新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

約1か月ぶりの東京国立博物館(後編)

2015-12-06 19:43:49 | 美術館・博物館・アート

「約1か月ぶりの東京国立博物館(中編)」のつづき。

最初に紹介するのは水滴です。

水滴といってもこちら東京都水道局のマスコット)ではなく、

書道で使う水差しのようなもの。

作品たちが繊細かつかわいらしいし、展示の仕方もステキです。
これらは、平安~安土桃山時代の作品だとか。

ところで、「水滴くん」のプロフィールを見ると、

出生地    笠取山(かさとりやま)山頂付近

だそうです。
「笠取山」といえば、「前編」で登場した、

「雨降れば 笠取山のもみじばは 行きかふ人の 袖さへぞ照る」(『古今和歌集』秋)

笠取山?

そんなことはなくて、東京都水源のひとつになっている奥秩父の笠取山のようです。

   

お次は、目にも鮮やか火事装束

火事装束といえば、赤穂浪士が討ち入りの時に来ていたのも火事装束でしたが、この派手さはなんでしょ

江戸屋敷に在住する大名家では、男性だけでなく女性も、江戸の火事に備えて火事装束を調えた。鮮やかな羅紗地に刺繍を施し、あるいは燻革(ふすべかわ)を用いた兜頭巾を着し、羅紗の羽織に織物の袴で登場。火事場の活躍よりもむしろ火事装束の華やかさを競った。

だそうですが、「火事場の活躍よりもむしろ火事装束の華やかさを競った」というのはいかがなものか…
もっとも、「火事と喧嘩は江戸の華」なわけですし、燃えるときは燃えるし、燃えないときは燃えないことを思えば、いっそ楽しんじゃえ ということなのでしょう。

「せっかく火事装束を新調したんだから、早く火事が起きないかしら」なんて不謹慎な期待をしたご婦人がいたかもしれませんな

赤穂浪士」が出たついでに、こちらの作品を。

歌川国貞(三代豊国)「三代目沢村宋十郎の大星由良之助」です。

斜に構えたポーズといい、トリミングといい、色遣いといい、すごく洗練されたデザインで、現代のイラストレーションだと言われても信じてしまいそうです。

 いや、お見事

次は、シンプルながらも豪華「獏南天蒔絵枕」

大名家の婚礼の際、床入りの儀式に用いられた祝いの枕。片方の側面に悪い夢を喰うとわれる、もう一方の側面には、その音が「難転」に通じ厄払いの効能があるとされた、南天を描く。いずれも魔除けの意味で、初夜の床を飾る枕に描き込まれたものであろう。

なんですが、を崩さないためとはいえ、よくぞこんな枕で寝られたものです
ちなみに、手前の枕には「三つ葉葵」紋、奥の枕には「三つ葉葵」紋菊花紋が描かれていました。将軍家と天皇家の婚儀に関わるものなのでしょうかねぇ

   

もう二つ「おめでたい品」を紹介しましょう。

まず、このブログに何度も登場した犬筥です。

何度観ても、面白い顔です。少なくともには見えませぬ

もう一つは「嫁入り道具」「貝桶」

貝桶というのは、「貝合わせ」用の貝を入れる一対の桶で、「貝合わせ」というのは、Wikipediaから引用しますと、

江戸時代の貝合わせは、内側を蒔絵や金箔で装飾されたハマグリの貝殻を使用する。ハマグリなどの二枚貝は、対となる貝殻としか組み合わせることができないので、裏返した貝殻のペアを選ぶようにして遊んだ。 また、対になる貝を違えないところから夫婦和合の象徴として、公家や大名家の嫁入り道具の美しい貝桶や貝が作られた。貝の内側に描かれるのは自然の風物や土佐一門風の公家の男女が多く、対になる貝には同じく対になる絵が描かれた。 美しく装飾された合貝を納めた貝桶は八角形の形をしており二個一対であった。大名家の姫の婚礼調度の中で最も重要な意味を持ち、婚礼行列の際には先頭で運ばれた。 婚礼行列が婚家に到着すると、まず初めに貝桶を新婦側から婚家側に引き渡す「貝桶渡し」の儀式が行われた。貝桶渡しは家老などの重臣が担当し、大名家の婚礼に置いて重要な儀式であった。

