yuuの夢物語

夢の数々をここに語り綴りたい

麗老の華 1.2

2011-02-09 22:45:02 | 創作の小部屋
春は花夏ほととぎす秋はもみぢ葉


麗老の華

1・・・(1)

 車を駐車場にきちんと止めたと思ったが左に切りすぎていた。そんな事が最近増えていた。
 このあたりで定年か・・・。そのことで逢沢雄吉は心を決めた。相談する人はいなかった。妻は二人の子供を残してあっさりとなくなっていた。二人の子供たちも年頃を迎え相手をどこからかみつけて巣立っていた。
 おかげで家のローンも完済していたから退職金と年金で食べていけることに心を撫で下ろしたが、一人の家での生活がどうなるのか不安はあった。一人二人と家を出て行き寂しさを持ったがそれは一時のことで、南向きの和室に万年床を敷いて過ごしたのだった。休みの日にはカーテンを開きサッシを開ければ日差しは布団を乾かしてくれ、きれいな空気を満たしてくれた。そのことに雄吉は満足していた。
 まだ幼かった子供たちを残されたとき、どうなることかと案じたがどうにか育てることが出来た。やれば出来る物だと言うことをそのとき知った。
 雄吉は定年に対してあれこれ考えてはいなかった。下請けに行く事も出来るがといわれていた。が、前のように車を停車できないことで区切りをつけたのだった。それと年ごとに寒さに対して体が適応しなくなったこともあった。下着を二枚着なくては過ごせなくなっていた。

麗老1・・・(2)

「下車するの」
「車が真っ直ぐ駐車できなくなったから、降ります」
「それなによ」
「切っ掛け」
「そうなんだ」
「そう」
「これから国家公務員になるんだ」
「年金生活」
「羨ましいわ」
「手足もぎ取られるようで、ほんと寂しい」
「年取らないでよ、真っ赤なスポーツカーを買って颯爽と生きてよ」
「これから考えるよ、何かを作らなくてはと思ってる」
「それでどうすんの」
「なによ」
「女作って子供作って・・・」
「そんな歳でもないよ」
「一休さんは八十で子をなしたって・・・」
「羨ましいね」
「奥さん亡くしてどうしてたの」
「忙しかった」
「もう、色気がないんだから。男は少し悪の方がもてるのよ」
「いいよ、もてなくても」
「いい人紹介しょうか」
「また来るよ」
「逃げるのね」
「ああ」
「まだ寒いから、暖かくしてね」
 雄吉は仕事から帰ったら近くの居酒屋で時間をつぶすのを日課にしていた。あまり飲めないので燗を二本と旬の魚料理を食べるのであった。


2011-02-08 19:17:45 | 独り言
春よ、来い(歌詞付き)



 二月に入ってようやく寒波はひいたようだ。少し気温が上がり過ごしやすくなった。梅の便りも届くようになっている。寒いが風が心地良い。剪定した薔薇の幹から新芽が伸び始めている。春が来ることを感じた草花が春の準備を始めている。寒さに耐えて物だけが感じる息吹なのだろう。冬芽は春になると綺麗な花を咲かすという。そう言えば鳥たちの囀りが春を運んでくるのだろう。
 ようやく冬の寒さに慣れたというのに春を迎えようとしている。
 私に取っては春は頭の回転を鈍くする物だ。春と限定する必要もなくなっている。年中なのかもしれない。人間の体に丁度良い気温は私の様に鬱を持ち合わせている物にとっては辛い時期になる。春の天気にはほとほと嫌気がさすことがある。気圧が安定していないから耳がつんとして中々戻らない。春眠暁を覚えずではないが眠くてしょうがないという弊害がある。頭はボーとしていて思考力低下する。今まで春に書いた作品はないと言っていい。それは秋にも言える。
 鬱で苦しんでいるときに同じ症状の焼き肉屋のてっちゃんが川崎医大の心療内科へ連れて行ってくれた。てっちゃんは私のところからニ百米ほど行ったところの魚屋に良く来ていた。たばこ屋のまきちゃんも同じような病気で魚屋へ良く来ていた。二人とも魚が目的ではなく父の魚屋を手伝う恵子さんが目当てで毎日のように通っていたのだ。三人は同じ高校の同窓で仲が良かった。店の前の縁台に刺身や干物を焼いた物を置き二人で食べながら美しい恵子さんを見てはため息をついていたのだ。二人は盛んに煙草をくゆらせていたが、目は恵子さんに貼り付けていた。恵子さんは高峯秀子さんばりの可愛い人であった。
三人の三角関係というのであれば話は面白くなるのだが恵子さんは相手にしていなかった。男として見ていないと言うことなのだ。てっちゃんもまきちゃんも大柄であったが気持ちは優しくて温厚な人だった。恋をしていても口に出す程の勇気は持ち合わせていなかった。二人とも美しい片思いをしていたのだ。てっちやんは入院して治療中に酒を飲んで二つの大きな病院を強制退院させられるという猛者なのであったが恵子さんには弱かった。焼き肉屋は嫁さんに任せて魚屋と病院へ通よう日々を送っていたのだ。色の白い艶福な顔立ちの青年であった。北朝鮮の在日三世であった。
 そんなてっちゃんに連れられて病院通いをし出して鬱の症状はだんだん軽くなっていった。薬が効いたのであった。夜眠られるようになった。鉛をかぶったような頭が軽くなっていた。
 そのころ倉敷演劇研究会の土倉さんが、
「おい、生きとるかや」と久しぶりに覗いた。
 演劇の台本を頼み練習を見てくれと泣きついてきた。基礎訓練を見て書いても良いと思った。
 台本を一晩で書いて渡した。その練習にも立ち会った。
 鬱の症状はなくなったが、時に不安発作が襲い何度救急車に乗ったであろうか。それは決まって春と秋に出た。もう死んでも良いと破れかぶれになるしかなかった。開き直ったら意外と楽になっていた。それまで乗れなかった車も「死ぬときはしぬ」と念仏のように唱えながら運転した。
 辻邦生さんや南木佳士さんや五木寛之さんの本が読めるようになった。むずかしい本は理解できないという後遺症は残っているのだが。
 私の演劇の歴史は鬱の歴史なのである。
 青年達と少年達に支えられながら演劇の公演を六十回こなした。家の隣にスタジオ件練習場を創り毎日その階段を上がっていく度に鬱との別れ話が進んでいったことになる。
 日本劇作家協会、財団法人舞台芸術財団演劇人会議、篠田正浩監督作品への出演らの関わりも鬱の何かでのことなのである。
 今はそのすべてを止めのんびりゆったり自分流に暮らしている。なぜか今昔の文学青年に返りつつあるのだ。演劇よりしきりに小説が書きたくなっている。
 若かったころ同人誌を創ってはやめ創ってはやめしたころを懐かしんでいるのだ。そのころの同人は今何をしているのだろうかと想う日々が繰り返されている。皆、才能を持った人たちであった。家庭を守らなければならなくなって止めていったのだ。時折電話がかかってきたり年賀状が転がり込んで元気にしていることを知り我がことの様にうれしくなるのだ。
 心臓病を抱えて何時死んでも良いと言っていたキリスト教徒の丘ちゃん、土地が売れて何億もの金が転がり込んで書けなくなった杉さん、
「女流文学賞」をとり今は踊りの流派を立ち上げ弟子を育てている梅さん、嫁さんがいながら何度も女と駆け落ちをした大さん、全共闘上がりで理屈屋で脳梗塞の後遺症に悩むすーさん、大手新聞の取締役になったますさん、それぞれが自分の人生を生き抜いたのだ。それがまさに小説のようにである。
 寒さに耐えて春を迎えようとしているがその人生に春があって欲しいと祈っている。
 そう言えば焼き肉屋のてっちゃんは夭折したと聞いた。
 春になろうとしている今、そんな感慨にとらわれている。
 地球が温暖化する寒冷化する、そんな事はもう考えなくして、ひたすら書きたい物を書くことにする。
 春から新しい作品を書き始めることにしたのだ。
 今は安定剤を飲むだけになっている。

