九太郎がいく2
九太郎がいく・・・9
今日は主は忙しいらしく、昨日に引き続き三太郎さんの物語を俺が読むということでここに列記しようと思うが…。
主は今度の日曜日の演劇公演のリハーサルを見るのだという。主のことだから、なんだかんだと言って演技者を悩ますのではないかと思うと、演技者が可哀想になった。できのよし悪し主が俺の顔を見たときにわかるので、そのときを待つことにしょう。
さて、そんなことで九太郎がいくが書けそうにないので…。
この家は、茶店を鈴のような声を出すママがしていて、マントヒヒのような顔の人はママの亭主で、客はマスターと呼んでいた。稚い青年は次男で三歳上に長男がいた。
主人の名前を柿本源内と言い、ママを静と言い、長男を貫之、次男を道真と言った。何だか聞いたことがある名前だなぁと思ったが、深く考えなかった。世間を上手く渡ろうと思えば、多少は理性を殺さなくてはならないのだ。まして、人間の知能が後退している今、特にその事は考えの中に入れておかなくはならないだろう。人間の嫉妬心、猜疑心、は際限というものがないからだ。愚かになる事に限るということは、愚かを装った大愚良寛を引合いに出すまでもなかろう。その事は、主人源内さんの生き様を見れば納得が行くというものだ。とにかく、源内と名付けられただけに、やることなすこと破天荒なのだった。一応、物書きという事になっているが、書いた物が売れたためしがないという作家であった。
「書いた物を売るということは、なんと言う傲慢か。万一、書いた物を読んで、それが真実だと思い込んだら大変な事になる。真理真実というものは、そう簡単に手に入るものではないのだ。そんなに簡単に求めている事が手に入ると人間の傲岸を助長することになるではないか。また、作家という者はありもしない嘘八百をさも本当のように、真実の様に書き、読む者をしてその登場人物たらしめ、人生の真実を探求せねばならぬと言う大事業の邪魔をしている。言ってみれば、時間泥棒で、詐欺師で、幇間なのだ。それなのに、なんとかと言う賞を貰うと文化人面をしてテレビに出て、先生と呼ばれて鼻の下を長くしている者がいることは泣くに泣けぬ実に嘆かわしい。同じ物書きとして如何ともしがたいのだ。書くということは爾来人に読んで貰う為に書くのではなく、仏法者が自らを戒せんが為に毎朝勤行をし、思い上がった鼻を折り、腰を折り、膝を折り、五欲に満ちた心を折り、五義に伏す為に自らが自らを折伏をする事と同じで、自分の為に書く、日々の生活においてややもすると忘れがちな人間としての営み生き様をこれでいいのかと問い糾す事でなくてはならんのだ。と言う事は、言ってみれば、自らの裸を衆目に曝すということと同じなのだからして、常人ならば恥かしくて書斎に閉じこもるしかないのが当たり前なのだ。そして、読んでくれた人に申し訳ないと穴を掘り隠れるか、得度して剃髪をし庵を結んで世間に詫びを入れなくてはならぬと言うものだ。まあ、今では、物書きというものはそのような常識も節度も持ち合わせていないのだ多いいのだが。世間を狭くして、精神を売り払って、プライバシィを小出しに見せて、読者に媚び諂い、金という字がだーい好きな者が多くなったと言うことだよ。昔は、自分の思想哲学を語り、人間のユートピァを予言し、冒険を、広大な夢を、自らの為に書いたものだが。だがそれが偶偶、世間に出て人様に読まれると言う偶然があっても、まるでおぼこが着物の裾を風に弄ばれ、大根のような白い太股を晒し慌てて前を合わせて頬を赤らめた時のように、または、お年寄りが布団に地図を描いた時のように照れ隠しの笑いを浮かべ、はたまた、トイレに鍵をしなくて入り用を足していた時にドアをいきよいよく開けられ、怒ろうにも怒れず、自らのそそっかしさを笑いで誤魔化す弄らしさにも通じ、どことなく人間としての哀れさを持っていたものであったのだ。だからして、私は売れないことに誇りと自信を持っているのである」
とまあ、くどくどと御託を並べたものであった。それは、売れないが故に余計に言い訳とも取れ、僻み、やっかみとも取れ、哀れにさえ映ったものであった。これだけの屁の付く理屈を等々と喋りまくるのだから、容貌に似にて中々の偏屈とお分かり頂いた事と思う。
奥様の静様は、それはいい方ですが、
「あなた、三太郎を去勢しましょうよ。さかりがつくと喧しいし、おしつこが臭くて堪らなくなるわょ。やたら匂いを撒き散らして、雌を誘き寄せるんですもの」
と恐いことを言うのであった。げに、どこの世界も雌と言う生き物は恐いものである。 だが、静様はマントヒヒの言うことは絶対に聞くという、近ごろに珍しい性癖を持っていた。意見は言うが、マントヒヒがこうだと言えば、従うという夫唱婦随の女人であった。この事はなにか裏があるらしいと俺は睨んでいる。例えば、マントヒヒの髭がお気にいりなのか、醜い出尻出腹をこよなく愛しているのか。又は、弱みを握られているのか。人間としての能天気な所に多大なる魅力を感じているのか。はたまた、ペット飼う気分で世話をしていて多少のわがままは許せるという寛大な精神を含有している偉人なのだろうか。とにかくじっくりと観察しなくてはならない。女人のヒステリーにはくれぐれも気を付けなくてはならない。月が満ちた時は尚更であろう。心すべし、女人と餓鬼には要注意である。