なんとも意味深かつ優雅な遊びです。
ハマグリの貝の内側に描かれた大和絵がまた優雅

当然ながらすべて手書きですし、貝桶が一杯になるほどの貝に絵を描くのに、どれだけの工数が必要なんでしょう
1セット誂えるとしたら、いったいお値段はいくらになるのか…
およそ庶民には縁のない話でしょうなぁ…

   

最後も「庶民には縁のない話」のこちら

「梨地水龍瑞雲文蒔絵宝剣(なしじすいりゅうずいうんもんまきえのほうけん)という拵(こしらえ)です。

あれま 写真の右側が切れている
そこで、鞘の先端、鞘尻(石突)の写真を載せます。

しがみついています
それにしても、梨地キレイ

「宝剣」という名前がついているからにはお宝なんだろうと思うと、やはり…

明治5年(1872)正倉院開扉の際、明治天皇によって取り寄せられた直刀のために、翌年製作された拵。鞘は梨地に瑞雲文蒔絵、金具を波・龍・瑞雲文としていることから水龍剣と称された。金具はのちに帝室技芸員となった加納夏雄(1828~98)の製作である。

「正倉院御物」直刀用の拵

「正倉院開扉の際、明治天皇によって取り寄せられた直刀」だなんて、そんなのあり? と思いますが、かつては天皇家の所有物だったわけですから、ありだったんでしょうなぁ

そんな天皇家の所有物だったと思われるこの拵が、どうしてトーハクの所有になっているのでしょうか?

Wikipediaによれば、

この直刀は奈良正倉院北倉に刀身だけが所蔵されていたもので、『東大寺献物帳』には記載されていないが、聖武天皇の佩剣と伝えられる。
明治5年(1872年)に行われた正倉院宝物修理の際、宝物を鑑賞した明治天皇がこの直刀を気に入られ、手元に留めた。刀剣愛好家でもあった明治帝は、当代随一の彫金家として知られた加納夏雄に拵えを制作させ、明治6年(1873年)、宝剣拵の外装が完成し、明治帝はこれを「水龍剣」と号して佩用した。
太平洋戦争が終結し日本国憲法による新体制が発足すると、皇室財産は国に属するものとされ、刀剣類の一部は御物(皇室私有品)に留まったが、水龍剣は他の幾つかの刀剣類と共に昭和22年(1947年)、国立博物館(現・東京国立博物館)に移管された。以後は同博物館に所蔵され、昭和32年(1957年)に重要文化財指定を受けた。

だとか。
そういえば、いつだったかトーハク奈良時代の直刀を観た記憶があります
そこで写真コレクションを漁ってみると、こちらが見つかりました

ところが、私が観たのは「水龍剣」ではなく、「直刀(号 丙子椒林剣)」という飛鳥時代の直刀(国宝)で、

聖徳太子の佩用と伝えられる大刀。
腰に「丙子椒林」の文字が金象嵌されているが、丙子は干支、椒林は作者と解されている。中国製とみられ、精美な鍛えに直刃(すぐは)の波紋を破綻なく焼いている。伝存する奈良時代以前のそりの無い直刀では、もっとも出来が優れる。

だそうです。

そっかぁ~、「水龍剣」(重要文化財)より上手(うわて)がいましたか…
さすがの聖武天皇聖徳太子には敵いません

でもでも、「梨地水龍瑞雲文蒔絵宝剣」の見事さときたら… ときめきます

豪華ながらも華美に走らず、威厳に満ちただと思いました。
腹帯金のcuteですし
さすがは当時一流加納夏雄さんのお仕事です

ということで、ようやくきのうのトーハク探訪記完結しました
関西旅行記を再開しますよ

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