新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

新潟まで日帰り遠征してきた (後編)

2021-05-18 13:10:05 | 旅行記

「新潟まで日帰り遠征してきた (前編)」のつづきです。

新潟到着からライヴ会場行きのバスが出るまでの3時間弱手持ち無沙汰になりそうなところで思いついた訪問先が、白山公園にある新潟県政記念館でした。

この記念館は、18年前にこれまた白山公園内にある新潟県民会館での「MISIA星空のライヴⅡ」に来たとき、名称も来歴も知らぬまま、その佇まい興味を惹かれたたという過去がありました。その後、調べると、この建物は、明治初期新潟県会議事堂として建てられた由緒あるもので、現在は史料館として一般公開されていることを知りました。
今回は、2007年1月(朱鷺メッセでのTHE TOUR OF MISIA 2007 ASCENSIONへの遠征) 以来となる万代島美術館に行ってみようかと思ったところ、ちょうど展覧会の端境期休館中ということで、それならば、新潟県民会館との再会を兼ねて、新潟県政記念館に行ってみよう と思い立った次第です。

   

白山駅で撮った近隣地図を頼りに、

クルマも人通りも少ない妙に広い道をテクテクと歩くこと約20分白山公園に到着。
県民会館工事中ということで、ぐるりと回り道して、でも、「What's NiiGATA」のモニュメントにマイケルを見つけるなどして、

さらにりゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館を回り込むと、ありました

新潟県政記念館です ただし裏側

いそいそと正面に廻り、写真を撮って、入場

と、その前に、入口前にあった案内板を転記しましょ。

重要文化財 新潟県議会旧議事堂
この建物は、新潟県会議事堂として明治16年(1883)3月に建てられ、昭和7年(1932)までの50年間、ここで県政の審議が行われました。
設計監督は大工棟梁星野総四郎で、正面玄関の両翼に大きな切妻屋根の棟を張り出し、屋上中央に八角尖塔を構えた堂堂たる建物です。西洋の建築技術や様式を意欲的に取り入れた、いわゆる洋風建築の代表的なもので、建物の隅や窓枠の石組み、軒回りの垂飾り、棟端の擬宝珠形の妻飾りや破風板の刳形などの意匠にその特色がうかがわれます。
内部は、正面の二階が知事室・議長室、向かって右側の棟が議場、左側の棟が議員控室・傍聴人控室などとなっていました。
明治初めの府県会開設期の議事堂としては現存唯一の遺構で、わが国の建築史上極めて貴重な洋風建築として、昭和44年(1969)年3月、重要文化財に指定されました。

なるほど~。これを読んだだけでも、現地にやって来た意義を感じます。

と、議事堂が建てられたのが1883年ってことは、帝国議会開設の7年前から現在でいうところの地方議会があったということ?

Wikipediaによると、

廃藩置県以後、各府県で府県会・民会・区戸長会などの名目で地域代表による諮問機関が設置されるようになっていたが、1878年(明治11年)府県会規則が制定されると、翌年より同法に基づいた府県会が各地に設置された。府県会の設置は、大阪会議の際、木戸孝允が要求した政綱の一つであった。したがって府県会は1890年(明治23年)に設立された帝国議会よりもに設置されたのである。

だそうな。

さて、最初の展示室(旧 傍聴人控室)には、主にこの建物に関する資料が展示されていました。

そして、「新潟県会議事堂の創立者」として紹介されていたのが、1875~1885年に3代目新潟県令としてご活躍された永山盛輝さんでした。
そしてそして、「永山盛輝の治績を語る 明治洋風建築」と題するパネルの右上に載っているのが、

松本市にある開智学校です
擬洋風建築代表格で、2019年10月には国宝に指定された開智学校の写真がどうしてここに載っているんでしょ。

2015年7月の信州遠征(MISIA星空のライヴVIII -MOON JORNEY- 上田公演からのハシゴ)で旧開智学校を見物したさい(記事)に入手したリーフレットによれば、