長男の貫之さんは今年成人式を済ませた、きりりとした美男子であった。その顔は、女人からの電話でいとも容易く破顔になるのであった。その顔は助けべえのそれであった。鼻の下が見る見る長くなり、線を引いたように締まった唇はへの字に崩れ涎を流す始末であった。俺が昼寝をしている時に、テレビを見ていた貫之さんの大きな馬鹿笑いで何度も心地よい眠りから醒まされた経験があった。どうも、建築士の貫之さんは建築工学とか、多塔多寺時代に建築された日本の建造物には興味がないのだろうか。日本の風土にもっとも適した木の文化遺産を知らずして、未来の人間の住居空間が想像構築出来ると言うのだろうか。聖徳太子が仏教のお寺を生前に六寺も建造したというのに対して、紀貫之は歌と女と旅に明け暮れ、その時代の勉強はしていなかったと言う事と共通するのでろうか。それでは歌が読めても人間の心なんか読めようわけがないではないか。中国、朝鮮の文化の影響をひしひしと感じながら生きた紀貫之の歌を、朝鮮古語による解読をせずに、現代の日本語で解釈をするならば、美しい自然をこよなく愛し、懸想を恰も純愛に読み、時代の矛盾を、國民の生活をどうして読まなかったのだろうか。
それは、真っすぐに線も引けず、コンパスで書いたような丸も描けない、詰まり、具象のデッサンも出来ずに抽象画を描く愚かで勇気がある画家と同じではないか。観察していると、貫之さんはテレビとの友情関係を深く保っているようだ。だが、特に感心をするのは毎日毎日日記を書くということである。漫画文字でせっせと何やらにゃにゃしながら日記帳のページを埋めているのだ。そう言えば「・・日記」と言う古典を思い出した。また、そして造形が好きなと言うだけに、女人の裸体が特に好きなようであった。これは、たぶんに主人源内さんの多大なる影響かと思う。このことはおいおい披瀝する事にしたい。 道真さんは、幼い頃、小児喘息を持っていて発作に苦しみ少し猫背がある。それに、主人源内似にて無類の本好きであるせいか、だから中々猫背はよくならないということだ。先天的に藤原と言う姓が好きでないというのは、菅原道真が藤原時平によって九州太宰府に流された事と関係があるのだろうか。春を忘するなと詩った道真との因果関係が・・・。考え過ぎ、ただの偶然と言うものでしょう。だけど、幼い頃から、「記紀」を読み嘘だぁーと叫んで階段を転げ落ちたという話は語りぐさになっていると言う。また、歴史の時間に大化の改新を習っていた時に「聖徳太子はいなかった」と、ほざき先生から校庭を十周走らされたということも、良くない風聞だった。そして、女嫌いであった。タワシを見ても、貝を見ても、げろを吐いた。小学生で、司馬遷の「史記」を読破し、マルクスの「資本論」と同じくらい難解という「記紀」を読み砕いたのだから、失礼ながら、最近の出来の良くない学校の先生の頭脳では付いていけなかったのも当たり前であったろう。だから、学校の成績は小中高では一番尾りであったという。
九太郎が行く・・・10
主は今日も舞台で忙しく俺のことを書く時間がないらしい。今日はFM放送が取材に来て主は早く起きたので、機嫌が悪いので近寄りがたいが・・・。こんな日は近寄らないに限る。ということなので三太郎の物語の続きを・・・。
三月某日
初春の陽射しはまだ冬のように弱々しく底冷えのする日だった。それでも、貫之さんの西に面したその部屋には、大きな硝子の一枚戸があってぽかぽか暖かくて眠りがおいでおいでと手招きをしくれるような日だった。
俺が日溜りの中で両手両足を伸ばして寝ていると、主人が来て何やら捜し始めた。まあ、こんな事は良くある事なので別に気にする事もなく、転寝を装って目線を張り付けていた。ベッドの下から写真集を取り出してペラペラと捲っていたが、気に入ったのがないのか元の位置に返した。
「ろくな女子がいない。子奴の女性に対する審美眼はどうなっているのだろうか」
主人はブツブツと独り言を言いながら、両の手をダラリと下げて歩き回っていた。その姿はマントヒヒのそれであった。静さんに内緒でよくヌードの写真集を見にくるのだが、写真集ではないとすると一体なにを捜しているというのだろうか。
どうも物書きの端くれのなす行動は理解の範疇を越えていることが多いのだ。詰まり、懈怠な行動が俺の正常な頭を混乱させることが多いいのには参るのだ。此処に来て頭が悪くなったのはどうやら付き合う人間のレベルが低いということなのだろうか。常識とか道徳とかと言う考えがこの一家にはないのだった。だが、一面では賢くなっている。屁理屈や、ジョークや、比喩、暗喩などには長けたし、政治経済、国際問題などは、茶店でお客と意気軒高に興奮して遣り合っているので、普通の人間や動物には負けていないと自負している。この前など、貫之さんと道真さんを前にして、
「雄であれ、徹底して雄であれ」
と言っていた。男は雄ではないのだろうかと考えたものであった。そして、