2011-02-07 21:11:37 | 独り言
ご先祖さまは呑気なモンキー(2011立春大コラボ企画・original)by mimu1225231



 秋は冬と違った静けさがある。そう感じたのはやはりこの歳になってからである。緑なした葉は紅葉してやがて落葉し地面を覆う。一面に枯れ葉を敷き詰めたような佇まいになる。人通りがあっても静けさを感じる。わびさびの世界へ誘ってくれ静寂を肌に感じることが出来る。その少し肌寒い澄んだ空気が心まで引き締めてくれるよう。
 春と秋のどちらが良いかと問われたら秋ですよと答えるだろう。春は心浮き立ち多感でもないのに何も手に付かなく、秋は心を安らかにしてくれ何事にも集中させてくれる。
若い頃は春も秋もあまり好きではなかった。寧ろ厳しい夏と冬の方が好きで創作に向いていた。汗だくになり、重ね着をする現実の方が私の性に合っていたのだ。
 還暦を迎えた頃から夏と冬があまり好きではなくなった。それは暑さと寒さに弱くなった所為かも知れない。春のけだるさが、ひなたぼっこが出来る丁度良い温かさが体に合ってきたのかも知れない。秋の少し涼しい風が緊張感を持たせてくれ考える時間を提供してくれるのが体に合ってきた。
 春と秋のどちらが好きかと問われたら秋ですよと答えるだろう。
 歳ともに自然の中に同居する自分を感じている。思えばそれが佇む秋なのかも知れない。蕭々とふく風と一体となって空を飛んでいるような感覚にとらわれるのは秋なのである。想像力が、集中力が増すのはやはり秋なのである。歳とともにその感は深くなっている。
月の満ち干きにも、満点の輝く星にも心が動き下手な詩を口ずさんでしまう。秋はいかほどの人をもロマンチィクにする。無粋な私に何か考えなくてはならない様な感覚にさせる。佇む人にしてくれる。
秋の空気を吸うのも好きです。肺堂に新鮮な空気を一杯吸いたいと思わせる。
 こんな感慨を持つようになったのは還暦が過ぎた頃からだった。
私の場合は特殊なのかも知れない。今まで秋を蔑ろにしていたから余計に感ずるのかも知れない。秋は私を哲学者にしてくれる、思想家にしてくれる、詩人にも・・・。
 歳をとると現実家になると言うが、今更ロマンもないが何かが叶い出来そうな予感を持つことが出来る。秋は夢を実現してくれる時に変わる。厳しい冬にむかわせる秋のひとときはそれを乗り越える力をくれる。
 人恋しくなって訪ねたくなるのも秋、自然の景観を楽しむのも秋、
佇む秋なのだ。
 私の好きな童謡に、「赤とんぼ」「里の秋」がある。舞台でよく使うのは「赤とんぼ」である。子供達に舞台で歌って貰う。効果として流す。ホリゾントを夕焼けに染めて歌い、流すのだ。最近は特によく使う。それが私の郷愁であり心のふるさとのように。
 私のふるさとは何処なのだろうと思う。父と母の墓があるのは讃岐平野の飯山の南にある市街化された真ん中に残されている里山の中なのである法軍寺。私が産まれたのは疎開をしていたいまの岡山の市街地になっている東畦というところ。育ったのは岡山市内の東古松、今住んでいるのは倉敷水島。それぞれがふるさとだと言う思いはある。だが、父と母の眠るぽつんと残された里山が一番ふるさとにふさわしいと思っている。秋を感じることの出来る場所であるからなのだろうか。父はその里山で生まれ里山で眠っている。
 父が老いてからの口癖は産まれた場所に帰りたいというものであった。歳を取って思うに多少無理をしてもその願いを叶えてやらなかったかと言うことだ。私も帰るふるさとがあればそう言うだろうと思うからだ。ふるさとという言葉に秋を感じるのは私一人であろうか。
 四季のある日本では秋は神仏の行事が多い気がする。秋は神事、仏事をするのに最適な季節なのだろう。手を合わせたくなり、祈りたくなり、自らを振り返るのには秋の静かな佇まいがあう。季語も有り余るほどある。それは秋をこよなく愛した人たちが沢山いたという事か。
 これは直接関係ないが、
 小説家の南木佳士さんは芥川の作品の中でどれが秀作かを問われ「秋」と答えている。芥川が男と女の別れを書いたものの題名がなぜ秋なのか、ものの哀れを秋に喩えたのか・・・。
 秋の佇まいにものの哀れを感じるから日本人は秋が好きなのだろう。
 これからも佇む秋を感じ考えながら生きていかなければならない。
静まり返り物音一つしない空間の中に老いた身を置いて何かを感じるために・・・。
 若かった頃のことども思い出ししばし遊ぶために・・・。そして、考えてもどうしょうもないこれからの道のりのために・・・。
 秋はそんな感慨をもたらしてくれる。
 秋は老いてゆく孤独を優しく包んでくれる、孤独の中でつぶやくと秋の景色は大らかに受け止めてくれ中へとけ込むような気がする。
 四季の中でそんな秋が好きになっている。

食品問題のウラ 1/6

2011-02-06 19:46:50 | シナリオ あの瞳の輝き永遠に 
食品問題のウラ 1/6

食品問題のウラ 1/6



どうも日本の食品が危ない。添加物が子供の命を奪うのか・・・。

添加物で作れる、即席ラーメンのたれ。あらゆる食品の中に添加物で入り体をむしばむのか。

有機農業も危ないと・・・。日本人はなにを食べればいいのか・・・。

地球温暖化データ捏造問題 1/2

2011-02-05 22:06:47 | 独り言
地球温暖化データ捏造問題 1/2


今日はこのお話を聞いてください。ご本人で考えてください。

自然環境の前に

2011-02-04 20:57:50 | 独り言
琵琶湖から学ぶ自然環境保護~琵琶湖シリーズvol.2

自然環境の前に

 自然破壊や自然環境を言う前に整備を怠ってはならない。つまり自然のあるべき姿を認識する必要がある。その時代を何時の時代まで戻すかのと言うことである。
だが言葉ではたやすく言うが壊れ破壊していくものを元へ戻すことが本当に可能なのだろうか。今考えていることは壊れ破壊している自然を今の状態で止めると言うことでしかない。万一それが出来るとしても自然恢復は可能なのだろうか。大気圏にあるフロンや二酸化炭素をどのようにしてなくするのかと言う研究は途方もなく広くて考えられないというのだろうか。もうこれ以上二酸化炭素の排出を阻止しなくてはあらゆる動植物の生存は出来ないところまできているという現実。人間は際限もなくあらゆる地球の資源を生活の便利と引き替えに浪費してきた付けがいまの地球と言う水の惑星に襲いかかっている危機なのである。人類の最高の発明と言われる自動車が石油という資源を消費する事により、ジェツト機で地球の時間を短縮させて気候変動の元を作っているのだが、果たしてそれだけであるのか。地球自体が変動期に入っていて狂わせているのではないか。様々な憶測がある。いろいろな研究もなされているのだが真意は実態は調べ始めた統計からは判断が出来ないのだ。このままで行くと地球には大きな試練が待っていると言うことになろう事は推測できるのだが。その地球が百万年か二千万年を過ぎて地球自体が再生され動植物がすむようになるとすれば進化した動植物が息を吹き返す事になるのであろうか。地球に危機が訪れ度に動植物は進化を遂げたようにである。
 今、家庭ゴミの選別をし焼却による大気汚染を防止しようとする動きがあるが、車をエコカーに買い換え、電力の消費を押さえた電化製品に取り替え、企業は二酸化炭素の削減を行い、それらの努力は果たして報いられるのか。だがそこには大きな落とし穴があることに気づかなくてはならない。自然環境を考える人間自体の問題があることを。つまり人間のモラルの問題である。
 私は倉敷水島のコンビナートにすんでいて公害闘争を行った経験がある。水の汚染がやかましく言われ合成中性洗剤が敵の様に言われた時期があった。学校の先生上がりの人たちがやかましくまくし立てていたが彼女達がやったのが廃油の中に苛性ソーダーを入れ炊き石けんを作ると言うものだった。その程度の浅知恵で水が綺麗になると考えていたらしい。新聞やテレビに取り上げられ悦にいっていたが、水は一向に綺麗にならなかった。合成中性洗剤ん゛みずを汚すと同じように作られた石けんも水を汚すことには変わらなかったのだ。この程度の事で綺麗になるはずはなく行政に下水道の完備をなぜ提言しないのかと不思議であったものだ。行政は水の汚れに対してコンクリートの護岸工事をして海へ早く垂れ流すと言う投げやりな解決策を施したのだ。それが余計に水を汚染させていた。それまでの川には草が生えて川面にたれ水草が繁茂して水を浄化していたものをそれが出来ない川にしたことに気づかなかったのだ。それに住民の意識が足りなかった。つまり人間環境が整ってなかったと言うことなのである。何が言いたいのか、つまり自然環境を良くするためには人間環境を良くしないと駄目だと言うことを言いたい訳なのである。川にゴミを捨て、煙草の吸い殻を路に捨て、人は横断歩道でないところを渡り、自転車に乗っている人たちは信号機を無視し、大きな車を一人で乗り回し、ジェツト機に乗って観光にうつつを抜かし、木々を切り倒して山を削り作ったゴルフ場で運動と言いつつ遊興にふけり、それをしている現実はすべて人間環境のなさ故で、そこに大きな公害や二酸化炭素の排出の原点があることを知らない無知な傲岸があるのだ。それは固形石けんを作ったくだんの先生上がりと大差のない行動なのである。
 今よりこれから今の地球を残そうとしたらそんな傲岸はやめなくてはならない。不自由は我慢し耐乏しなくてはならないことなのだが、一向に気づく人がいないのが現状である。その人らは口では環境問題を真しやかに説くのだ。それは煙草の煙が他人に迷惑を及ぼすからやめろと言う理論なのだ。自動車の排気ガス、ジェット機のとつてもなく多い排気ガス、工場の煙突から出る煙に文句が言えない人の弱い者いじめなのだ。煙草は分煙と言うこともあるので節度のある人たちは喫煙所で吸うべきなのだ。声だかに言われる筋合いではない。吸って早く逝きたいのだからほっとけばいいのである。
 人間環境、これは教育の問題ではない。人間の資質の問題なのだ。資質は教育から生まれると言われるがどのように生きれば良いかという哲学の問題なのだ。優しい慈しみがその底辺に流れていなくては生まれないものなのだ。
 更に言う。環境問題のネックは人間環境の貧しさであり自分勝手な行動なのである。それを知らしめる事の不備であると。人間環境が良くならないと自然環境は決して改善されないのだ。
 心がすさんでいては自然も崩壊すると。

