峰野裕二郎ブログ

私の在り方を問う

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鮨【すし】

2008年09月15日 | 家族
土曜日の夕方、久しぶりに帰省するくるみさんを女房どのと2人で大村ジャスコまで迎えに行った。
くるみさんは休みになると友人や先輩と大村ジャスコで遊んでいるらしい。有紀さんもそうだった。

帰りの車中、夕食をどうしようかという話になった。くるみさんに何が食べたいか訊ねると、例によって何でもいいよの返事。我が家の子供たちは、ほとんど自己主張しない。父親を反面教師として育っている。
回転鮨にするかと水を向けると、まんざらでもなさそうだった。

子供たちがまだ小さかった頃、私自身も生まれて初めてだったが、家族で回転鮨店に入ったことがあった。もともと私は店で食事をするのを好まない。お茶漬けでいいから家で食べたいほうだ。
その日、店内はたくさんのお客で混んでいた。最初は何でもなかったのだが、ベルトコンベヤーの上に載った鮨の中から気に入ったものを嬉しそうにとっている3世代の家族の様子を見ているうちに無性に腹が立ってきた。
「出よう」。そう言って店を出た。家族には申し訳なく思ったが、なんとも悲しく切なく、いたたまれなかった。女房どのも子供たちも何故、私が急に不機嫌になったか理由も分からず、しかし、何も言わずに途中で食事をやめて従ってくれた。
店を出た後、今度から鮨を食べたくなったら、普通のお鮨屋さんに行こう。そういうのが精一杯だった。

学生時代、1級上の林田二郎という先輩にたいそう可愛がっていただいた。東京の亀戸のご実家にしばらくの間居候【いそうろう】させていただき、弟のようによくしてもらった。その林田先輩に、しばしば近所の鮨屋に連れて行っていただいた。暖簾【のれん】をくぐり店に入ると、いつものカウンターの席に並んで座った。先輩が「コハダ」とか「アナゴ」とか「トロ」とか次々に注文する。熱燗をチビリチビリ飲みながらいただく鮨は実に美味かった。「紫」とか「上がり」という言葉はそこで知った。それまで本格的な鮨などというものを見たことも食べたこともない田舎から出てきたばかりの青年にとって、それはまさにカルチャーショックと呼ぶに等しい体験だった。粋【いき】な大人の遊びというものはこういうものかとなんとなく思った。

あの日以降、回転鮨店を途中で出たことが、ずっと引っかかっていた。特に子供たちに対し済まない気持ちだった。
子供たちは回転鮨のあのシステムを単純に面白く感じているだけなのだ。善意の大衆を翻弄【ほんろう】する商業主義者云々【うんぬん」なんて話は私だけの問題にしなければならない。

引っかかっていた思いを払拭【ふっしょく】するのは絵理子さん・研二くんの結婚式の日にきた。小倉の駅ビルで昼食をとろうというとき、駅ビルの中に回転鮨店があったのだ。私から誘い、女房どのとくるみさんの3人で数年ぶりに回転鮨店ののれんをくぐっていた。

念のため回転鮨と普通のお鮨屋さん、どちらがいいかとくるみさんに訊ねたが、やはり回転鮨の方だった。

私たちは街中の鮨屋さんを守れなくなってきている。鮨屋さんを守れないということは鮨職人の生きる道を閉ざすということだ。
鮨職人だけではなく、街中の小売店も立ち行かなくなってしまいつつある。すべてが大資本に飲み込まれ、人は公務員かサラリーマンになるしかなくなったとき、社会に人の間にどんな潤【うるお】いが残っているのだろう。

その日、くるみさんに付き合い回転鮨店に入ったが、粉茶にお湯を注いで「上がり」を作るのには、鮨が美味いとかまずいとか、値段が高いとか安いとかという以前に興ざめした。

そもそも、鮨は大人の食べるものではなかったのか。

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