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本の紹介・・・・高瀬毅著「ナガサキ消えたもう一つの原爆ドーム」

2009年08月09日 14時06分52秒 | Weblog
★長崎に原爆の遺構のないのが不思議でした。何年か前、長崎を旅した時に新しい浦上天主堂の記念館に被爆した鮮烈な巨大被爆遺構の写真をみて衝撃を受けるとともに残されていないのを非常に残念で不思議に感じていた。

 ところが、今日の中日新聞の読書特集に高瀬毅著「ナガサキ消えたもう一つの原爆ドーム」という本の紹介があり興味を引いた。
 著者によれば浦上天主堂の廃墟は原子爆弾を告発する第一級の被爆遺構になるはずであったという。被爆から13年後に天主堂は二度目の破壊で消滅した。
 この本はその謎に満ちた経緯を追跡したノンヒィクションである。
 当初保存を考えていた田川市長が米国のセントポール市との日本初の姉妹都市提携で渡米しそれを支援した「アメリカ広報文化庁」との折衝の中で態度が変容し議会の反対を押し切って撤去を強行する。アメリカとの間に何があったのか、冷戦の拡大の中で米国の強い意向が想像されると著者は推測している。
 戦後の日米の関係をしるうえにも今後も探求をつづけてほしいものである。
                         (まもる)

附【浦上天主堂の概要】
1895年
大聖堂の建設を始める。これは、大浦にも負けない、東洋一の聖堂を目指して建設されたもので、20年の年月を要した。
1945年
8月9日、原爆投下により、爆心地から至近距離に在った浦上天主堂はほぼ原形を留めぬまでに破壊された(また、原爆投下時間に8月15日の聖母被昇天の大祝日を間近に控えて、ゆるしの秘跡(告解)が行われていた。そのため中にいた神父を始めとする信者の全員が死亡している)。後、被爆した天主堂を訪れた俳人、水原秋桜子はこの惨状を見て「麦秋の中なるが悲し聖廃墟」と詠んでいる。
1958年
被爆した天主堂は翌年までに瓦礫を撤去し整備されたが、一部外壁の廃墟などは原爆資料保存委員会等の要請で被爆当時のまま仮保存されていた。保存の市民運動が起こり、長崎市議会も保存を決議したが、結局は撤去され、遺構の一部は近隣の平和公園内に移設された。

浦上天主堂遺壁(爆心地公園)※貴重な原爆遺構の破却に至った経過については2つの事情があった。
浦上教区の信徒で編成された「浦上天主堂再建委員会」は現地に再建を決定、信徒からの浄財及び寄付金によって再築計画を明らかにする。だがその動きを覚知した原爆資料保存委員会は、『旧天主堂は貴重な被爆資料である故に遺構を保存したいので、再建には代替地を準備する』と提案するが、当時の山口司教は、天主堂の立地には江戸時代のキリスト教迫害の時期に労苦を重ねて入手したという歴史的な背景があり、保存委員会の意向は重々理解できるが移転は信仰上到底受け入れることはできないという意思を決定した(浦上天主堂公式サイトにも同様の経過が記載されている)。
当時の市長田川務は、米国セントポール市との姉妹都市締結を機に今後の日米関係など政治的背景を重視し、1958年の市議会で「原爆の必要性の可否について国際世論は二分されており、天主堂の廃墟が平和を守る唯一不可欠のものとは思えない。多額の市費を投じてまで残すつもりはない」と答弁し、議会決定に反して撤去を決定した。
被害当事者である浦上教会と、結果的にアメリカへの配慮を優先した田川市長の意向が共に破壊撤去を選択したため、旧天主堂の廃墟は撤去されてしまった。一部の遺構は保存されたとはいえ、広島県広島市の『原爆ドーム』(旧広島県産業奨励館)の様に爆心地付近の惨状をありのままの姿で後世に伝えることが出来る遺物を残さなかったこと、また原爆ドームが史跡やユネスコの世界文化遺産に登録されたこと等から、取り壊されたことを惜しむ声も未だに多い。
ただし、浦上教会信徒会館2階には再建時に発掘・収集された被爆物(溶けた聖母像や聖杯・ロザリオなど)を展示する資料室を併設しており、自由に見学が出来る。

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