書く物によることがある・・・。

2011-02-03 23:59:21 | 独り言
アマゾン第一位作家大集合1/2

ワープロと心中

 ワープロが壊れメーカーに部品がなくなり直せなくなったのが還暦の六十歳の時だった。ワープロを四台叩き潰した時だった。手書きからワープロへ、原稿用紙に文字を書いていると指先が痛くなり痺れて困るしもともと悪筆の私にはワープロは神の手の様に文字を生み出してくれ文体を覚知して変換してくれた。
「そろそろパソコンに変えた方がいいのではありませんか」
 修理に出すと部品がないと断りながら家電の修理係が言った。パソコンは買ってあったがどのように扱えばいいか分からずに埃をかぶっていた。
ーこれを期に書くことは辞めろというのかも知れない、還暦の時にそうおもったー
 人並みにここらでリタイアをするかと書くことを辞めた。新しいパソコンを買ってチャットをしたりホームページを作ったりして遊んだ。むずかしいと思っていたパソコンも意外と簡単であった。遊び人の暇人、時間は幾らでもあったから独学でマスターした。ぶろばぁいだぁーへ真夜中に電話を入れて色々と教わった。いじりすぎてその都度パソコンは故障して修理に出した。買ったときの値段より高くかかった。それが良い勉強になりマスターするのに役立った。本なんか読まなかった。ワードを使って見るとたやすく文章が打てた。ワープロのキーボードと同じであったからだった。だがワードはワープロと違い癖を関知してくれなかった。ワープロ好きが沢山いることに納得した。
 チャットで「朝まで生チャット」との時間を作ったり、作品を朗読したりして楽しんだ。「朝まで生チャット」というのはテーマを決めてチャットのみんなと意見交換をする物だった。その部屋には二、三十人は訪ねてきてくれていた。真剣に発言してくれ良い部屋を運営出来た。アメリカ、オランダ、中国の人たちも参加してくれた。興奮しすぎて鼻血が出て止まらなり八日間入院したのをきっかけにチャットは卒業した。それからブログを立ち上げて今まで書いた小説を更新した。パソコンで書いた物と言ったら自分史を書き続けているだけである。だから作品は一作も書き上げていない。書いた物は途中で完結した物はひとつもない。書いている途中で、書くのを辞めたのだと気づき続きを書かないからなのだ。
 ところが孫が、それも二人も一緒に産まれたものだから何か記念にと思い系図を小説風に書いてしまったのだ。還暦で書かないと誓ったことを反古してしまったのだ。孫達の成長する姿を見ていると私もこれで良いのかと言う反省が産まれまだまだと感じ本を読んだり書くことを再開した。ワープロを自由に使いこなした手がワードを変幻自在に扱うすべてを習得した。それを使わない手はないと書き始めたのだ。パソコンから産まれた小説や戯曲はまだないが随筆は何十編は書いた。自分が随筆と思っているだけでそれは雑文なのだ。思いつきをただ綴っただけなのだ。自分史もまだ四十歳のところで止まっているのだ。これから書き進めなくてはならないとつくづく思っているがなかなか、爾来横着者故何時も途中までと言うことになっている。孫達のはしゃぐ声を聞いていると書かなくてはと思うのだがなかなか手に付かないのだ。駄目な奴なんです。
 ツィツターで少し過激なことを書いたら閉鎖された。本当の事を書くと消去すると言うことは何なんだろう。つぶやき、らちもない事を書いて喜んでいることの方が人間関係を円滑にするのだろうか。そんな つぶやき はいらない、こちらの方から願い下げだ。
 私がブログに沢山の作品を残しているのは紙に残すより場所をとらないから良いと言うことだけである。ワープロで書いているときにはフロッピーに何十枚と入れていた。それがCDへコピーすれば何枚かで終わる、DVDならなお少なくてすむ、画期的な記録保存形態なのである。それを使わない手はないと使っている。今、ワープロのようにワードをつかっている。すっかり自分の物にしているから出来るのである。今考えればローマ字で入力をしていれば良かったと思う。ワープロは最初にカナで入力をし馴れてしまっているから今からでは面倒だと言うことでそれを使って打っている。
 ワープロの良いところ、ワードの良いところそれらを比較したがどちらでもいい故障をせずにあってくれればと思う。
 私が作品を書いていると孫達がきて賑やかに遊んでいるが、私が相手をしないのでパソコンのスイッチを切るのには閉口する。書いていた物がすべてパーになってしまう。何度書き直したことか・・・。
だが、パソコンは素晴らしい。吾が家は新聞を三年前からとっていない、ニュースはすべてパソコンで読むから必要がなくなったからなのだ。今我が家には八台のパソコンがあり一人に一台という計算になる。孫達を含めてのことである。
 ワープロが良かったか、ワードが良いかと言われれば、書くのだったらワープロと答えるであろう。書くだけの機能を持ったワープロが良いと懐かしさを込めて言うだろう。それはワープロで沢山の作品を書いたことに由来するのだ。
 辞書機能を充実させたワープロの新商品が今でも欲しいと思っている。つまり電子辞書とワープロの合体を・・・。

