むりなねがひはしてくれな ひとすぢごゝろになりてこい
またたすけをひやぢうよふいつなりと のばしなりともはやめなりとも 八 32
こらほとのぢうよじさいをゆうのもな よいなる事とさらにをもうな 33
月日にハたいて心ハつくせとも せかいぢううハまだせかいなみ 34
「また」は、ここでは「亦」の文字を当てるのが相応しい。仏教的には「亦」は「又」と違って、その前後が次元を異にすることを示すと言われている。〔教行信証入門80〕
「亦たすけ」 ― つとめ場所を秀司夫妻らが乗っ取り、十二神社を祀り込み、そこでしていた「たすけ」 ― 「をびや許し」と称して、「延ばしなりとも早めなりとも」を謳い文句にして、売りつけていた御札を指す。
「おびや許し」は、人類発祥のときから、創造主、月日の「しごと」として、全ての生き物の安産は請け負っているという「許し」なのです。おふでさきの「よいなる事と更に思うな」は、「亦たすけ」に向けて、それ以上の悪事はないと言い放ち「一筋心になりてこい」と反省を求めている。
なんでもこれからひとすぢに かみにもたれてゆきまする
心さい月日しんぢつうけとれば どんなたすけもみなうけやうで 八 45
とのよふなたすけとゆうもしんちつの をやがいるから月日ゆうのや 46
このはなしなんでこのよにくどいなら たすけ一ぢようけやうのもと 48
やむいどつらいことハない わしもこれからひのきしん
このさきハあゝちこゝちにみにさハり 月日ていりをするとをもゑよ 81
きたるならわがみさハりとひきやハせ をなじ事ならはやくそふぢを 82
そふぢしたところをあるきたちとまり そのところよりかんろだいを 83
三下り目の一ツから五ツは、扇を持っての手振り ― 仏教の『三法』で、仏の説いた教法の『教』に当たる。
六ツからの扇を持たない手振りは、『行』に当たる ― 『教』に基づいて修行する『行』だから、教えを十分に聞き分けていなければならない。
「月日ていりする」 ― 「月日が出入りする」 ― 月日が間違いに気づかせようと「身に障り」をつけて「入ろう」としても、その胸の内が人間心、我が身思案の「ほこり」いっばいでは、月日が留まるスペースがないから、「出て行く」しかない。この働きを繰り返すことが「月日の出入り」で、月日は人びとがその親心の忠告に気づいて「胸のそうじ」するのを待ち続ける。
「同じことなら早くそうじを」 ― 「亦たすけ」で、自分らがしていることに苛まれ動揺があるのを、月日が見透かして声にする ― 「ぢば定め」せねばならぬことは百も承知のはずだ。どうせなら、ここまでの悪事の反省もこめて「ぢば」を定める整備、清掃の「ひのきしん」に手を染めたらどうだ! そうすれば「ぢば定め」と同時に「胸のそうじ」もできるから、病なぞ吹っ飛んでしまう! 何時までも煮え切らず『その内に…』と言ったりしないで、今やりなさい!
