おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

京成成田駅~千葉バス「大栄支所」。その1。成宗電車線路跡。(「佐原街道(成田街道)」をゆく。第4日目。)

2019-05-29 21:09:53 | 鉄道遺跡

              久々の街道歩き。今回は成田駅から成田市大栄(たいえい)支所まで、ほぼ国道51号線をなぞる歩き。



 5月25日(土)。快晴。駅を下りると、日ざしが強い(9:46)。街道はまっすぐ門前町として成田山新勝寺まで進むのですが、ここは、かつて路面電車が走っていた「電車道」を行くことに。
 帰りに参道の商店街を歩くことにします。

駅を出てから右手を行き、「成田会館」のところを左折します。
                    遠くにトンネルが見えてきます。

左手奥、高台に表参道。

「第2トンネル」。煉瓦造りで重厚。

                            

 かつてこの道は、「成宗電気軌道(せいそうでんききどう)」という路面電車が通行する軌道でした。


                     

成宗電気軌道(せいそうでんききどう)
 かつて千葉県成田市において軌道事業と電気供給事業を兼営していた企業である。後に成田電気軌道と改称し、さらに千葉県から鉄道路線を譲り受け成田鉄道(2代)と改称した。同社は鉄道事業廃止後成田バスを経て千葉交通となった。
 千葉県唯一の路面電車であった。成田鉄道(現在の成田線の前身)の成田駅から、古くより参拝客の多い成田山新勝寺・宗吾霊堂への路線を敷設する計画は古くからあった。最初は宗吾馬車鉄道という馬車鉄道を敷設する計画が立てられたが、諸種の問題で流れた。
 次に、大阪の資本家才賀藤吉の援助を得ることによって計画が立てられ、これがようやく実現する見通しになった。しかし成田山の門前町が参拝客が通らなくなって衰退することを恐れて反対したため、そこを東に避けてトンネルを掘るなどし、ようやく1910年(明治43年)に一部区間が開通、翌年に宗吾 - 成田間の全線が開業した。
 しかし開業前に電気軌道の作業場から出た火の手が宗吾霊堂に引火して、堂宇と周辺民家の多くが焼けるなどしたこともあり、電気鉄道に懐疑的な人が多く反対運動も多かったことから、利用者はなかなか伸びなかった。さらに才賀藤吉が事業に失敗して資産を失い、援助が得られなくなったりするなど苦境も襲いかかった。
 そして東京の投機業者に買収され、おりしも第一次世界大戦で鉄の価格が高騰していたことから、電車を廃止してレールを売却することを目論んだ。これに対しては地元から猛反対の運動が起こり、千葉県知事が乗り出すなどして、ようやく複線の内単線を撤去することと、保有車両数の15両から6両への削減を行うことで決着した。
 その後京成電気軌道(現京成電鉄)の傘下に入るが、乗合自動車(バス)の登場で客を奪われるようになり、さらには通行の邪魔ということで今度は地元から廃止論が出るようになった。しかし戦時体制によってガソリン供給が統制されると、バスの運行もできなくなったことからこのときは存続した。
 だが結局、1944年(昭和19年)には参詣路線は戦時柄ふさわしくないことと、京成本線とほぼ並行していることから、不要不急線として廃線となった。京成本線には成田の駅の位置を巡って新勝寺門前により近い所への設置を画策して成田電気軌道を買収(1925年)し、その線路を接続する案もあったが、門前の商店街の猛反発に折れ、1930年4月25日に現在の位置に京成成田駅を設置した。

路線距離:不動尊 - 宗吾間5.3km、本社前 - 成田駅前間0.1km
停留所数:9
1925年3月当時 運行本数:6:30-20:30に5-10分間隔  所要時間:成田山門前 - 宗吾間21分
(以上、「Wikipedia」参照)
運行当時の写真。

                        

                             

 廃線跡の道路は「電車道」と称され、標識も立っています。
「電車道」。

続いて「第1トンネル」。

右手に解説柱。成宗電車のトンネル」。
 このレンガ造りのトンネルは成宗電車という千葉県内で一番古い電車が通っていたトンネルです。成宗電車は通称チンチン電車と呼ばれ、明治43年に成田駅前~成田門前前まで、翌明治44年に駅前から宗吾霊堂まで開通し、昭和19年に廃止になりました。門前前側が第一トンネル(長さ約12メートル、幅約9メートル、高さ約5メートル)、成田駅側が第二トンネル(長さ約41メートル)です。


当時の電線支柱か何かの跡? 

振り返る。 

そのまま参道の商店街へ続きます。

(10:04)正面付近が終点の停留所。

 廃止が決まったあと、残された車両はどいうなったか? 興味深い記事がありました。

 以下、www.hakodate150plus.com/spl/2010/09/100.html HPより)


 箱館ハイカラ號こと39号は今を遡ること100年前の1910年(明治43年)12月に千葉県成田市で路面電車を運行していた成宗電気軌道が導入した車両である。ということで今年は製造100周年の記念の年である。
 何故成田山の御膝元を走っていた車両が函館へやってきたのかを調べていくうちに、39号がいかに幸運かを窺い知ることが出来た。
・・・
◎阪急電鉄に渡った同型車
成宗電気軌道から放出された車両のうち4両は1920年(大正9年)に現在の阪急電鉄が購入した。 
・・・

 函館では現在も現役として走っているのでしょうか?
 思いがけない廃線跡歩きです。

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1 コメント

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Unknown (aya7maki)
2019-05-29 20:19:59
こんばんは〜つゆです。
レトロなトンネルにレトロなチンチン電車。
高校時代は市電で通学していましたから、とても懐かしいです。
もっと幼いころに、写真のような乗降口が開放されたのに乗った覚えがあります。運転手さんが紐を引っ張るとチンチンとベルが鳴りました。
路面電車には、どこか郷愁を誘うものがあります。成金時代にレールを売る話が出たとのこと、いろいろ面白く読みました。
トンネルがいい味を出していますね。

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