「人間と言う奴は愚かで、間抜けで、大馬鹿で、自分勝手で、欲張りで、吝嗇で、どこを取っても良い所は有りゃしない。便利さを金で買い、本能を文明と引き替えにする。何時の間にか人間は動物ではなくなったのだろうか。犬や猫ですら、お互いの性器の匂いを嗅ぎ相手を選別しているというのに、人間はどうか、鼻が利かなくなってその判断力もなくしてしまっている。コンピーターがどうの占いがどうしたと、生きる道とか定めまでそれらに頼っている。なんという情けなさ、愚かしさ、動物としての感、本能で生きなくてはならんのに、化学科学に頼り過ぎている。だから、人間の男を捨てて、動物の雄になれ」 その話を聞いて、人間を哀れに思ってしまった。また、主人の考えが何だか解るようにも思われたのだった。人間と言う奴は己れで生きていく道を狭くし、生きていく未来まで短くしょうとしているのか。その道ずれに他の生物まで引き込まては堪ったものではないない。いい加減にして欲しいものだ。そう言えば、俺なんかも人間に飼われて本能をなくしていることに気ずかなくてはならないのだ。三食昼寝付、まあ、俺の場合は二食昼寝付だが、鼠とかゴキブリが目の前をうろついてもやっつけてやろう、食ってやろうと言う本能がなくなっているのだ。これは恐い事である。例えば、喉に支えた自分の毛を草を食んで吐き出して、綺麗にするという事まで忘れると自分の毛が元で窒息死ということになる。これは猫として大変に恥かしいことである。
と言うようなことを主人は言っているのだろう。二人の息子に、動物としての雄であれ、人間としての男でなく、動物として生きる事、即ち本能を大切にして生きよ。詰まる所主人の言いたいのは、自然の中に生きよ、本能の中にある理性で生きよと言っているのだった。
俺は、益々主人が好きになり、雄の身でありながら胸が熱くなり、心がときめくのを覚えたのだった。猫族は、人間と違い同姓で愛するということはしない。だからこの場合、主人に対して、尊敬と友情と畏敬の念が湧いたということにしておこう。
「これであったか。最近、電話料金が上がったと思ったら。また例の病気が出たのだろうか」
と主人は心配顔で言った。手には一枚の紙切れを持っていた。
「小野小真智。ふーふん、まるで、深草の少将を袖にした、オノノコマチと読めるではないか。ひょつとしたら、百日間一日も欠かさず電話をしたら、あなたの想いのたけを認めて上げても良いわよ。とかなんとか言われてせっせとダイヤルを回しているのではなかろうか。一体何を話すというのだろうか。一週間位ならどうにか話題もあろうが、だんだんと話す事がなくなって・・・。これは、大変な女子に懸想をしたものであるな。生半可な頭では振り向かせる事など出来りゃしないぞ。振り向かせる事が出来なかったとき、得度して坊さんになると言うようなことを言うのではあるまいな。庵を結んで世を捨てるというような事を言うのではあるまいな。自棄くそになって遊興に明け暮れ、馬に船に自転車、ファツションヘルスにソープランド、挙げ句の果てに自動車で海にドボンと言う様な事にならねば良いが。だが、考えてみれば、これほどの女子なら我が家に是非嫁に来て貰いたいものだ」
主人は、何やら途轍もない空想に捉われたようだった。「十を知りて一を知らざる如くせよ」とは、菊池寛の言であるが、どうも主人は一を知りて十を知ったような想いになるらしい。子供に対する親心とは言い難い。自らがどうも登場人物として加わりたいという、出歯亀の根性で、遊びの感覚であるように思われる。
五右衛門君が雌犬を求めて遠吠えをしているのが聞こえてきた。
「雌よ来い。雌よ来い。こっちは血統書付きの柴犬で、セックス上手で、話が巧い。人間社会のいざこざは、環境問題、国際関係、何でもござれの知識犬。損はない、損はさせない、飽きさせない、退屈はさせない、雌よ来い。雌よーこーい」
と言うような誘いを叫んでいるのだろう。猫語と犬語は人間に飼われ始めて以外と近くなったが、まだまだ理解に苦しむ語彙があるのだ。五右衛門君には俺の肛股を匂われたことがある。柴犬らしく多少のことでは慌てずに、悠然としている。そんな所は是非にも見習いたいものである。
「五右衛門の奴、発情して自分を過大に評価して売り込んでいるわい。誇大広告は良くない。それは詐欺犬のやることで、わが家の愛犬としては相応しくないのだ」
主人は、独り言を言って部屋を出て行った。その後ろ姿を見て、犬語が解る主人に人間の動物的感を見たのだった。
九太郎がいく・・・11
今日も主はかけそうにないので・・・。昨日の続きを読むことにする・・・。
三月二十某日
桜の話が、話題になり始めていた。だが、主人一家にとっては無縁であるらしかった。「桜の花ビラがどんな形をしていたか、どんな匂いがしていたか、何処に咲くのか、桜とどう書くのか、あなたと一緒になってから忘れました」
静さんが主人にむかって言っているのを聴いたからであった。主人には桜の花はにわわないと思う。未到のジャングルに分け入る方がピッタリとすると思った。
「日頃から、こよなく自然を愛していれば桜の前に堂々と出れようが、蔑ろにしておいてよくもまあ桜の前に出られるものであるな。排気ガスを撒き散らかして樹木を虐めておいて、ゴルフ場に農薬を散布して地水を汚しておいて、酸性雨で散々叩き打ちのめしておいて、自然の美しさを愛でたいなどとどうして言えようか。咲くのが早いとか遅いとか文句など言える筈がないではないか。まして、その下で遊興に耽るなどもっての外である。そんな同胞と一緒かと思うと恥かしくてどの面を下げて桜に合えようか。私はそんな厚顔無恥な男ではない」