演劇公演

2011-02-02 20:00:38 | 独り言
三谷幸喜・ビートたけし「大家族主義(2)」1/6

 演劇公演

 幕開けと幕締めで演劇の善し悪しは決まるという。
三十分前から客入れをし、開幕五分前に予ベルを鳴らし、五分後に本ベルを1分間鳴らす。鳴り終わると客殿の明かりが落ち、緞帳が上がり舞台が始まる。
 幕が上がる瞬間が一番緊張しますと役者ではなく舞台監督が言った。舞監は舞台の袖で舞台の動きと台本を見比べながら明かりと音の指示を出すのだ。作者の私が私の舞台を客殿から一度も見たことがない。楽屋のモニターで見るのだ。それが習慣になってしまった。
 役者が舞台に入っていく前に、
「楽しんでやってこい」
 と声をかけるのも習慣になっている。演出は客殿から全体の舞台を見詰め客殿の反応を確かめ反省をし次へのステップにするのだ。私はモニターを見ながら台本を書いている最中のことや、演劇を立ち上げる段階を思い出している。全体の本読み、台本をもっての半立ち稽古、本を離しての立ち稽古、その様を思い出しながら次の台本の準備にはいる。モニターの映像は過去の物で新しい台本が頭の中に作られていく。台本が演出の手に渡った瞬間から次の台本にかかっている。幕が上がると全責任と全権が舞監の腕にかかるのだ。幕がおりカーテンコールが終わるまで舞監の緊張は解かれない。作者や演出は唯見ているだけの存在になる。自作を演出していたときにも観客にはならなかった。幕が上がってしまってどうしょうというのだ、「花も嵐も踏み越えて、ままよ三度笠」と開き直るしかなかったのだ。
 私は演劇青年ではなかった。映画少年だったから芝居とか演劇は見たことがなかった。小さな頃母に連れられて女剣劇を見たのが最初であり、その後は見たことがない。東京にいたときには浅草のストリップ劇場の前で呼び込みの口上を真剣に聞いていた。入場する金など持ち合わせていなかったからだ。客の心を惹き見たいと思わせる巧みさに酔いしれていた。それだけで満足であった。
「お兄さんは入らないのかい。口上だけで満足しそんなに真剣に聞いてくれてもこちとら一銭にもなりぁしねえのよ。今日のところは木戸銭はいらねえから見ていきな。何人見るのも一緒てもんだ」
そう言って中へ連れて行ってくれた。スポットライトに照らし出された女の裸体が音楽に乗せられて踊っていた。
「木戸銭を払おうが払うまいが入ったら客だ。真剣に拝みな。観音様は浅草寺だけではねえよ。ここでは生きた観音様が見られるぜ」
後ろで呼び込みのおっさんが言った。観音様に魅せられて信心が芽生え拝みに通った。というのは呼び込みのおっさんの手前のことで、私が好きだったのは踊り子お姉さんと踊り子のお姉さんの出番の間のコントだった。
 コントを見たことが勉強になった。コメディアンさんの真剣さに心うたれ、その人達の悲喜こもごもを知ることになる。楽屋に出入りが出来るようになり、座付き作家さんに台本の書き方を教えて貰い、踊り子のお姉さん達にセロテープで皺を隠す方法を学び、コメディアンさん達に生き方を学んだ。そのコントが演劇青年になるきっかけであった。何処をどう間違ったのか新派の北条秀司さんの雑誌に参加していた。
 新派の劇作をする人を育てるのが目的で作られた雑誌だった。その中にテレビドラマ「判決」を書いていた高橋玄洋さんがいた。彼は北条秀司さん弟子だった。私の台本に泣きが必ず入るのは新派を勉強したからかも知れない。笑いと泣きを学んで泣きが残ったのである。笑いを書くのはむずかしいが泣きは意外と優しいと言うのも原因かも知れない。
 この歳になってその人達を思うと今どうしているのだろうかと。鬼籍の人になっている人が殆どだろうと思う。人前で笑い一人になって泣くそんな人間らしい人生を見事送って終わったとしたら幸せだったと言えよう。明日のことなど考えず今日を今を木戸銭を払って入ってきた客に腹わたまで魅せていた踊り子のお姉さん達、緊張しているお客さんを引っ繰り返りながら腹を抱えて笑わしたコメディアンさん達、煙草を吸い鉛筆を舐めながら藁半紙に文字を綴っていた座付き作家さん、名調子の少しびっこの呼び込みのおっさん、浅草の夜の星を眺めていた人たちであった。
 モニターからは声が届かない。舞台に聞こえるから音を絞っているのだ。舞台からの声が僅かに聞こえてきて進行状態が読み取れる。頭では次の台本を書いているのだが目と耳は舞台へ張り付いていた。
 公演の成功の基準は客の数と拍手の大きさなのだ。
 その拍手をじっと待つ。
「何をもたもたしとんねん。演出の言うた通りにせんかい」
「よっしゃ、そこで決めてくれ。そうやそれでええのや」
「忘れ取るやないか、はよ袖から台詞を入れたれ」
 無関心を装っているがモニターに叫んでいる。
 幕の下りる音がしている。拍手が大きい。
「ええど、幕あげてカーテンコールや。ぎょうさん拍手をもらえ。ここでは目一杯に笑って」

「ガキがないとるさかい、はよ乳のましてえな」ヒモのよっちゃんが踊り子のお姉さんに叫んでいる。
「あほ、あんたがやってえな。今、忙しいいんや、それもでけん甲斐性なしか」踊り子のお姉さんが叫び返している。
 私の頭の中には交錯する二つの演劇があるのか。私には同じに見えた。

環境問題のウソ

2011-02-01 20:56:27 | 独り言
武田邦彦 『現代のコペルニクス』 #4 特別講義 (前編) 1/8

環境問題のウソ

 昨年の夏は猛暑が続き、今年に入って猛烈な寒波が襲ってきた。
 これを地球温暖化という言葉で言い尽くせるのか。
 ゴア氏が地球温暖化を書いてノーベル賞を貰っているが、あまりの間違いが多いことで教材では使うことが出来なくアメリカでは忘れられようとしている。考えれば歴然のことを南極と北極の氷が溶ければ海水が六米上がると言う奇想天外の仮説を掲げている。南極の氷は溶けて海水になれば蒸発して雪となりやがて南極の氷になるのだ。北極の氷は溶けても海水は増えないのだ。研究結果、南極も北極も氷が溶けてはいないという結論が出ている。
 裏のテレビでは中部大学の教授の武田邦彦氏が地球温暖化は二酸化炭素が犯人ではないと盛ん提言をしている。ゴミの分別はゴミを増やし税金を増やすというのである。分別などしなくて燃やす方が税金を使わなくていいというのである。リサイクルは二酸化炭素を三倍出すし、税金を三倍使ってまでやる必要はないというのである。リサイクルは資源を七倍使いゴミを七倍出すというのである。燃やすと出るオキシダントは人体には無害であるとも述べている。分別をして出したペットボトルや古紙が中国に売られていることは大方の国民は知っている。が、日本のリサイクルの率は低くあとは燃やされているというのである。何のために分別をしていたのか、手間暇をかけて分別し一ヶ月に一度の収集の日に出していたのか、武田氏の言うことが正しいならは、これは詐欺であると言いたい。名古屋市は武田氏の提案で市民の分別を止めさせ一括で集めて燃やすのだという。東京都はあまり分別しているとは聞いていない。区によってはやっていたのかもしれないが。これから名古屋市の様に一括で収集するところが増えそうである。ゴミ袋をバキュームカーに投げ入れると袋が破けて汁が作業員に跳ね返るという事がなくなり、燃えないので石油をかけるという事もなくなるし、税金も多少増えてもリサイクルに使うより少なくてすむというのである。
 ゴミを燃やすとオキシダントが出ると言うので各家庭の焼却炉は避難が集中した。ならば煙草はどうか、微量であるがオキシダントは出る。が、愛煙家がオキシダントでなくなったという報道を聞かない。税金を払っているので行政も文句を言わないのだそうだ。そして、禁煙を叫ぶ人たちもそのことに気がつかないのだ。
 温暖化をした方がいいという。北海道あたりで二度くらい上がり米の作育が出来るようになると言う。沖縄はそのままの気候なのだという。海水は少し上がるが東京が海水の流入で困ることはないらしい。ではなぜエコなのか、そこにからくりがあるという。
 日本の場合、自動車関連に原油輸入の七十パーセントを使っていて、十五パーセントは工業用に、農作物、飛行機、家庭という風に消費されるというのだ。一人の海外旅行でその人がスーパーの買い物袋の何十年物の二酸化炭素の排出と同じであると試算している。スーパーの買い物袋は石油精製の折昔は燃やしていた物で今の技術がそれを創ったのである。
 リサイクルという美名の元でその業者に税金が渡っている現状を詳しく語っているのだ。
 このからくりはにわかに信じがたい物であるが、なるほどと納得させられる。
 このことは世界の科学者の九十パーセントが知っているというのである。
 これから地球温暖化の議論が白熱しそうである。
 パーセンテージには私の記憶違いがあるかもしれないが、そんなに開きがないと思う。
 今のように環境環境と叫んで分別をしエコカーに、エコ家電に、エコ住宅にしても地球温暖化は止まらないというが、学者によっては地球寒冷化を予測する人も出ている。その方が人類にとっては恐ろしいことなのだ。人口爆発の今食料がたちまちなくなると言う飢餓の世界になるからだ。
  だが、限りある資源を節約して使う事は人類にとって大切なことであることには違いない。快適な生活をこれからも望むのであればだが。
 日本に、かつてのような人体に悪影響を及ぼす公害病が起こっていないことは画期的な技術革新がなされている証拠なのである。有害物質を燃やして公害患者を多くだしていたが、有害物質を辞去する技術によって産まれた余剰の物で買い物袋とか自動車事故の折の緩和材が産まれているのだ。
 私も長く公害に携わっているが、リサイクルをすることに反対していた。リサイクルをするとゴミは増え、使い捨ての容器はリサイクルをしているのだからと増え続けることは分かっていたから反対したのだ。それが人間という物だからだ。
これからも地球環境を見守りたい、がその前に人間環境を良くしないと地球環境は良くならないことだけは確かなようである。
 武田教授の節の真偽は数年後に皆様の前で明らかになろう。ウソか誠か・・・。それを待ちたい。                                                                                                                                                                                                          
詳しくは武田邦彦氏の「環境問題はなぜウソがまかりとおるのか」を読んで欲しいと思う。
 

