新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

(秋田)県南小旅行記(その5)

2016-09-01 22:56:15 | 旅行記

「(秋田)県南小旅行記(その4)」のつづきです。

「羽後町総合交流促進施設(旧長谷山邸)」の次に、わが友人が連れて行ってくれたのは、西馬音内田代の間にある太平山

各地区・場所の位置関係は、「ダイジェスト」に載せた地図がとても便利なので再掲しておきましょ。

「太平山」と聞くと、秋田市で生まれ育った私ほか今回のメンバー全員(ガイドを含む)がまず思い出すのは、秋田市内の学校の校歌への出現率100%とおぼしき(私が通った小学校2校中学校高校すべてが当てはまる)、秋田市のシンボルともいえる太平山です。(下の写真は秋田市中心部から見た太平山

人によってはこちらを連想するかも…

それはともかく、羽後町の「太平山」の中腹まで登りました。

途中、クルマがすれ違うのが難しい細い道だったのですが(「熊優先なんて看板もあった)、わがガイドは結構飛ばす
土地鑑があって、この山道を走り慣れているからこその運転なんだろうな
少なくとも、私には無理だ…

で、連れて行ってくれるだけあって、太平山中腹(上のマップの真ん中左辺り、「みはらし荘」前)からの眺めがいい

西馬音内の街はもちろん、横手十文字増田湯沢も、横手盆地の大部分が一望です

以前、秋田⇒羽田フライトで、横手盆地を見下ろしたことがありました。
その時、大曲=横手=湯沢の各地域が、思っていたより近いことに驚いたのですが、肉眼で目の当たりにすると、ますますその思い新たにいたしました。

   

太平山を下り、わが友人(ガイド)のお宅にお邪魔して一休みした後に向かったのは、国の重要文化財に指定されている「鈴木家住宅」

鈴木家住宅に向かう途中で、ちょっとしたアクシデントが発生して小一時間ほど余分な時間を費やしたもので、鈴木家住宅の中には入らずだけ見物しました。

長々と書かれた説明板を抜粋しますと、

当家は由緒書によると源義経の郎党、鈴木三郎重家が文治5年(1189)に奥州平泉から落ちのび土着して帰農したことに始まる。
鈴木三郎重家の生国は紀州藤代(和歌山県海南市)で、その地にある鈴木屋敷は、全国の鈴木姓の宗家と言われ、当家には宗家と交わした江戸時代以来の手紙が残っている。(中略)
主屋(おもや)は部屋部分(本屋=ほんや)に馬屋部分(中門)が取付きL字型の平面を構成する中門造(ちゅうもんづくり)である。(中略)
また中門は享保18年(1733)の増築であることが明らかとなり、本屋の建築は17世紀後半頃(1650~1700年)と推定される。

だそうです。
そして、説明板の傍らには、

「東北 鈴木姓発祥の地」標柱があって、さらに、、、

「第1回 全国鈴木サミット開催地」ですと

全国鈴木サミット」って、そんなのがあるのか と驚いて調べると、「全国の鈴木姓の宗家」和歌山の藤白神社鈴木屋敷のHPによると、1998年羽後町・鈴木家住宅で開催された第1回から、2013鈴木姓のルーツと和歌山県海南市で開催された第7回まで、しっかりと「全国鈴木サミット」は継続して開催されていました

もっとも、「鈴木姓」ではない私にとっては、ある意味、どうでも良い話でありまして、それよりも鈴木家住宅の周りの田んぼに群れるが気になってしょうがなかったのでありました。

とにかく凄い数虫の群れでして、見ているだけで体じゅうがムズムズする感じ…
わがガイド様解説を求めたところ、

トンボじゃないかな…

と、自信のない答えが返ってきましたとさ。

ということで、これにて羽後町探訪を終えて、いよいよ、今年の西馬音内盆踊り最終夜が迫る西馬音内に繰り出します。
そのお話は「その6」で。

つづき:2016/09/03 (秋田)県南小旅行記(その6)

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