5月19日の「沖縄旅行3日目はひたすらドライブ(その3)」から1週間空けて、ようやく続編です。
沖縄美ら海水族館を後にしてクルマを走らせること、ほんの15分で今帰仁城跡に到着しました。
前日訪れた首里城で、本土の城の石垣とはかなり違う、うねうねした野性味あふれる石垣に盛り上がった私(記事はこちら)ですが、今帰仁城の石垣は首里城のものとも違って、古城の佇まいが色濃く、生きている自然と無機的な石垣との対比が、心に染みてくるというか、感情の中に入り込んでくるようでした。
松島はわらふがごとく、象潟はうらむがごとし。
と書いたことに倣えば、
首里城はわらふがごとく、今帰仁城はうらむがごとし。
ってな感じ。
さて、有料区域は、平郎門から始まります。
城の正門にしてはかなり狭い正郎門から入ると、これまた狭い石敷きの通路が城の奥に続いています。
この道が正式な通路かと思ったら、説明板によりますと、
正郎門から直線的に伸びる石階段は、1960年代に整備された階段です。本来の登城道は、平楼門から城内へ向かって石階段の右手側にあります。
1980年の発掘調査によって石敷きの小道が発見されています。旧道は、大きな岩盤の谷間を利用して敵兵が攻め入っても大勢の兵隊が上の郭まで一気に入れないように工夫されたつくりになっています。
だそうで、私は帰りにこの旧道を通りました。
旧道の途中にはパパイヤの木なんてのもありました。
それはともかく、石階段を昇っていくと、大庭(ウーミヤー)と呼ばれる広場に着きます。
大庭の北側にある御内原(うーちばる)からの眺めが良かったぁ~
ふ~っとため息をつきながら風景に見入ったあと、さらに城の奥に進みます。
そして到達した場所が、主郭(俗称本丸)、今帰仁城の最重要部でした。
公式HPの説明によれば、
1982年から4年間発掘調査が行われました。発掘調査の結果13世紀終わりころから17世紀初め頃まで機能していたことがわかりました。監守引き上げ以降は、火之神の祠が設置され、さらに来歴碑が建立され祭祀を行う場所として利用されています。発掘調査が完了し、現在のように整備されました。
ということで、火之神の祠(ひのかんのほこら)と山北今帰仁城監守来歴碑記のレプリカ(現物は今帰仁村歴史文化センターに保管展示)がこちら。
この、今帰仁村のHPによりますと、
祠には、第二監守一族の火神が奉(まつ)られ、旧暦8月10日には今帰仁ノロ以下の神人(かみんちゅ)が城ウイミの祭祀(さいし)を現在も行っています。また、今帰仁上りの重要な拝所として参詣者が絶えません。
だそうで、現役の霊域なのだとか。
ところで、何気に引用文の中に「監守」という言葉が登場しています。
「監守」とは何でしょうか?
これは、沖縄の歴史をひも解けばすぐに判るのですが、今帰仁城跡のHPでも簡単に説明されています。
その簡単な今帰仁城の歴史の説明をさらに要約しますと、
【三山時代】14世紀の沖縄本島は、北部を北山、中部を中山、南部を南山がそれぞれ支配する「三山鼎立の時代」で、北山王は今帰仁城を拠点に沖縄本島北部を支配下に治めていた。
しかし、北山は1416年に中山の尚巴志によって滅ぼされた(その後、尚巴志は1429年に南山も支配下に収め、琉球を統一)。
【監守時代】中山は北部地域を管轄する代官として監守を配置し、1422年以降、今帰仁城は看守の居城として使用された。
1609年、薩摩軍の侵攻によって今帰仁城は炎上した。
【監守時代以降】1665年、監守は首里に引き上げ、以降は精神の拠り所として崇拝されてきた。
といったところでしょうか。
さて、主郭からさらに先に進みましょう。
砦の入口のような狭い門をくぐり抜けると、
城主に仕えた身近な人々が住んだと考えられている志慶真門郭(しじまじょうかく)。
ここで見る石垣が、何とも魅力的でした。
うねる石垣と海
立ちはだかるような主郭の石垣と風に揺れる白いユリ
もう一度、上から見下ろしてもかなり良い
こうして大満足のうちに今帰仁城趾見物を終えた私は、すやすやと眠る仔猫の横を通って今帰仁村歴史文化センターに向かい、
今帰仁城の復習をして、次の目的地へと向かったのでありました。
つづき:2012/05/28 沖縄旅行3日目はひたすらドライブ(その5)