曇り空の日に鬱陶しいのは

2011-01-31 18:09:50 | 独り言
早春賦 日本叙情曲集より



曇り空の日に鬱陶しいのは・・・。

 頭が重く何をするにも気力が湧かない、どんよりとした曇り空の日にはそんな状態でぼんやりとしている。これでも良くなった方なのである。鬱の状態であったので厄年も、更年期障害もその中に混じっていて自覚しなかった。更年期障害というのは何も女性の専売特許ではない。鈍感な男はあまり自覚しないだけ。雨がしとしとというのも少しは楽だが同じ症状を呈する。寧ろザーザーと降ってくれている方が開き直れて楽なのだ。
 三十数年前車を車にぶつけられ整形外科へ半年ほど通院したことがある。二、三年して肩がこり頭が重く不眠で困ったのだが事故の後遺症くらいに思っていたのだ。だがこれはより深刻な問題の序章に過ぎなかったのだ。
 私は医者ではないので専門的なことは分からないが三十数年前は鬱であるとは診断できなかったと言えよう。鬱病の存在は分かっていたが心の病くらいにしか思われておらず、日航機の機長が鬱なのに操縦桿を握り羽田をオーバーランをして認知されたというものである。脳神経外科へいけば脳波を取って筋収縮性頭痛と診断され薬を調合された。それを飲んでも一向に良くならなかった。整形外科へ行けばレントゲンを撮って首つりの機械で首をつられた。それも効き目はなかった。内科に行けば十二指腸潰瘍の注射を二十日間射れ飲み薬をくれたが駄目だった。この際専門医のはしごをしようと思い眼科、耳鼻科、泌尿科、肛門科、などあらゆる医院の門をくぐった。治療費の無駄だった。
 私の周囲にも同じような症状の人がいて同病を哀れみ哀れんでいた。それは傷を舐めあっていたということだった。
「あの人は横着者なのよ。一日中ボーとしていて何を考えているのかわかりゃしない。ヤクでもやっているのでしょうか」という声に心がさいなまれている人たちであった。その中の焼き肉屋の克つちゃんが、
「何でも川崎医大に心療内科という科があるらしいのでみんなでいって見ようやないか」と言った。酒飲みのはしごと一緒でいくことにした。克つちゃんは川崎医大や倉敷中央病院に何度も入院して酒を飲み強制退院をしている猛者であった。何時もたばこ屋の巻ちゃんと魚屋の父の手伝いをしている敬子さんのところ入り浸りで焼き魚や刺身を食べながら想い人の敬子さんにつきまとっていた。店先の縁台に座って道行く車を眺めながら煙草の煙を吐き出していた。
 克つちゃんと巻ちゃんと三人で川崎医大の心療内科を受診したのだ。待合いにはうつろな瞳を宙に投げて煙草をふかしている人たちが沢山いた。
「そうですか、そんなに色々な医院を巡られましたか。みんなそうです、この病気は沢山の人が罹っているのですが世間では認識が不足しています。それに専門の医師でないと分からないのです」
と診察を終えた若い精神科医は言った。処方箋の投薬をきちんきちんと飲み始めて頭は軽くなり眠られるようになった。何より頭に鉛をのせている様な症状がなくなったのが一番有り難かった。頭の重さがなくなってようやく思考が出来るようになった。だが、車に一人では乗れなかった。助手席に家人を乗せて短い距離を走る程度であった。
「おい生きとるか」と尋ねてきたのが土倉さんだった。さんざんくどかれ原稿を引き受けざるをえなかった。どんなに今の体の状態を説明しても、
「頑張れとは言わん。何時までも待っているから気長に書いてくれればいいから」またしても演劇の世界へ引きずり込まれた。家にいる分には不安発作は少なかったのでやけと道連れで書いた。何作書いたか覚えていない。演出もした。外に出ることで不安発作は軽減していった。
 その頃舞台芸術財団演劇人会議のたちあげの実行委員になっていてその会議に東京まで行かなくてはならず一人で行動する恐怖はまだ残っていた。
「いつかは死んで行く身、何処で果てよと定めかな、人の値打ちはただ長く生きるというものではむあるまい。ままよ今まで生きたがもうけもの」演歌の詩のような心境になってようやく参加した。
 今年も国民文化祭の企画委員になって文句ばかり言っていたらお前のところがやれと言うことになり、一人芝居の「花筵」をやる羽目になった。時折気分が極端に高揚しいらぬ事を口走るときがある。その付けは意外としんどいものがある。
 晴れのち曇りの人生を、頭抱えてケツまくり、生きる我が身の切なさは、巡る月日の草枕、何処で果てよと蝉時雨、きっと何かを拾うもの、明日の望みを考えず、今を生きると心に決めて、と心に言い聞かせているのです。
「最近はどうなのですか」美しい声音が受話器の中から聞こえてきた。
「今は怖いものがなくなりました」とだみ声で言う。
「それはよろしゅうございました。案じておりましたの」
「それはありがとうございます」
「疣痔に切れ痔は大変でしょう」
「はあ」
 そんな間違い電話にも心安らかに身を置くことが出来るのです。
 曇り空の時にはそうはいきませんが・・・。