主人は唾を飛ばしながら言った。それは一理も二理もあると俺は思った。主人は時たま草に小便を引っ掛けるくらいだった。
「貴方ばかりではないわ。私だって、貴方と一緒になったお陰で、神道無念流の抜刀も草木が可哀相だという事で辞めたわ。草木流の生け花も無闇に花や木を切ってはならんと言う事で止めているわ。だから、免許皆伝の腕も錆びついてしまっているわ。僅かの庭にある木だって伸び放題だし、草も生えっ放し・・・。枝は切らさないし、草は抜かさないのですもの。・・・それに協力しているのだから、女ではないと入れて」
静さんは、そう言って多少むくれて見せた。似た者夫婦と言う言葉があるらしいが、夫唱婦随と言う言葉があるらしいが、静さんはそんなにマントヒヒに惚れているのだろうか。まあ、人間と言う動物は猫の感性では図り知れないという事が段々分かったのだった。自然に任す、その勇気を高く買わなくてはならんのかもしれない。
「桜にだって、見られたくない奴だっているはずだ。こんちくしょうと思う人間だっているはずだ。だけど、鈍感な人間にはその桜の心なんか解らないのだ。日頃から、愛でる心を持っていて始めて意気投合し、友情関係が生じるというものだ。それなのに、ああそれなのにそれなのに・・・」
最後の方はしゃがれ声で唄ってみせたのだった。
「処で、貫之に女の人から電話がかかってこなかったかい、歳の頃なら十七八の可憐な声で、奥床しい鈴虫のような声で・・・」
「いいえ、架かって参りませんわよ」
「なにか、気に障るような事を言ったかな」
「いいえ。ですけど、電話は何時も何時も、誰に架けているのか解りませんが此方で架けようとしても通じませんわよ」
「矢張りそうであったか。声を聞きたい、吐息を感じたい、スタンダールの「恋愛論」で言うところの結晶作用と言う段階であるのだな。電話代がなんぼうかかろうが、心の美人を獲得するためなら安いものだ」
「貴方は何を根拠にその人が心の美人かどうか解るのですか」
「カンだよカン。おまえさんと巡り逢い選んだ時のような感が閃くのだよ。今」
「まあ・・・」
静さんは、そこで少し頬を弛めたのだった。
「男にしても、女にしても一目惚れというのが一番正しいのだよ。付き合って見なくては解らない、それは言ってみれば打算で、それだけ感性がなく、愚かであるという証拠のようなものだ。出会った時に、体に電流が走り、雷に射たれたような衝撃がなくてはならんのだ。それが、自らが放つ恋人への電波の周波であり、その周波が一致したもの同士が長くて短い人生を一緒に暮らすことになる。そうでのうては余りにも貧しいではないか。三高とかと言って伴侶の選択の基準を設ける等もっての外であって、そこには、人間の本来持っていた尊敬する、愛する、と言う心が存在していないではないか。金で幸福が購えると言う考えは、本能を掠奪してしまったのだよ。今の人間に必要なのは動物としての本能なのだょ。動物としてのカンなのだよ。例えば、雲の動きでその日の天候を予感したように、風の湿度で明日の天気を予知したように、月を見て潮の満干の時刻を知ったように・・・」
マントヒヒは自らの言に酔ったように喋っていたのを、静さんが横からひょいと取り上げて、
「何が一体言いたいのですか」
とその酔いを止めたのだった。
「それはつまり、一目惚れと言う動物としてのカンの大切さを言っているのであって・・・」
「それでは、女の気持ちはどうなるのかしら」
「出会いというのは、互いが引き合うものだった。周波が同じでなくては引き合わぬものなのだった。だが・・・」
「今はそのようなものではないでしょう」
「それが残念でたまらん。今の様に出鱈目な出会いをしているときっと別れか忍従か諦めか惰性か自棄糞か・・・その果に人生を振り回されると言う事になるのだよ」
「その事と、貫之の事とどのように関連があるのでしょうか」
「言って見ればそうあって欲しいと言う願望かな」
「現実と願望は、男のロマンと女のリヤル的な考えほど隔たっていますわよ。今の娘は過ちを恐がりません。何度も出逢い、何度も恋をして、何度も結婚して、何度も離婚して、何度も人生を遣り直す。その逞しさを持っていますのよ。それも動物としてのカンなのではありませんか」
「・・・」
静さんに、マントヒヒは一本取られたのでした。
「それで女は幸福になったというのか」
「さあ・・・。それはどうでしょうか。其々の考えではありませんか。良かったと思えばいいのではありませんか。後悔しなければ、自分に正直でありさえすれば。お父さんの考えは貝原益軒の「女大学」のそれですわよ。そして、ルソーの「エミール」・・・」
「私の考えが古いと言うのか。黴の生えた饅頭とでも言いたいのか。黴の生えた素麺ほど美味しい物はないと言う現実を忘却しているのではなるまいな。黴の生えた乾麺を捨てる愚かな女が多いいが、それも選択の自由だと言うのか。哲学がない、知恵がない、打算と知識はあっても良否を選択する洗濯機が壊れている」
「お父さんの選択機も古くなっているのですわ」
どうも今日のマントヒヒの論旨には脈絡がなさすぎた。紀子さんの勝ちのようであった。マントヒヒは数年前に合った交通事故の後遺症の為に頭痛がしているのだろうか。
明日はどうやら雨のようである。
