父親からは、携帯電話に、急な残業で遅くなる、とメッセージが入れられていた。虫の知らせか、胸騒ぎがしたのか、タイミングを同じくして、携帯電話の画面には、キクノさんや、アマガエルからの着信を知らせる通知が、何度も浮かんでは、消えていった。
明かりの灯されていない部屋の一角には、明日10才になる真人の誕生会のため、用意されていた部屋の飾りが、手つかずのまま、袋に入れられていた。
母親は、急に我に返ると、不審に思いながらも、インターホンの呼び出しに応えた。
「――はい。どちら様でしょう」
聞き取れないほど低い声が、なにかの呪文のように、もごもごと聞こえてきた。
まるで意味がわからなかったが、母親は、急に背筋を伸ばすと、「はい」と言って、玄関の鍵を開けた。
ドアの外に立っていたのは、金色のあごひげを生やした、外国人だった。
「こんばんは」と、訪れた外国人は、きれいな標準語で、ネイティブと遜色のない発音で言った。
「――」と、母親はまばたきもせず、じっと外国人の目を見ていた。
「これを、あなたに」と、外国人は、神の奇跡が書かれた布教用のパンフレットを、母親に手渡した。「あなたの信仰に、全能の神が祝福を与えられますように……」
と、最後はまた、もごもごと、呪文のような言葉を小さく唱えていた。
「――」と、母親は、ゆっくりと閉じられていくドアの前に、じっと立ちつくしていた。
よく見ると、母親の口元がかすかに動き、ブツブツと、聞き取れないほど小さく、繰り返しなにかを言っているようだった。
ブツブツブツブツ――……
ブツブツブツブツ――……
と、繰り返される言葉が、次第にその大きさを増していった。
燃やせ燃やせ燃やせ、悪魔の住処を燃やせ――……
倒せ倒せ倒せ、この世の悪魔を地獄に帰せ――……
母親は、本人も気がつかないうちに、教団の使者から洗脳を受けていた。
二人の姉弟も、父親も、おばあちゃんのキクノさんも、誰もが気がつかないうちに、計画は進められていた。
恵果が誕生日を迎え、異常な行動を見せるようになった去年の、さらに1年前には、水面下ではあったが、すでに教団は動き出していた。
弟の誕生日会が開かれる前日。家族が全員そろうこの日を待って、最終的な儀式が行われるはずだった。
悪魔の化身といえども、その力が完全に発現していない子供の時分なら、家族がそろう時間は、無防備で、つけいる隙も多かった。
トリガーは、布教用のしおりだった。
郵便受けに入れられたしおりを、母親がひと目でも見たならば、目で追うその挿絵や文章自体に、黙読することで、洗脳する術が仕込まれていた。
母親は、自分の中に、もう一人の自分がいるような感覚を、ずっと味わっていた。
理由はわからなかったが、娘の恵果を見ると、いつも冷や汗を流すほど、怖さを感じた。
しかし、恵果がそばにいると、その怖さは、嘘のように感じなかった。
どうしてしまったのか? 姿が見えれば恐怖が自分を襲い、そばに来れば普通の感覚に戻る。
原因がわからぬまま、病院にかかることもせず、母親として心苦しくなれば、人知れずしまってあった布教用のパンフレットを、そっと手に取った。
恵果が異常な行動を見せるようになると、いぜんとして続く不安定な精神状態の原因は、こうなることを予感していたからか、とも考えた。しかし、恵果を元どおりに直そうとすればするほど、娘に対して抱く恐怖心は、ますます強くなっていった。
気がつけば、娘がそばにいて、恐怖心を感じていなくても、恵果に、自分が不安定な状態になる原因を求め、つらく当たってしまった。
深夜の家に一人、明かりも点けずにいたのは、その時が来るのを待っていたからだった。
しかし、計画どおりには、行かなかった。
時間になっても、子供達は戻ってこなかった。父親も、真士の10才の誕生日だから、と早く帰るように電話で念を押したが、結局は携帯電話に、“帰れない”とメッセージを送ってきた。いいわけがましく、明日の誕生会には、絶対に出るから、と追伸が送られてきた。