電話は午後にどうぞ

2011-01-30 22:16:42 | 独り言
ふるさと

電話は午後にどうぞ。

 午前中に私に電話をかけてくるのは友達にはない。友達なら私の生活を知っているから午後にかけてくるのだ。午前中は起きていないことを知っているのだ。寝ているところを起こすと機嫌が悪くぐずる幼児と同じできわめて愛想が悪い。会話が成り立たないのだ。頭が起きてなくて思考力はゼロに等しいのだ。そして、曇った日や雨の日にも決して架けてこない。三十五年ほど前にサイドに車のタックルを喰らうという交通事故で病院通いをし一応は治っていたのが数年して後遺症が出てそんな日は頭が重く何をするのも億劫なのである。そのことも友達は知っていて電話をかけては来ないのだ。自分勝手の横着者なのである。そんな私を見捨てずにつきあってくれている友達は神か仏のような心を持っていると思っている。後遺症から鬱という花が咲いたからどうしょうもない。二十年間つきあう羽目になった。別れようと何度も言ったが離れてくれなかった。悪妻のようなものだった。昼間はベッドに横になり頭を氷で冷やしていた。良くなった今でもケーキ屋が入れてくれる保冷剤をタオルの中に入れて頭に巻いて暮らしているのだ。この格好は何があろうがやめたことはない。新幹線の中でも、銀座を歩くときでも、お偉い先生方との会議でもタオルは外しをしないのだ。ターバンの様なものだ。鬱の名残のスタイルになってしまっているのだ。タオルはすり切れるので買わなくてはならない。保冷剤も劣化するので食べないケーキを買わなくてはならない、そんな生活を続けていたのだが最近保冷剤を売っている店を見つけてそこで買うことにしている。食べもしないケーキを買う必要がなくなったのだ。昔の知人からは時折電話がかかってくる。私の生活を知らない人たちなのだ。
「しっとるか、小野君が内田百ケン賞の随筆賞を取ったこと」
 午前十時頃杉原さんからかかってきた。
「知りません。そうですか、それは良かった」
「吉備の古墳のことを書いたらしい、目の付け所が違うな」
 杉原さんは昔の同人誌の仲間で「文学界」の同人誌批評の今月のベストファイブに入ったほどの書きてであったが土地が高速道路に取られ億という金が入ってから小説は書かなくなり随筆、俳句などでお茶を濁していた。そのことは風の頼りで知っていた。彼は色々のところに応募してその近況を午前中に電話を入れて報告をしてくれていた。何処どの佳作に入った、とか賞に入った随筆の本を送ったからとか親切に言ってくれるが、私の頭は起きていないのだ。
 そう言えば杉原さんと小野君のことでこのような事があった。
 就業時間の終わった五時過ぎに小野君が血相を変えて飛び込んできてこの原稿を読んでくれと言った。二十枚ほどの短編に見えた。
「杉さんがこのような作品は駄目だというのです」
「あの人は誰の作品も斜めに読むからな」
「今ここで読んで貰えませんか」
「いいよ。暇だから」
 読み終わってホーとため息が出た。
「どうでした」
「杉さん、これ読んでないよ。読めば作品の善し悪しは分かる人だから」
「無責任ですね」
「付き合いは君の方が深いでしょう」
 二人とも市役所に勤務して良く話すらしいことは知っていた。
「短編としては文句の付けようがない。良いできだ」
「あの、ほんとうに・・・」
「ああ、これなら何処の短編賞にだって応募しても受かると思うな」
「ああ、胸が苦しかったのですが、今は大きく息ができます」
「おばあさんの家の周囲に日に日に通勤の人たちの自転車が置かれていく・・・。おばあさんの心理描写が良いね。素晴らしい素材だと思うよ」
「助かりました」小野君は胸をなで下ろしていた
 小野君はその作品で中国新聞短編賞を受賞した。それを期に地方の賞をいくらか取っているはずだ。そして今回の随筆賞。
 このような電話なら午前中でもどんどんかけて欲しいと思う。
 朝の五時に眠ることにしているから夜は誰よりも強いのだ。
 夜と言えば「女流文学賞」を取った梅内女史のことを思い出す。毎日夜の十時に電話がかかってきて午前六時過ぎまで私の家の電話は話中になった。かの名女優の杉村春子さんから弟子にならないかと言われた程の美貌と美声の持主の梅内女史の声が受話器から蕩々と聞こえてくるのだ。つまり彼女は受話器にむかって原稿を読んでいるのであった。主人を寝かし付けてから電話をかけ、起きる前に切ると言う、何時寝ているのだろうかと心配をしたものだが、エネルギッシュな人との付き合いで夜に強くなったのだと思っている。
「あんたらなにしとるん。用事があってどちらに電話しても話し中やないの」
 「歴史文学賞」を取った松本幸子さんに良くからかわれたものだ。
 今は殆どがパソコンのメール、携帯は置いてるだけで持ち歩かない。電話も、
「丸々化粧品ですが・・・」「××証券ですが・・・」「お金必要だったら貸しまっせ・・・」色々の勧誘電話ばかり、午前中なら、
「いりまへん」と強く言ってガチャン。
 今までの電話はこれからどうなるのか・・・。
 遊び人の私に市の文化振興の企画委員とか国文祭の企画委員とかの要請がある度に午前中には電話をかけないで欲しいと一番に断りそれでいいのならと受けるのだ。

【HD】書くわけ

2011-01-29 20:31:11 | 独り言
【HD】短篇小説 さだまさし

書くわけ

 そこに山があるから・・・に通じて愉しいから書くのである。書く苦しさはあるが終わった後、出来不出来は別にして達成感と虚脱感の快い疲労は書いた者しか分からないだろう。
 題材を決めて資料を漁り読んでからすべてを忘れるために若い頃はパチンコに行き喧しい騒音の波の中に身を置いていると今まで読んだものが頭の中から完全に忘れられたものだった。それらは体に入りとどまっていて書くときに自分の考えに変わって出てくれるのだ。パチンコには資金がいるしそんなことばかりしていたら家庭が破産するので深夜の映画館に行きポルノ映画を見ることで頭から忘れることもあった。蕩々とスクリーンに映し出される痴態をただ眺めているだけで何がどうなっているのか覚えてはいなかった。が、その方法も有効であった。だが書く前のプレッシャーを解きほぐすには馬鹿なことをして無駄な時間を浪費することであることに気づくのだ。読んだ本が頭に残っているとついつい生の資料を書いてしまうおそれがあったからそうしたのだ。その間に構成は出来、書き出しと終わりの1行が出来ていた。九十九パーセントが頭の中で出来、後の1パーセントが書くことなのだ。後は一気に書き上げていく、そこには降臨があって書いた物が自分の物ではないような感じを受けたものだ。書いて最低一ヶ月は何もせずにほったらかしておいて推敲をしなが書き直しをした。六月と十二月は応募原稿の締め切りなのでそれまでに四作づつ書き上げていた。万が一という考えはなかった。ただ書くことが愉しくてしょうがなかったのだ。その結果が応募であっただけなのだ。読んで書くそのことが面白く愉しかったのだ。そんな青春時代を過ごした人は全国で多くいただろう。書くことはいって見れば麻薬のような物だった。完全に書く中毒になっていたと言える。その楽しみの後には応募原稿が一次通過、二次通過、最後の十作へと繋がっていった。私の作品は暗くて重かった。人に読んで貰って喜んで貰える物ではなかった。考えて欲しいと思って書いたのだ。多分に自分のために描いた物が多かった。が、考える事のみを求める読者は少なく面白くて溜飲を下げることが出来ればいいという人たちが大半だった。それは分からないわけではなかった。この世知辛い世の中で金を出してまで人の苦しみを分かち合おうとする人はそんなにいなかったのだ。
「もっと面白い売れる物を書く努力をしてください」と出版社へ電話すると編集長がそう言った。これは資質の問題でそう簡単に面白い物がかけるはずもなかった。出版社は賞を与えて雑誌に載せ評判が良ければ単行本にしてもうけるのだからそう言うのは当たり前であったろう。だが内容は重たく暗いが書く方は愉しかった。書いているとだんだん体が暑くなり昂揚して知らず知らずにパンツ一枚で書いているときがしばしばあった。
 林芙美子さんが真冬に布団をかぶり裸で書いていたという逸話があるがそのことは真実だと理解できた。書いていると頭を血が駆け回り体はほてってそうなったのだろう。
 文章を書くと言うことは頭脳労働であり肉体労働なのだ。物書きと言えば病弱な感じを想像するが今では健康そのものという肉体労働の人たちが多くなっている。精神が病んでいればいびつな物しか生まれないと言うことなのだろうか。深く物を考えていると精神は病んでくる、だが、今の物書き達は健康な肉体労働をしている人たちが増えたと言うことなのか。その方が健全だが。
 昔の作家と言えば家庭のことはほったらかし、淫乱多情で、我が儘、偏屈、貧乏、病気持ち等々負の存在であった人たちが多かったのだが、今はそんなスキャンダルは聞こえて来ない。実生活が滅茶苦茶だが書いた物は清潔で道徳的だったという事が良くあった。それはまさに詐欺師なのである。きれい事を並べておいて反社会的な事をしていると言うことなのだ。なぜかそんな反社会的な作家の坂口安吾さんに惹かれ、彼の「堕落論」を教科書にしている矛盾を感じるのだが。人の世界はそんな物かも知れない。差別を否定している人たちが一番の差別者であるという事は良くあることなのだから。
 私のことで言えば、鬱に罹って以来物事を突き詰めて考えるようになった。書くことが苦痛になっていたが快方するにつれて愉しく書けるようになり今までの文体が変わってきた。文章の短い人は循環器に傷害があるという説があったのだが、谷崎潤一郎さんの作品を読んでそれはただの仮説であると思った。彼は作品に依って文体を変えていたのだ。文体を持てと言う先輩がいたがその文体はテーマによって変わる物なのだ。だから文体など関係なく、自由に書くべきなのだと納得した。つまりテーマが文体を産んでくれるものと解釈している。そう思うと文体などに関わらずに書くことが出来る。 
 今読んでいる南木佳士さんの作品は私小説の色合いが濃いいが随筆と小説の文章は異なっている。それは彼の特質なのだ。
 物を書く人の資質と言えば優しさと真実を持っているかどうかというものであると南木佳士さんを読んで感じた。
 そんな物をこの私が持っているのかと問われれば、分からないとしか答えられないが・・・。

