おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

御徒町公園(御徒町台東中)。なんじゃもんじゃの木。朝顔市。・・・(震災復興52小公園。その38。)

2014-02-11 20:16:34 | 震災復興小公園
 残っていた三つ。

①台東区立御徒町公園(旧御徒町小学校→御徒町台東中)

 御徒町の賑やかな通りをちょっと入ったところ。「多慶屋」の裏手にあたります。日中のせいか、大人の姿が目立ちました。せわしなく行き交う人。たたずむ人。・・・ 
神社の脇の池。
フェンスを隔てて中学校。以前のような関連性はなさそう。
 右端に見える木が「なんじゃもんじゃの木」。10メートル以上にもあるように見えるこの大木は、有名らしい。
なんじゃもんじゃの木。

説明板。

 この木は、俗に「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれ、朝鮮・中国にも分布していますが、日本では本州木曽川流域と九州(対馬)に知られている珍しい木です。昔、代々木青山練兵場にあった大木より株分けして、台東4丁目の荒沢瑛治郎氏が大事に育てたものです。
 木の高さは10メートルを超え、4,5月頃には雪が降り積もったような白い花を咲かせます。
 珍木であるため、異称が多く、ロクドウボク(六道木)、アンニャモンニャ、フタバノキナタオラシなどとも呼ばれています。台東区

 ナンジャモンジャとは、見慣れない立派な植物、怪木や珍木に対して地元の人々が付けた愛称。すなわち、特定の植物の種名ではない。ヒトツバタゴを指すことが多いが他の樹種の場合もある。(「Wikipedia」より)
 今では、都内の公園などにも植えられているようです。
 この公園のは、「ヒトツバタゴ」。真冬なので、その名に反して、葉が一つもなく残念。小さいプロペラのような白い花をたくさん咲かせるようです。

 こんな風に咲くらしい。

http://www.hana300.com/nanjam.html様よりお借りしました(この写真は、江戸川区清新町緑道にあるもの)。
「パーゴラ(pergola)」つる棚は、健在。
右奥が中学校。
テラスのようになっている。
整然とした並び。これも復興公園にはよく見かける。
公園内外の仕切りが低くなっているのも、特徴の一つ。

「御徒町」の由来板。
 
 この付近一帯は、徳川三代将軍家光(1623~1651)のころ、徒士(かち)組の屋敷地でああった。徒士組とは徒歩組、歩行組ともいわれ、徒歩で主君にお供したことにもとづく名称である。江戸幕府の職制では若年寄に属し、その職務は将軍外出の際の沿道警備、江戸城中玄関廊下の警戒であった。
 この地は、江戸末期に至るまで徒士組の屋敷が多かったことから、御徒町、徒町と呼ばれるようになって、明治5年(1872)徒士組屋敷および周辺の武家屋敷などと併せ、御徒町は正式に誕生した。
 文化文政(1804~1830)のころ、この付近では朝顔作りが盛んであった。今でこそ、朝顔といえば入谷であるが、この地こそ朝顔作りの発祥の地である。

 下級武士、つまり騎乗が許可されない武士である徒士が多く住んでいたことに由来しています。彼らは、御徒町周辺において屋敷というよりも長屋に住み、禄(現在の給与)だけでは家計を賄い切れず内職をして生活していました。その内職の一つが朝顔作りであったようです。

 
 
 左が1880年頃のようす、右が1970年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

 朝顔市
 この入谷の朝顔が有名になったのは江戸末期の文化・文政の頃です。最初は御徒町の下級武士、御徒目付の間で盛んに栽培されておりましたものが、御徒町の発展と江戸幕府の崩壊に伴いまして、入谷に居りました十数件の植木屋が造るようになります。そしてその出来栄えが大変素晴らしかったので、明治中期になりますと、往来止めをしたり、木戸銭を取って見せるほど有名になります。なぜ入谷の朝顔がこんなに盛んになったのかと言いますと、入谷田圃の土が朝顔造りに適していたこともありますけれども、当時流行しました朝顔と言いますのは「変わり咲き」です。この「変わり咲き」と言いますのは朝顔の花が、桔梗の花のように咲いたり、牡丹の花のように咲いたり、二重に咲いたりして、花粉の交配によって色々な花を咲かせる事ができたので、最盛期には一千種類もの朝顔があり、変化にとんだ花を咲かせ楽しませてくれてたのであります。
 もちろん現在のような丸い朝顔も江戸末期には大輪咲き朝顔とし盛んに栽培されておりましたが、変化咲き朝顔の不思議な美しさが江戸の人々にブームを巻き起こします。当時の模様を下谷繁盛記(大正三年明治教育社発行)によって観ますと、「入谷の朝顔の全盛を極めたりしは、明治二十四・五年頃にして、其の頃は、朝顔を造る植木屋十数件を数え、入谷の通りは、毎朝、往来止めとなる程なりし也。殊に、当時は、周囲一面の蓮田を廻らしたれば、涼しき朝風に吹かれ乍ら、朝顔を見又蓮の花を見るを得たり敷かば、観客頗る多く、非常の盛況を呈したり。」と記載されております。また、明治二十年七月五日発行の朝野新聞には、「府下にて朝顔の名所といえば誰も入谷たることを知る位なるが、同商も追々欧州植物培養の方法に倣い近年は頗る進歩し、昨年の出来に比較すれば、本年は余程の上出来にて、来る十五日より縦覧さする由なるが、本年は品数も数百種の多きに及び、頗る見事なるべしといえば、朝寝坊先生は早起きして此の美花を観玉へ。」とあるぐらい有名に成ります。
 ところが、このように大変盛んに造られておりました入谷の朝顔も、世情が怪しくなって来ました大正二年意地づくで踏み留まっていた植松(植木屋)の廃業を最後に、とうとう入谷の地から姿を消してしまいます。それに伴い変化朝顔もいつしか人々から忘れられて現在のような円形の朝顔えとその主流は変わって行きます。そしてそれから三十五年立ちました昭和二十三年、戦後のすさんだこの世の中を少しでも明るくしようと言うことで、地元有志の方と下谷観光連盟(昭和25年)の協力を得て、江戸情緒豊かな夏の風物詩、入谷の朝顔市が復活したのであります。


公式HPより)

旧御徒町小学校の跡地につくられた「御徒町台東中学校」。


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