九太郎がいく・・・9
今日は主は忙しいらしく、昨日に引き続き三太郎さんの物語を俺が読むということでここに列記しようと思うが…。
主は今度の日曜日の演劇公演のリハーサルを見るのだという。主のことだから、なんだかんだと言って演技者を悩ますのではないかと思うと、演技者が可哀想になった。できのよし悪し主が俺の顔を見たときにわかるので、そのときを待つことにしょう。
さて、そんなことで九太郎がいくが書けそうにないので…。
この家は、茶店を鈴のような声を出すママがしていて、マントヒヒのような顔の人はママの亭主で、客はマスターと呼んでいた。稚い青年は次男で三歳上に長男がいた。
主人の名前を柿本源内と言い、ママを静と言い、長男を貫之、次男を道真と言った。何だか聞いたことがある名前だなぁと思ったが、深く考えなかった。世間を上手く渡ろうと思えば、多少は理性を殺さなくてはならないのだ。まして、人間の知能が後退している今、特にその事は考えの中に入れておかなくはならないだろう。人間の嫉妬心、猜疑心、は際限というものがないからだ。愚かになる事に限るということは、愚かを装った大愚良寛を引合いに出すまでもなかろう。その事は、主人源内さんの生き様を見れば納得が行くというものだ。とにかく、源内と名付けられただけに、やることなすこと破天荒なのだった。一応、物書きという事になっているが、書いた物が売れたためしがないという作家であった。
「書いた物を売るということは、なんと言う傲慢か。万一、書いた物を読んで、それが真実だと思い込んだら大変な事になる。真理真実というものは、そう簡単に手に入るものではないのだ。そんなに簡単に求めている事が手に入ると人間の傲岸を助長することになるではないか。また、作家という者はありもしない嘘八百をさも本当のように、真実の様に書き、読む者をしてその登場人物たらしめ、人生の真実を探求せねばならぬと言う大事業の邪魔をしている。言ってみれば、時間泥棒で、詐欺師で、幇間なのだ。それなのに、なんとかと言う賞を貰うと文化人面をしてテレビに出て、先生と呼ばれて鼻の下を長くしている者がいることは泣くに泣けぬ実に嘆かわしい。同じ物書きとして如何ともしがたいのだ。書くということは爾来人に読んで貰う為に書くのではなく、仏法者が自らを戒せんが為に毎朝勤行をし、思い上がった鼻を折り、腰を折り、膝を折り、五欲に満ちた心を折り、五義に伏す為に自らが自らを折伏をする事と同じで、自分の為に書く、日々の生活においてややもすると忘れがちな人間としての営み生き様をこれでいいのかと問い糾す事でなくてはならんのだ。と言う事は、言ってみれば、自らの裸を衆目に曝すということと同じなのだからして、常人ならば恥かしくて書斎に閉じこもるしかないのが当たり前なのだ。そして、読んでくれた人に申し訳ないと穴を掘り隠れるか、得度して剃髪をし庵を結んで世間に詫びを入れなくてはならぬと言うものだ。まあ、今では、物書きというものはそのような常識も節度も持ち合わせていないのだ多いいのだが。世間を狭くして、精神を売り払って、プライバシィを小出しに見せて、読者に媚び諂い、金という字がだーい好きな者が多くなったと言うことだよ。昔は、自分の思想哲学を語り、人間のユートピァを予言し、冒険を、広大な夢を、自らの為に書いたものだが。だがそれが偶偶、世間に出て人様に読まれると言う偶然があっても、まるでおぼこが着物の裾を風に弄ばれ、大根のような白い太股を晒し慌てて前を合わせて頬を赤らめた時のように、または、お年寄りが布団に地図を描いた時のように照れ隠しの笑いを浮かべ、はたまた、トイレに鍵をしなくて入り用を足していた時にドアをいきよいよく開けられ、怒ろうにも怒れず、自らのそそっかしさを笑いで誤魔化す弄らしさにも通じ、どことなく人間としての哀れさを持っていたものであったのだ。だからして、私は売れないことに誇りと自信を持っているのである」
とまあ、くどくどと御託を並べたものであった。それは、売れないが故に余計に言い訳とも取れ、僻み、やっかみとも取れ、哀れにさえ映ったものであった。これだけの屁の付く理屈を等々と喋りまくるのだから、容貌に似にて中々の偏屈とお分かり頂いた事と思う。
奥様の静様は、それはいい方ですが、
「あなた、三太郎を去勢しましょうよ。さかりがつくと喧しいし、おしつこが臭くて堪らなくなるわょ。やたら匂いを撒き散らして、雌を誘き寄せるんですもの」
と恐いことを言うのであった。げに、どこの世界も雌と言う生き物は恐いものである。 だが、静様はマントヒヒの言うことは絶対に聞くという、近ごろに珍しい性癖を持っていた。意見は言うが、マントヒヒがこうだと言えば、従うという夫唱婦随の女人であった。この事はなにか裏があるらしいと俺は睨んでいる。例えば、マントヒヒの髭がお気にいりなのか、醜い出尻出腹をこよなく愛しているのか。又は、弱みを握られているのか。人間としての能天気な所に多大なる魅力を感じているのか。はたまた、ペット飼う気分で世話をしていて多少のわがままは許せるという寛大な精神を含有している偉人なのだろうか。とにかくじっくりと観察しなくてはならない。女人のヒステリーにはくれぐれも気を付けなくてはならない。月が満ちた時は尚更であろう。心すべし、女人と餓鬼には要注意である。