猫への恩返し~

2011-01-28 17:31:33 | 独り言
風になる ~猫の恩返し~

 猫の九太郎

九太郎という牡の猫を飼っている。
劇団員の少女が捨て猫を見つけてかわいそうだから飼ってもらえないだろうかと言うことで面倒を見ることになった。犬猫の獣医助手を目指す彼女に拾われたと言うことは捨て猫にとって幸運だった。が、飼う方には災難であることの方が多い。小さな泣き声であった子猫は大きくなるに従い猫の特性を遺憾なく発揮しだした。トイレにおしっこをしなくてくんくんとかぎ回り何処へでもおしっこを垂れ流しだしたのだ。マーキングである。猫のおしっこは犬と違い特別臭い。その臭いが家中充満した。家族に取っては耐えられるものではなかった。猫を飼うとこのようになると言う現実は充分に知っていたが猫には返さなくてはならない恩義があったのだ。恩のなんたるかを知らない家人は恐れ多くも、
「また猫を飼うのですの。飼うのだったら去勢をしてくださいよ」
 と平然と言ったのだ。恩義の有る猫にそんな動物である証の子孫を残すための行為に必要なものを除去出来るはずはないではないか、と言おうとしたが声が喉に詰まり胃袋に落ちたのだった。それは病気の所為ではなく去勢しろと言う家人の心理が怖かったのであった。九太郎を車で連れ出して二時間ほど走って帰り、
「見事にたまたまを切除したぞ」と嘘を言ったのだ。それは妻に対する従順より恩義に対しての方が大きく重かったからなのだ。
 三十年程前に仮面鬱病になったときに家の前のゴミ捨て場で三毛猫の雌を拾った。弱々しい声で泣いて哀れを誘っている猫に同情して夕餉のすき焼きの残りを食べさせてやった。お腹が減っていたのかおいしそうに食べる姿に感動しついつい家に上がらせたのであった。その猫に茶子兵衛と名付けた。
 その頃肩がこり眠られず体が重たいし頭がボーとしていた時期であった。何軒も医院を訪ね診察を受け薬を調合して貰ってもいっこうに良くならなかった。おかしいと感じたのは県の青年大会の演劇部門で最優秀賞を貰い全国青年大会に出発する日に現れた。足がだるく息切れがして動けなくなったのだ。前日は興奮して眠れなかったので睡眠不足からくるものであろうくらいに考えて無理をして東京に行ったのだ。渋谷の参宮前駅で降り代々木オリンピックセンターまでの距離を歩いたのだが陸橋で立ち往生をしてしまった。どうしても階段が上れないのだ。階段を二三段上ると心臓は早鐘を打ったように鼓動し呼吸はぜいぜいと悲鳴を上げだしたのだ。一週間東京にいたが何がどうなったか定かに覚えていない。何度か医院のドアを開けたのは記憶しているが。そのほかは心臓病患者の様な不整脈と動悸の早さと喘息患者の様な息切れだけを記憶しているのであった。目黒公会堂での公演結果がどうであったか帰って聞くまでは定かではなかった。優秀演技賞と最優秀舞台美術賞を貰っていた。帰っていろいろな専門医に診て貰ったが正確に病名の診断を下す医者はいなかった。二階の書斎に上がる階段の途中で立ち往生をする事もしばしばであった。深夜とか静かにしているときに突然この世の終わりを告げられたような不安発作に襲われ何回も救急車で救急指定病院へ行った。着くと動悸は収まり息切れも治っているという状態が続いた。医者は何のために来たのかと言う顔をした。不安発作が鬱によるものとは判断できなかったのだ。
 その頃茶子兵衛が現れたのだ。猫は心臓病と高血圧と精神の歪みの病気持ちに心の安穏を与えてくれる動物だと聞いていたのだがそれが真実かどうかはわからなかった。そう思って猫を飼ったのではなかった。捨てられた猫に我が身を重ねて哀れを感じたのであろうか。か弱い飼い猫がそばにいると言うことは精神を安定させる作用があった。茶子兵衛の動作を見ていると心がいやされた。同じ症状の焼き肉屋の旦那が迎えに来てくれ川崎医大の心療内科を受診した。貰った薬を飲むと体のだるさがなくなっていった。眠られるようになった。頭も軽くなった。肩がこらないようになった。不安発作も少なくなった。茶子兵衛はじゃれついて慰めてくれた。病名は仮面鬱病と診断されたのだった。医者の治療と茶子兵衛によってだんだんと恢復をしていったのだ。茶子兵衛は一日ボーとしている主のそばを離れず見守ってくれ見上げる目は心配そうで優しかった。いつも体のどこかへ尻尾をくっつけていて様子を見ていたのだ。テレビに対して話しかけ怒鳴る事しか話相手のなかったのだが茶子兵衛は話相手になってくれ独り言愚痴を聞いてくれた。その茶子兵衛は二年後に尿路結石による腎臓病でなくなった。もっと早く犬猫病院に連れて行ってやれば長生きが出来たであろうと後悔したものだ。
 猫にはそんな思い出があり恩義があったのだ。
 九太郎は何度か尿路結石になったがそのつど犬猫病院へ連れて行き茶子兵衛の撤を踏むこともなくなった。茶子兵衛のためにも九太郎を同じ病気で死なす事は出来ないと思っている。茶子兵衛の恩返しのためにその後三太郎を飼ったがその頃もまだ仮面鬱病は全治してなくいやされたのだ。元気になった今九太郎に手を焼きながらも面倒を見ているのは茶子兵衛と三太郎への愛情の印なのかも知れない。
 九太郎を連れてきた劇団の少女は獣医の助手になり次男の嫁になって同じ屋根の下で生活している。今では双子の母である。


