......
お茶道具の箱を小脇に抱えた利休さん!?がご挨拶に?
と、そこに!
太陽を背にした和合の女神、ククリ姫さんが......!?



写真のイメージにピッタリ!
の星野剛さんのイラストをお借りしまして......



北陸、霊峰、白山の偉大なる女神。
菊理姫。きくり姫。白山姫......
喧嘩したイザナギさんとイザナミさんをも仲直りさせた女神様。

「くくり直しましょう。
私が力を貸しましょう」

くくりさんを唖然として見ている最中、
今度は千葉のみゆき嬢から突然のラインが......

「神様たちが来てます!」
「利休さんとキクリ姫様だと思います!」

もう、驚くのを通り越し、
宇宙の彼方にすっぽんぽん......ですけど......まいど......

でも、どうやら秀吉さんと利休さんは......

良い方に行っている様でございます。

必要な時間を、必要なだけかけて、

ゆっくりと溶けていったらいいなぁ、と。

僕などには到底、力の及ばない世界の話でございます。





おまけ。
開口神社(あぐちじんじゃ)。
堺の地の中心地は仁徳天皇陵!......でなく、
ここではないかと思います。
今回はククリさんのご登場含め、
コチラの神々にお力をお借りしました。
感じるに、トテーーーモ古い神社さんで。
神話時代と呼べるくらいの昔は、
旗神社
と呼ばれていたように......思います。
堺の深層部分!?を司る神社さんなのではないか、と。
世界文化遺産登録への推奨など、
最近の堺市の良いニュースを見ると、
利休さんと秀吉さんを思い出したりもします。(^^)


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10 コメント

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さかいみなと (プリリンねーさん)
2017-08-23 07:16:25
堺に行って欲しいと言われていたのは、今年ではなく、もっと前だったと思い出しました。

住吉から堺は近いとも、思っていなかったので、タイミングの良さを感じました。
時代は、幾重にも重なって私達に伝えてくるのでしょう。

千利休については、知らなかったことを教えていただき、ありがとうございます。

元はと言えば、豊臣秀吉のお墓のアゲハからの話でしたね。

和解が出来たようで、良かったです。
返信する
Unknown (kiha)
2017-08-23 08:50:32
お久しぶりです、岩手のkihaです。😌

ククリヒメ様の写真、去年の秋に丹内山神社に行った帰りに、まさにあんな感じの雲が現れたのです!おまけに彩雲でした!(≧∇≦) なんとなく漠然と「天女」と浮かびましたが、ククリヒメ様だったのかな?(*^^*)
返信する
プリリンねーさんへ。 (amenouzmet)
2017-08-23 13:09:24
あくまで僕の役割分のお話だと思います。
利休さんも秀吉さんも、他にも大勢、それぞれの縁と分担を背負って役割を果たしている人達がいると思います。
返信する
kihaさんへ。 (amenouzmet)
2017-08-23 13:13:13
どもどもー(^ω^)
そーですねぇ...ククリさんは和合の象徴でもあるので、蝦夷と大和の因縁深い地ですから、ククリさんの印であれば良い話ですね。
返信する
なんとも (アンネン)
2017-08-23 16:11:35
心のかるくなるお話しでした~(^^)
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アンネンさんへ。 (amenouzmet)
2017-08-23 16:41:01
軽くなったら良いですねぇ(^^)
返信する
譲れない部分 (いのうえい)
2017-08-23 18:52:10
天下人秀吉と商人、茶人でありながら大きな影響を秀吉に与えた利休。超一流同士があいまみえた時にお互いに引くに引けない部分があったのではないかと?譲れない部分が。天下人に背を向けれはどうなるか利休も十二分にわかった上で。

利休は武士でもないのに打ち首でなく切腹を命じられたところに当時、多方面にわたり影響を与えた人物であることが伺えます。

今は別世界でお互いに仲良しならそれはそれで良いことです。

史実と異なるかどうかは調べてないですが、少年ジャンプに掲載されていた花の慶次にも利休や千道安が出ていたので子供の頃から名前は目にしていました。
返信する
いのうえいさんへ。 (amenouzmet)
2017-08-23 19:50:41
それはそれで良いことですね(^ω^)
返信する
Unknown (あくえり)
2017-08-23 21:32:01
10年も前でしょうか。
表千家の研修で、大徳寺山門の上層部に入ることが出来まして、利休像を拝見しました〜。

と、ねーさんブログでコメントしようかと思ったのですが、なんか違うとウロウロていたら、こっちでしたね(^_^)

分かるけどさー、そろそろどう?
って思いまちたてへ(^_^)
返信する
あくえりさんへ。 (amenouzmet)
2017-08-23 22:02:01
表千家だったのですね!すげーっす。
御手前拝見!(^^)
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