長男の貫之さんは今年成人式を済ませた、きりりとした美男子であった。その顔は、女人からの電話でいとも容易く破顔になるのであった。その顔は助けべえのそれであった。鼻の下が見る見る長くなり、線を引いたように締まった唇はへの字に崩れ涎を流す始末であった。俺が昼寝をしている時に、テレビを見ていた貫之さんの大きな馬鹿笑いで何度も心地よい眠りから醒まされた経験があった。どうも、建築士の貫之さんは建築工学とか、多塔多寺時代に建築された日本の建造物には興味がないのだろうか。日本の風土にもっとも適した木の文化遺産を知らずして、未来の人間の住居空間が想像構築出来ると言うのだろうか。聖徳太子が仏教のお寺を生前に六寺も建造したというのに対して、紀貫之は歌と女と旅に明け暮れ、その時代の勉強はしていなかったと言う事と共通するのでろうか。それでは歌が読めても人間の心なんか読めようわけがないではないか。中国、朝鮮の文化の影響をひしひしと感じながら生きた紀貫之の歌を、朝鮮古語による解読をせずに、現代の日本語で解釈をするならば、美しい自然をこよなく愛し、懸想を恰も純愛に読み、時代の矛盾を、國民の生活をどうして読まなかったのだろうか。
それは、真っすぐに線も引けず、コンパスで書いたような丸も描けない、詰まり、具象のデッサンも出来ずに抽象画を描く愚かで勇気がある画家と同じではないか。観察していると、貫之さんはテレビとの友情関係を深く保っているようだ。だが、特に感心をするのは毎日毎日日記を書くということである。漫画文字でせっせと何やらにゃにゃしながら日記帳のページを埋めているのだ。そう言えば「・・日記」と言う古典を思い出した。また、そして造形が好きなと言うだけに、女人の裸体が特に好きなようであった。これは、たぶんに主人源内さんの多大なる影響かと思う。このことはおいおい披瀝する事にしたい。 道真さんは、幼い頃、小児喘息を持っていて発作に苦しみ少し猫背がある。それに、主人源内似にて無類の本好きであるせいか、だから中々猫背はよくならないということだ。先天的に藤原と言う姓が好きでないというのは、菅原道真が藤原時平によって九州太宰府に流された事と関係があるのだろうか。春を忘するなと詩った道真との因果関係が・・・。考え過ぎ、ただの偶然と言うものでしょう。だけど、幼い頃から、「記紀」を読み嘘だぁーと叫んで階段を転げ落ちたという話は語りぐさになっていると言う。また、歴史の時間に大化の改新を習っていた時に「聖徳太子はいなかった」と、ほざき先生から校庭を十周走らされたということも、良くない風聞だった。そして、女嫌いであった。タワシを見ても、貝を見ても、げろを吐いた。小学生で、司馬遷の「史記」を読破し、マルクスの「資本論」と同じくらい難解という「記紀」を読み砕いたのだから、失礼ながら、最近の出来の良くない学校の先生の頭脳では付いていけなかったのも当たり前であったろう。だから、学校の成績は小中高では一番尾りであったという。
九太郎が行く・・・10
主は今日も舞台で忙しく俺のことを書く時間がないらしい。今日はFM放送が取材に来て主は早く起きたので、機嫌が悪いので近寄りがたいが・・・。こんな日は近寄らないに限る。ということなので三太郎の物語の続きを・・・。
三月某日
初春の陽射しはまだ冬のように弱々しく底冷えのする日だった。それでも、貫之さんの西に面したその部屋には、大きな硝子の一枚戸があってぽかぽか暖かくて眠りがおいでおいでと手招きをしくれるような日だった。
俺が日溜りの中で両手両足を伸ばして寝ていると、主人が来て何やら捜し始めた。まあ、こんな事は良くある事なので別に気にする事もなく、転寝を装って目線を張り付けていた。ベッドの下から写真集を取り出してペラペラと捲っていたが、気に入ったのがないのか元の位置に返した。
「ろくな女子がいない。子奴の女性に対する審美眼はどうなっているのだろうか」
主人はブツブツと独り言を言いながら、両の手をダラリと下げて歩き回っていた。その姿はマントヒヒのそれであった。静さんに内緒でよくヌードの写真集を見にくるのだが、写真集ではないとすると一体なにを捜しているというのだろうか。
どうも物書きの端くれのなす行動は理解の範疇を越えていることが多いのだ。詰まり、懈怠な行動が俺の正常な頭を混乱させることが多いいのには参るのだ。此処に来て頭が悪くなったのはどうやら付き合う人間のレベルが低いということなのだろうか。常識とか道徳とかと言う考えがこの一家にはないのだった。だが、一面では賢くなっている。屁理屈や、ジョークや、比喩、暗喩などには長けたし、政治経済、国際問題などは、茶店でお客と意気軒高に興奮して遣り合っているので、普通の人間や動物には負けていないと自負している。この前など、貫之さんと道真さんを前にして、
「雄であれ、徹底して雄であれ」
と言っていた。男は雄ではないのだろうかと考えたものであった。そして、