【歴史の空白が・・・。

2011-01-27 22:12:57 | シナリオ あの瞳の輝き永遠に 
【車載】茨城県取手市 常総ふれあい道路西行桜並木2010年


歴史の空白が・・・。

 昔、良寛さんを書いて舞台へ上げたことがあります。一応資料は集め読み砕いたのですが何か判然としないもがあり「僧にあらず俗にあらず」の言葉通り普通の人間僧侶として書いたのです。曹洞宗の光照寺で国仙和尚に依って御受戒を受けて出家をしました。良寛さんは国仙和尚さんを一生の師匠として岡山は備中の僧堂円通寺にお供をしそこで僧侶の修行をするのです。円通寺での良寛さんのことはなにも残っておりません。何も残っていないと言うことはどのように嘘八百を書いても文句が出ないという事なので色々と考えを巡らせ創作をしたのです。そのように空白があると言うことは物書きにとって有り難いことで何でも書いて良いですよと良寛さんが言っている様に感じて書かしてていただきました。出雲崎では良寛さんは童貞であったという説があるのです。大庄屋の跡取りであった良寛さん庄屋見習いの時に嫁を貰って直ぐに離縁しているのです。一女があったという説もあります。が、立派なご僧侶がバツイチでは良寛様の名に傷を付けることを案じてか童貞であると言うことなのでしょう。円通寺の事と、新潟は長岡の閻魔堂の貞心尼との心の交流も嘘を積み重ねて書きました。これは貞心尼が良寛さんとのことを歌で詠んでいる「蓮の露」がありましたが中に創作をさせていただきました。
 このようにして歴史の空白があれば書き手は自由に書くことが出来るのです。
 西行法師さんも書かして貰いました。舞台で上演しました。西行さんと待賢門院璋子さんとのことは女房の待賢門院堀河の語りとして直接に西行法師さんを書かずに西行さんを書いたのです。待賢門院璋子さんは鳥羽帝の女院でした。堀河さんは小倉百人一首で有名な歌詠みです。璋子さんの幼い頃から亡くなるまで女房として仕え何もかも分かっていたとして璋子さんと西行さんとの恋を語らせたのです。西行さんは好色家と言えば西行さんのファンの女性の方に怒られるやも知れませんが大変にもてた方であったらしいのです。花と月は西行さんの歌のテーマのような物ですがそこに女を加えてました。恋の、人想う歌も多かったからです。西行さんがどうして鳥羽帝の北面の武士を捨ててなお得度したか、それには待賢門院璋子さんと一夜のちぎりをもちそれが一生に一度の恋に想え苦悩の末に絶望したことが原因であったと言う説を取り入れ、ものの哀れを感じたと言うことにしたのです。親友の突然の逝去故にという説もありましたがそれを採りませんでした。劇中の会話はすべて創作をしました。瀬戸内寂聴さんや辻邦生さんや白州正子さんにしかられる事でしょう。
 北面の武士佐藤義清、歌人西行法師、法名円位上人が西行さんなのです。平清盛さんは西行さんと鳥羽帝の同期の北面の武士であったのです。
 目が不自由だったが居合いの手練れがいた。という子母澤寛の短い文章で「座頭市」が別の作者の筆で生まれると同じようにと言う風にです。
 坂本龍馬さんも舞台にのせました。
「金のなか人間に何が出来よっとぜよ」金に執着した龍馬さんを作りました。大法螺吹きにしました。なぜか龍馬さんを書いているとき愉しくなかったのです。あまりに完璧な龍馬さんを皆さんが書いている事に対する反発がありました。
「日本の國を洗濯しちゅうきに」
 この龍馬さんの言葉はあまりにも有名ですが洗濯する為には金がいることに気づき金集めに奔走する龍馬さんにしました。金持ちに取り入るのがうまい人として書きました。高杉晋作さんは策士で、中岡慎太郎さんに龍馬さんはこういうのです。
「高杉は喰えん奴じゃきに気をつけーや。泣いて助けてくれーというても知らんきに」
 今、NHKで「龍馬伝」放送しているが、龍馬さんと岩崎弥太郎さんとは長崎で初めて会っているのにあんなに何もかも知っているのはおかしいのです。ここは中岡慎太郎さんが流れを作り進めるということのほうがよかったと思います。龍馬さんと中岡慎太郎さんは質屋の二階で惨殺される。その暗殺者を人斬り半次郎さん、示現流の居合いの達人に仕立てたのです。これは西郷吉之助さんの意であったとしたのです。薩摩は龍馬さんを殺さければならない怒りがあったとしました。司馬遼太郎さんにしかられそうです。
 龍馬さんを時の人として薩長連合、公武合体、大政奉還。
 誰かが仕組んだものではないかとしたのです。
 お竜さんは龍馬さん亡き後横浜の豪商と再婚しています。
「人とはなんと悲しいのでしょう」お竜さんはそういいきります。
 書き手は時代の空白を書く。一瞬を語るのだと思います。書いてしまえば書き手の手元から離れ一人歩きを始めるのです。
 良寛さん、お元気で子供達と手まり歌を歌いながら遊んでいますか・・・。
 西行さん、大仏復興の勧進帳を持っての旅どうでした・・・。
 龍馬さん、まっこと誰に殺されたじぇよ、ぎょうさんの説で学者も困っているきに・・・。

 もう懲りたので歴史の人物は書かないことにします。
 
 

小説家は随筆を書くな

2011-01-27 00:29:20 | 独り言
危ない環境問題のウラ 3/4


小説家は随筆を書くな

 小説家は随筆を書くなと言った小説家がいることを知ったのは小説家の南木佳士さんの随筆を読んだ時だった。その中で芥川賞受賞パーティーの席で開高健さんから言われたと書いている。何でも随筆一作で短編の材料を使うのはもったいないというような意味のことを言われて戒めたという。南木佳士さんは随筆を沢山書かれているが書いている時に常に開高健さんの言葉がよみがえってきて何か悪いことをしているという罪悪感に襲われたらしい。芥川賞の選考委員と言えば受賞者にとって雲の上の人、その人から声をかけられ将来を思い戒めの言葉を貰ったのだから分かるような気がする。南木佳士さんはそのことを何遍も書いているのは自分には医者として誰も書かけない小説を書く自信があることを小説のテーマーからも文章からも伺えるのだ。確かに随筆を書くときに少し突っ込んで書き進めれば短編になる物がある。開高健さん言いたかったのは小説家は本来小説を書く事を本業とし、随筆家は随筆を書くことで立つと言うことであったろう。
 南木佳士さんには今は克服したが鬱という病気持ちで短編長編となると神経が持たないという事で頼まれて短い随筆を書いているのだろう。
 南木佳士さんは大変なことを書いていた。彼が「文学界」に応募したとき一次も入らなかったが編集者から電話がかかり異質な世界の方で作品に光る物があり温かさを感じたので話を聞きたかったという物だったと。本来応募作品についてはお答えしないと言うのが定説なのだがこれは応募要項違反であるのだ。それが縁で編集者に作品の書き方を教わったという。文章や構成を学んだというのだ。「文学界」の新人賞を受賞したときにも応募する間際まで編集者と作品を推敲したと書いている。カンボジア難民救済医療団の一員として飛行場から出発する一時間前まで額をつきあわせて直したと言うことも書いている。これは真剣に作品を書き未来を夢見て応募する人たちにとって不幸なことである。編集者がその才を見抜き新人賞を取らせたと言っても過言ではないのだ。文芸春秋社の大いなる過失であり賞の価値はなくなる。私が応募した賞でも最終に残っていなかった作品が受賞した例はあるから何かの画策があったというほかない。選考に付いての問い合わせには応じられないとあるが、私が作品について聞きたいと電話をすると編集長さんが出て親切丁寧に答えてくれました。私はそこで問い合わせに応じられないという但し書きはみんなから問い合わせが来ているのだという意味なのだと感じた。この理解は正解であった。新人を発掘したい、偉大な作家を誕生させたい、希有な小説を世の中に出したいこれは編集者の仕事であるから時に型破りをするらしかった。
 世の文学青年や文学老年達が南木佳士さんの随筆を読んで文芸春秋社に抗議をしたというニースに出会っていないのでそんなことはなかったのだろう。この話はもう時効だからと南木佳士さんは書いたのかも知れない。
 徳のある人の人との邂逅は時に大きな花を咲かす事がある。そんな経緯があって南木佳士さんも今花を咲かしているのだ。
 信州の佐久平の七百床もある病院の勤務医である南木佳士さんは呼吸器の専門医として特に肺ガンの治療に携わり多くの患者を見送ったのだ。それが元でパニック症から鬱になられた。自己診断も出来ずに病院の精神医にかかり治療を始められた。その病床にあってこれでは駄目だ何かしなくてはこのままでは死ねないと小説を書き始めたという。育ちは山奥でなにもすることがないので父の本を取り足りして読んでいたらしい。彼は言う、芥川の小説で一番良いのは「秋」だと。子供の頃から今までその思いは変わらないらしい。芥川の「秋」を出すくらいの深い理解力それが元になっているらしい。呼吸器系の診察から外して貰い人間ドッグドクターとして勤務して快方に向かったという。それに加えてこのままでは死なぬと言う思いと書くという彼の使命が支えたのだろう。
 自宅から自転車で五分の通勤を続けておらせれると言う。
 信州佐久平の病院は医療研修医に評判が良く全国から来るという。                                                                                                                                                                         私のかかりつけの耳鼻科の医師に尋ねるとよく知っていた。
 今、勤務の傍ら日本百名山に登るという計画を立てるほどに恢復しておられる。山に生まれ山で育つた彼は人間の宿命とも言える生まれたところへ帰るという回帰本能が芽生えたというのでしょうか。
 小説家は随筆を書くなと言う開高健さんの言葉を今どのように感じておられるのか。彼の随筆を読むたびに思うのである。彼の随筆は読む薬として広く処方されている。読者の層は広く浮気をしないらしい。作者の優しさと真実が読む者に心地良い癒しを与えてくれる。心の持ちようでなんとでもなるものだと感じ取らせてくれる。
 彼は言う、どんな患者でも何処が悪くても奇跡が起こり治るのだと言う人が殆どだという。死なないと思っているという。が・・・。
 人間はどんなに金持ちでも貧しくても平等に死を迎えるのだと。
「あの憎たらしい奴が死なないのに俺が死ぬのは不公平だ」と言うことはないのだ。