現存する重要文化財(当時)の校舎は明治8 (1875)年4月に工事が始まり、翌9年4月に完成しました。教育を(筑摩県の)立県の指針とし、文明開化政策を推し進めた筑摩県参事(知事) 永山盛輝が計画し、地元松本の大工棟梁立石清重が設計・施工しました。

とありまして、竣工時には既に新潟県令として転出していた永山さんが、開智学校「計画」したのだそうな。

【ご参考】松本市の旧開智学校は、耐震工事のため、来月(21年6月)から24年秋頃まで休館するそうです。

   

展示の中で新潟に土地鑑の無い私にとって一番面白かったのは、明治~昭和初期の新潟市の地図でした。
まずは明治23(1890)年

つづいて昭和5 (1930)年の地図の復刻版。

新潟駅周辺は閑散として、信濃川左岸が新潟の中心部であることがよく判ります。
(ブラタモリ「#45 新潟~新潟は“砂”の町!?~」(16/7/30放映)も勉強になりました)
そして、現在の白山公園信濃川に囲まれた「小島」みたいな地だったことも。

そして、新潟駅の北東側にもまとまった街があります。
この地区は「沼垂」「沼垂」と書いて「ぬったり」と読ませるのは、けっこうな難読地名です。
帰ってから調べてみると、この「ぬったり」という地名は、さかのぼると、日本書紀「大化三年(647年)渟足柵を造りて柵戸(きのへ)を置く」とある「渟足柵(ぬたりのき)」に至るらしいのだとか。
飛鳥時代にこの地域にまで大和朝廷の権威が及んでいるとは、根拠無しながらも 疑ってしまうのですが、かなりかなり古い地名であることは確かですな

   

さてさて、旧新潟県会議事堂のメイン、議場見ものでした

まずは、傍聴席だった2階から議場を見下ろします。

 リーフレットによると、

東京府京橋区木挽町の明治会堂に範を取ったという。
屋根裏はクイーンポストトラスという洋風小屋組みが施され、幅広い空間を支えている。

だそうです。
「木挽町の明治会堂」って、寡聞にして初めて聞く名前の施設が登場しました。
木挽町といえば、私が長らく働いていた地区なのに…
明治会堂について、こちらのサイトから、中央区銀座3丁目14番に中央区教育委員会に設置している説明板を転記すると、

明治会堂は、明治14年(1881)福沢諭吉の発案により建設された演説会場です。瓦葺き木造2階建て、建坪約620㎡の擬洋風建築で、福沢の親戚である藤本寿吉により設計されました。(中略)
左の錦絵「明治会堂之図」の説明文に「会場の広間は3千人を容れ、食堂には2百人の席を設くべし。講義室あり事務室あり結構至らざる所なく実に東京一の会堂なり」とあり、当時としては、会食もできる東京随一の演説会場で、政策演説をはじめ、各種演説・行事が頻繁に行われました。(中略)
明治15年末に福沢の所有から農商務省の手に渡り、明治17年には厚生館と改称されて使用されましたが、明治23年(1890)に民間に払い下げられた後、大正12年(1923)関東大震災で焼失しました。

だそうです。
「関東大震災」で思い出しましたが、旧新潟県会議事堂は、1964年6月の新潟地震(新潟市は震度5)にも耐えたんですな…

で、1階に降りて議場に入ります。
まずは、議長目線からの眺め。

つづいて、知事目線からの眺め。

現在の一般的な議場と違って、自然光がたっぷりと室内に入って明るい
そして、傍聴席を支える鋳鉄柱けなげに美しい

すごく開放感にあふれた気持ちの良い議場なんですが、ふと、デモ隊が議事堂前でシュプレヒコールをあげたらやかましいのではなかろうか? と思いました。

でも、議事堂前の広い道の「一番堀通り」という名前から想像できるように、かつてはこの道はだったのだそうで、堀の対岸から叫ばれる分には、議事にはさほど影響が無かったのかもしれません

ということで、約30分間にわたって新潟県政記念館を見学して、今回の遠征唯一「観光」を終えたのでありました。
いやぁ、楽しかった

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