「人間と言う奴は愚かで、間抜けで、大馬鹿で、自分勝手で、欲張りで、吝嗇で、どこを取っても良い所は有りゃしない。便利さを金で買い、本能を文明と引き替えにする。何時の間にか人間は動物ではなくなったのだろうか。犬や猫ですら、お互いの性器の匂いを嗅ぎ相手を選別しているというのに、人間はどうか、鼻が利かなくなってその判断力もなくしてしまっている。コンピーターがどうの占いがどうしたと、生きる道とか定めまでそれらに頼っている。なんという情けなさ、愚かしさ、動物としての感、本能で生きなくてはならんのに、化学科学に頼り過ぎている。だから、人間の男を捨てて、動物の雄になれ」 その話を聞いて、人間を哀れに思ってしまった。また、主人の考えが何だか解るようにも思われたのだった。人間と言う奴は己れで生きていく道を狭くし、生きていく未来まで短くしょうとしているのか。その道ずれに他の生物まで引き込まては堪ったものではないない。いい加減にして欲しいものだ。そう言えば、俺なんかも人間に飼われて本能をなくしていることに気ずかなくてはならないのだ。三食昼寝付、まあ、俺の場合は二食昼寝付だが、鼠とかゴキブリが目の前をうろついてもやっつけてやろう、食ってやろうと言う本能がなくなっているのだ。これは恐い事である。例えば、喉に支えた自分の毛を草を食んで吐き出して、綺麗にするという事まで忘れると自分の毛が元で窒息死ということになる。これは猫として大変に恥かしいことである。
と言うようなことを主人は言っているのだろう。二人の息子に、動物としての雄であれ、人間としての男でなく、動物として生きる事、即ち本能を大切にして生きよ。詰まる所主人の言いたいのは、自然の中に生きよ、本能の中にある理性で生きよと言っているのだった。
俺は、益々主人が好きになり、雄の身でありながら胸が熱くなり、心がときめくのを覚えたのだった。猫族は、人間と違い同姓で愛するということはしない。だからこの場合、主人に対して、尊敬と友情と畏敬の念が湧いたということにしておこう。
「これであったか。最近、電話料金が上がったと思ったら。また例の病気が出たのだろうか」
と主人は心配顔で言った。手には一枚の紙切れを持っていた。
「小野小真智。ふーふん、まるで、深草の少将を袖にした、オノノコマチと読めるではないか。ひょつとしたら、百日間一日も欠かさず電話をしたら、あなたの想いのたけを認めて上げても良いわよ。とかなんとか言われてせっせとダイヤルを回しているのではなかろうか。一体何を話すというのだろうか。一週間位ならどうにか話題もあろうが、だんだんと話す事がなくなって・・・。これは、大変な女子に懸想をしたものであるな。生半可な頭では振り向かせる事など出来りゃしないぞ。振り向かせる事が出来なかったとき、得度して坊さんになると言うようなことを言うのではあるまいな。庵を結んで世を捨てるというような事を言うのではあるまいな。自棄くそになって遊興に明け暮れ、馬に船に自転車、ファツションヘルスにソープランド、挙げ句の果てに自動車で海にドボンと言う様な事にならねば良いが。だが、考えてみれば、これほどの女子なら我が家に是非嫁に来て貰いたいものだ」
主人は、何やら途轍もない空想に捉われたようだった。「十を知りて一を知らざる如くせよ」とは、菊池寛の言であるが、どうも主人は一を知りて十を知ったような想いになるらしい。子供に対する親心とは言い難い。自らがどうも登場人物として加わりたいという、出歯亀の根性で、遊びの感覚であるように思われる。
五右衛門君が雌犬を求めて遠吠えをしているのが聞こえてきた。
「雌よ来い。雌よ来い。こっちは血統書付きの柴犬で、セックス上手で、話が巧い。人間社会のいざこざは、環境問題、国際関係、何でもござれの知識犬。損はない、損はさせない、飽きさせない、退屈はさせない、雌よ来い。雌よーこーい」
と言うような誘いを叫んでいるのだろう。猫語と犬語は人間に飼われ始めて以外と近くなったが、まだまだ理解に苦しむ語彙があるのだ。五右衛門君には俺の肛股を匂われたことがある。柴犬らしく多少のことでは慌てずに、悠然としている。そんな所は是非にも見習いたいものである。
「五右衛門の奴、発情して自分を過大に評価して売り込んでいるわい。誇大広告は良くない。それは詐欺犬のやることで、わが家の愛犬としては相応しくないのだ」
主人は、独り言を言って部屋を出て行った。その後ろ姿を見て、犬語が解る主人に人間の動物的感を見たのだった。
九太郎がいく・・・11
今日も主はかけそうにないので・・・。昨日の続きを読むことにする・・・。
三月二十某日
桜の話が、話題になり始めていた。だが、主人一家にとっては無縁であるらしかった。「桜の花ビラがどんな形をしていたか、どんな匂いがしていたか、何処に咲くのか、桜とどう書くのか、あなたと一緒になってから忘れました」
静さんが主人にむかって言っているのを聴いたからであった。主人には桜の花はにわわないと思う。未到のジャングルに分け入る方がピッタリとすると思った。
「日頃から、こよなく自然を愛していれば桜の前に堂々と出れようが、蔑ろにしておいてよくもまあ桜の前に出られるものであるな。排気ガスを撒き散らかして樹木を虐めておいて、ゴルフ場に農薬を散布して地水を汚しておいて、酸性雨で散々叩き打ちのめしておいて、自然の美しさを愛でたいなどとどうして言えようか。咲くのが早いとか遅いとか文句など言える筈がないではないか。まして、その下で遊興に耽るなどもっての外である。そんな同胞と一緒かと思うと恥かしくてどの面を下げて桜に合えようか。私はそんな厚顔無恥な男ではない」