こゝまでしんゞゝしたけれど もとのかみとハしらなんだ
月日にハみな一れつハわが子なり かハいゝばいをもていれとも 60
一れつハみなめへへのむねのうち ほこりいゝばいつもりあるから 61
このほこりすきやかそふぢせん事に 月日いかほどをもふたるとて 62
「元の神」の存在は、『教』によってでなく、『行』という本人の修行によって知る ― 「胸のそうじ」ができれば、神が自分の中に存在している、自分が神と一体であると感じられるようになる。内なる神に目覚めて「神に凭れる」生き方が定まるから、外の世界の全てにも神の存在を感じることができる。
このたびあらはれた じつのかみにはさうゐない
このあとハとのよなものも一れつに たすけたいとのしゆだんはかりを 68
このさきハたすけ一ぢよにかゝりたら どのよなものもいさむばかりや 69
月影のいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ 〔浄土宗の宗歌〕
“たすけ一条の至らぬ里はなけれども 神に凭るる人の心にぞ住む”
中山みき様を尋ねて 陽気ゆさん磐田講
またたすけをひやぢうよふいつなりと のばしなりともはやめなりとも 八 32
こらほとのぢうよじさいをゆうのもな よいなる事とさらにをもうな 33
月日にハたいて心ハつくせとも せかいぢううハまだせかいなみ 34
「また」は、ここでは「亦」の文字を当てるのが相応しい。仏教的には「亦」は「又」と違って、その前後が次元を異にすることを示すと言われている。〔教行信証入門80〕
「亦たすけ」 ― つとめ場所を秀司夫妻らが乗っ取り、十二神社を祀り込み、そこでしていた「たすけ」 ― 「をびや許し」と称して、「延ばしなりとも早めなりとも」を謳い文句にして、売りつけていた御札を指す。
「おびや許し」は、人類発祥のときから、創造主、月日の「しごと」として、全ての生き物の安産は請け負っているという「許し」なのです。おふでさきの「よいなる事と更に思うな」は、「亦たすけ」に向けて、それ以上の悪事はないと言い放ち「一筋心になりてこい」と反省を求めている。
なんでもこれからひとすぢに かみにもたれてゆきまする
心さい月日しんぢつうけとれば どんなたすけもみなうけやうで 八 45
とのよふなたすけとゆうもしんちつの をやがいるから月日ゆうのや 46
このはなしなんでこのよにくどいなら たすけ一ぢようけやうのもと 48
やむいどつらいことハない わしもこれからひのきしん
このさきハあゝちこゝちにみにさハり 月日ていりをするとをもゑよ 81
きたるならわがみさハりとひきやハせ をなじ事ならはやくそふぢを 82
そふぢしたところをあるきたちとまり そのところよりかんろだいを 83
三下り目の一ツから五ツは、扇を持っての手振り ― 仏教の『三法』で、仏の説いた教法の『教』に当たる。
六ツからの扇を持たない手振りは、『行』に当たる ― 『教』に基づいて修行する『行』だから、教えを十分に聞き分けていなければならない。
「月日ていりする」 ― 「月日が出入りする」 ― 月日が間違いに気づかせようと「身に障り」をつけて「入ろう」としても、その胸の内が人間心、我が身思案の「ほこり」いっばいでは、月日が留まるスペースがないから、「出て行く」しかない。この働きを繰り返すことが「月日の出入り」で、月日は人びとがその親心の忠告に気づいて「胸のそうじ」するのを待ち続ける。
「同じことなら早くそうじを」 ― 「亦たすけ」で、自分らがしていることに苛まれ動揺があるのを、月日が見透かして声にする ― 「ぢば定め」せねばならぬことは百も承知のはずだ。どうせなら、ここまでの悪事の反省もこめて「ぢば」を定める整備、清掃の「ひのきしん」に手を染めたらどうだ! そうすれば「ぢば定め」と同時に「胸のそうじ」もできるから、病なぞ吹っ飛んでしまう! 何時までも煮え切らず『その内に…』と言ったりしないで、今やりなさい!
こゝまでしんゞゝしたけれど もとのかみとハしらなんだ
月日にハみな一れつハわが子なり かハいゝばいをもていれとも 60
一れつハみなめへへのむねのうち ほこりいゝばいつもりあるから 61
このほこりすきやかそふぢせん事に 月日いかほどをもふたるとて 62
「元の神」の存在は、『教』によってでなく、『行』という本人の修行によって知る ― 「胸のそうじ」ができれば、神が自分の中に存在している、自分が神と一体であると感じられるようになる。内なる神に目覚めて「神に凭れる」生き方が定まるから、外の世界の全てにも神の存在を感じることができる。
このたびあらはれた じつのかみにはさうゐない
このあとハとのよなものも一れつに たすけたいとのしゆだんはかりを 68
このさきハたすけ一ぢよにかゝりたら どのよなものもいさむばかりや 69
月影のいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ 〔浄土宗の宗歌〕
“たすけ一条の至らぬ里はなけれども 神に凭るる人の心にぞ住む”
中山みき様を尋ねて 陽気ゆさん磐田講