おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

ちんちん山児童遊園。電氣鐵道。・・・(JR東十条下車。その1。)

2014-06-04 18:30:31 | 鉄道遺跡

 今回は、JR・東十条駅~王子駅周辺の鉄道遺跡+今も残るかつての軍事施設(建物)巡り。JR京浜東北線・東十条下車の探索。
案内図。左が北。
A:ちんちん山児童遊園。B:北区中央文化センター。C:北区中央図書館。D:自衛隊十条補給処。



1870年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。上の図のA~Cに対応している。まだ公園も図書館も出来ていない。JR線を越える立体交差の道路も未完成。中央の大きな敷地が「自衛隊」。下方、蛇行して流れる川が石神井川。

                     2010年代後半のようす。図書館も完成。


案内図付近から東を望む。JR線方向。
西側方向を望む。自衛隊施設方向。

「ちんちん山児童遊園」。

 その公園にある「産業考古学探索路」という案内板。
  

 明治時代から昭和にかけて、北区とその周辺には、陸軍の関連施設が数多く点在していました。その当時、これらの施設は、物資や人間を運搬するための軍用鉄道と呼ばれる専用軌道で結ばれていました。この辺りでは、板橋、十条の火薬製造工場と王子の火薬製造工場を結ぶ軍用電車が、チンチンと鐘の音を鳴らしながら、盛土の上を走っていたそうです。そのため、付近の住民は、この盛土を俗に「ちんちん山」という愛称で呼んでいました。かつて、この場所には、ちんちん山の下をくぐる石積みのトンネルがありました。このトンネルの上部には、3個のだんごを三角形の形に並べ、その上に、もう1つだんごを乗せたような珍しいマーク(当時の東京砲兵工廠のマーク)が刻まれていました。現在、このマークを含め、トンネルの石積みの一部が園内でモニュメントとして使われています。

トンネルの石積みのモニュメント。児童遊園の前にある道路(盛り土された軍用鉄道をくぐる道)にあったトンネルの入口部分。したがって、トンネルの向いている方向は90度ずれている。
上部に「東京砲兵工廠」のマーク。

明治時代後期。「今昔マップ」より)A:火薬製造所 B:銃包製造所 C:貯弾場 D:火薬製造所製薬所。↓:電氣鐵道。

 現在も、当時も、本郷台地上の軍施設と石神井川と隅田川との合流付近の軍施設とは相当の高低差がある。A地点(銃砲製造所・現自衛隊施設等)の標高は、約20㍍、B地点(火薬製造所・現民間倉庫)の標高は約2㍍。この高低差を通していたのだから盛り土も高さがあったものとも思われる。地図上でもかなり長い盛り土の上を通っていたことが分かる。

(「同」より)
20㍍→12㍍の高低差(台地直下との差)→5㍍→2㍍。○の三角点には、27.5㍍との表示(現・十条台小学校の南)。鉄道はその北側を進んでいった。

現在、十条駅前からの道路(南に進むと「本郷通り」となる)からJR線を越えて「北本通り」に通じる道路は高架橋になっている(軍用鉄道は、もともとはこの高架道路の下にあり、トンネルと盛り土で結んでいた)。東に向かって急な下り坂になっている。

鉄道が通っていた道路から西を望む。けっこう深いトンネルになっている。上部は、見上げるような高さ。「南大橋」と二重構造になっている「南橋トンネル」。

三平坂。名主の滝公園の北側。けっこう急な坂道が続く。この一帯が地図上で最も標高の高い場所。東十条駅方向から進んで、先ほどのトンネル(モニュメント)をくぐるとこの坂につながっていた、と思われる。名主の滝公園は、その名の通り、本郷台地の下にある公園。


D地点に向かう鉄道の跡は広い道路となって、明治通りを横切り東に進んでいく。左側に続く緑地公園はかつての用水路跡。

石神井川に架かる右奥の橋は、かつて鉄道橋だったところにある。
首都高の高架。目の下は石神井川。その先は、隅田川との合流点。


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