主人は唾を飛ばしながら言った。それは一理も二理もあると俺は思った。主人は時たま草に小便を引っ掛けるくらいだった。
「貴方ばかりではないわ。私だって、貴方と一緒になったお陰で、神道無念流の抜刀も草木が可哀相だという事で辞めたわ。草木流の生け花も無闇に花や木を切ってはならんと言う事で止めているわ。だから、免許皆伝の腕も錆びついてしまっているわ。僅かの庭にある木だって伸び放題だし、草も生えっ放し・・・。枝は切らさないし、草は抜かさないのですもの。・・・それに協力しているのだから、女ではないと入れて」
静さんは、そう言って多少むくれて見せた。似た者夫婦と言う言葉があるらしいが、夫唱婦随と言う言葉があるらしいが、静さんはそんなにマントヒヒに惚れているのだろうか。まあ、人間と言う動物は猫の感性では図り知れないという事が段々分かったのだった。自然に任す、その勇気を高く買わなくてはならんのかもしれない。
「桜にだって、見られたくない奴だっているはずだ。こんちくしょうと思う人間だっているはずだ。だけど、鈍感な人間にはその桜の心なんか解らないのだ。日頃から、愛でる心を持っていて始めて意気投合し、友情関係が生じるというものだ。それなのに、ああそれなのにそれなのに・・・」
最後の方はしゃがれ声で唄ってみせたのだった。
「処で、貫之に女の人から電話がかかってこなかったかい、歳の頃なら十七八の可憐な声で、奥床しい鈴虫のような声で・・・」
「いいえ、架かって参りませんわよ」
「なにか、気に障るような事を言ったかな」
「いいえ。ですけど、電話は何時も何時も、誰に架けているのか解りませんが此方で架けようとしても通じませんわよ」
「矢張りそうであったか。声を聞きたい、吐息を感じたい、スタンダールの「恋愛論」で言うところの結晶作用と言う段階であるのだな。電話代がなんぼうかかろうが、心の美人を獲得するためなら安いものだ」
「貴方は何を根拠にその人が心の美人かどうか解るのですか」
「カンだよカン。おまえさんと巡り逢い選んだ時のような感が閃くのだよ。今」
「まあ・・・」
静さんは、そこで少し頬を弛めたのだった。
「男にしても、女にしても一目惚れというのが一番正しいのだよ。付き合って見なくては解らない、それは言ってみれば打算で、それだけ感性がなく、愚かであるという証拠のようなものだ。出会った時に、体に電流が走り、雷に射たれたような衝撃がなくてはならんのだ。それが、自らが放つ恋人への電波の周波であり、その周波が一致したもの同士が長くて短い人生を一緒に暮らすことになる。そうでのうては余りにも貧しいではないか。三高とかと言って伴侶の選択の基準を設ける等もっての外であって、そこには、人間の本来持っていた尊敬する、愛する、と言う心が存在していないではないか。金で幸福が購えると言う考えは、本能を掠奪してしまったのだよ。今の人間に必要なのは動物としての本能なのだょ。動物としてのカンなのだよ。例えば、雲の動きでその日の天候を予感したように、風の湿度で明日の天気を予知したように、月を見て潮の満干の時刻を知ったように・・・」
マントヒヒは自らの言に酔ったように喋っていたのを、静さんが横からひょいと取り上げて、
「何が一体言いたいのですか」
とその酔いを止めたのだった。
「それはつまり、一目惚れと言う動物としてのカンの大切さを言っているのであって・・・」
「それでは、女の気持ちはどうなるのかしら」
「出会いというのは、互いが引き合うものだった。周波が同じでなくては引き合わぬものなのだった。だが・・・」
「今はそのようなものではないでしょう」
「それが残念でたまらん。今の様に出鱈目な出会いをしているときっと別れか忍従か諦めか惰性か自棄糞か・・・その果に人生を振り回されると言う事になるのだよ」
「その事と、貫之の事とどのように関連があるのでしょうか」
「言って見ればそうあって欲しいと言う願望かな」
「現実と願望は、男のロマンと女のリヤル的な考えほど隔たっていますわよ。今の娘は過ちを恐がりません。何度も出逢い、何度も恋をして、何度も結婚して、何度も離婚して、何度も人生を遣り直す。その逞しさを持っていますのよ。それも動物としてのカンなのではありませんか」
「・・・」
静さんに、マントヒヒは一本取られたのでした。
「それで女は幸福になったというのか」
「さあ・・・。それはどうでしょうか。其々の考えではありませんか。良かったと思えばいいのではありませんか。後悔しなければ、自分に正直でありさえすれば。お父さんの考えは貝原益軒の「女大学」のそれですわよ。そして、ルソーの「エミール」・・・」
「私の考えが古いと言うのか。黴の生えた饅頭とでも言いたいのか。黴の生えた素麺ほど美味しい物はないと言う現実を忘却しているのではなるまいな。黴の生えた乾麺を捨てる愚かな女が多いいが、それも選択の自由だと言うのか。哲学がない、知恵がない、打算と知識はあっても良否を選択する洗濯機が壊れている」
「お父さんの選択機も古くなっているのですわ」
どうも今日のマントヒヒの論旨には脈絡がなさすぎた。紀子さんの勝ちのようであった。マントヒヒは数年前に合った交通事故の後遺症の為に頭痛がしているのだろうか。
明日はどうやら雨のようである。