陽気ゆさん見たいゆえから

 










          中山みき様を  たずねて

実の神には  相違ない

2022-04-08 10:49:16 | 宗教
 むりなねがひはしてくれな  ひとすぢごゝろになりてこい
  またたすけをひやぢうよふいつなりと のばしなりともはやめなりとも 八 32
  こらほとのぢうよじさいをゆうのもな よいなる事とさらにをもうな    33
  月日にハたいて心ハつくせとも せかいぢううハまだせかいなみ        34
 「また」は、ここでは「亦」の文字を当てるのが相応しい。仏教的には「亦」は「又」と違って、その前後が次元を異にすることを示すと言われている。〔教行信証入門80〕
 「亦たすけ」 ― つとめ場所を秀司夫妻らが乗っ取り、十二神社を祀り込み、そこでしていた「たすけ」 ― 「をびや許し」と称して、「延ばしなりとも早めなりとも」を謳い文句にして、売りつけていた御札を指す。
 「おびや許し」は、人類発祥のときから、創造主、月日の「しごと」として、全ての生き物の安産は請け負っているという「許し」なのです。おふでさきの「よいなる事と更に思うな」は、「亦たすけ」に向けて、それ以上の悪事はないと言い放ち「一筋心になりてこい」と反省を求めている。

 なんでもこれからひとすぢに  かみにもたれてゆきまする
  心さい月日しんぢつうけとれば どんなたすけもみなうけやうで   八 45
  とのよふなたすけとゆうもしんちつの をやがいるから月日ゆうのや   46
  このはなしなんでこのよにくどいなら たすけ一ぢようけやうのもと    48

 やむいどつらいことハない  わしもこれからひのきしん
  このさきハあゝちこゝちにみにさハり 月日ていりをするとをもゑよ  81
  きたるならわがみさハりとひきやハせ をなじ事ならはやくそふぢを  82 
  そふぢしたところをあるきたちとまり そのところよりかんろだいを  83
 三下り目の一ツから五ツは、扇を持っての手振り ― 仏教の『三法』で、仏の説いた教法の『教』に当たる。
 六ツからの扇を持たない手振りは、『行』に当たる ― 『教』に基づいて修行する『行』だから、教えを十分に聞き分けていなければならない。
 「月日ていりする」 ― 「月日が出入りする」 ― 月日が間違いに気づかせようと「身に障り」をつけて「入ろう」としても、その胸の内が人間心、我が身思案の「ほこり」いっばいでは、月日が留まるスペースがないから、「出て行く」しかない。この働きを繰り返すことが「月日の出入り」で、月日は人びとがその親心の忠告に気づいて「胸のそうじ」するのを待ち続ける。

 「同じことなら早くそうじを」 ― 「亦たすけ」で、自分らがしていることに苛まれ動揺があるのを、月日が見透かして声にする ― 「ぢば定め」せねばならぬことは百も承知のはずだ。どうせなら、ここまでの悪事の反省もこめて「ぢば」を定める整備、清掃の「ひのきしん」に手を染めたらどうだ! そうすれば「ぢば定め」と同時に「胸のそうじ」もできるから、病なぞ吹っ飛んでしまう! 何時までも煮え切らず『その内に…』と言ったりしないで、今やりなさい! 

 こゝまでしんゞゝしたけれど  もとのかみとハしらなんだ
  月日にハみな一れつハわが子なり かハいゝばいをもていれとも   60
  一れつハみなめへへのむねのうち ほこりいゝばいつもりあるから  61
  このほこりすきやかそふぢせん事に 月日いかほどをもふたるとて  62
 「元の神」の存在は、『教』によってでなく、『行』という本人の修行によって知る ― 「胸のそうじ」ができれば、神が自分の中に存在している、自分が神と一体であると感じられるようになる。内なる神に目覚めて「神に凭れる」生き方が定まるから、外の世界の全てにも神の存在を感じることができる。

 このたびあらはれた  じつのかみにはさうゐない
  このあとハとのよなものも一れつに たすけたいとのしゆだんはかりを  68
  このさきハたすけ一ぢよにかゝりたら どのよなものもいさむばかりや  69
 月影のいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ 〔浄土宗の宗歌〕
  “たすけ一条の至らぬ里はなけれども 神に凭るる人の心にぞ住む”


                       中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講


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