遅くなってもいい。準備はおこたりなかった。家族が揃いさえすれば、自分の使命を、まっとうすることができるはずだった。神に与えられた仕事を、遂行できるはずだった。
計画どおりにできなければ、どうすればいいのか――。
ぼんやりとした焦りを感じていたところに、直接、指令が与えられた。
玄関に現れた審問官を見たとたん、抱いていたすべての煩悶が、消し飛んでしまった。
そして、新しく与えられた使命を果たすことが、なににも代えがたい幸福なんだ、とそう思えた。
燃やせ燃やせ燃やせ、悪魔の住処を燃やせ――……
倒せ倒せ倒せ、この世の悪魔を地獄に帰せ――……
と、部屋に戻った母親は、飾りの入った紙袋の中から、ライターに補充するオイル缶を取りだした。
ためらうことなく、部屋中にオイルを撒き散らした母親は、大きな声で言葉を繰り返しながら、バースデーケーキに刺されたろうそくではなく、部屋中に撒いたオイルに、マッチで火を点けた。
ちろちろと燃え広がっていく炎を見ながら、母親はじっと立ちつくしたまま、黙って涙を流していた。
「前」
「次」
明かりの灯されていない部屋の一角には、明日10才になる真人の誕生会のため、用意されていた部屋の飾りが、手つかずのまま、袋に入れられていた。
母親は、急に我に返ると、不審に思いながらも、インターホンの呼び出しに応えた。
「――はい。どちら様でしょう」
聞き取れないほど低い声が、なにかの呪文のように、もごもごと聞こえてきた。
まるで意味がわからなかったが、母親は、急に背筋を伸ばすと、「はい」と言って、玄関の鍵を開けた。
ドアの外に立っていたのは、金色のあごひげを生やした、外国人だった。
「こんばんは」と、訪れた外国人は、きれいな標準語で、ネイティブと遜色のない発音で言った。
「――」と、母親はまばたきもせず、じっと外国人の目を見ていた。
「これを、あなたに」と、外国人は、神の奇跡が書かれた布教用のパンフレットを、母親に手渡した。「あなたの信仰に、全能の神が祝福を与えられますように……」
と、最後はまた、もごもごと、呪文のような言葉を小さく唱えていた。
「――」と、母親は、ゆっくりと閉じられていくドアの前に、じっと立ちつくしていた。
よく見ると、母親の口元がかすかに動き、ブツブツと、聞き取れないほど小さく、繰り返しなにかを言っているようだった。
ブツブツブツブツ――……
ブツブツブツブツ――……
と、繰り返される言葉が、次第にその大きさを増していった。
燃やせ燃やせ燃やせ、悪魔の住処を燃やせ――……
倒せ倒せ倒せ、この世の悪魔を地獄に帰せ――……
母親は、本人も気がつかないうちに、教団の使者から洗脳を受けていた。
二人の姉弟も、父親も、おばあちゃんのキクノさんも、誰もが気がつかないうちに、計画は進められていた。
恵果が誕生日を迎え、異常な行動を見せるようになった去年の、さらに1年前には、水面下ではあったが、すでに教団は動き出していた。
弟の誕生日会が開かれる前日。家族が全員そろうこの日を待って、最終的な儀式が行われるはずだった。
悪魔の化身といえども、その力が完全に発現していない子供の時分なら、家族がそろう時間は、無防備で、つけいる隙も多かった。
トリガーは、布教用のしおりだった。
郵便受けに入れられたしおりを、母親がひと目でも見たならば、目で追うその挿絵や文章自体に、黙読することで、洗脳する術が仕込まれていた。
母親は、自分の中に、もう一人の自分がいるような感覚を、ずっと味わっていた。
理由はわからなかったが、娘の恵果を見ると、いつも冷や汗を流すほど、怖さを感じた。
しかし、恵果がそばにいると、その怖さは、嘘のように感じなかった。
どうしてしまったのか? 姿が見えれば恐怖が自分を襲い、そばに来れば普通の感覚に戻る。
原因がわからぬまま、病院にかかることもせず、母親として心苦しくなれば、人知れずしまってあった布教用のパンフレットを、そっと手に取った。
恵果が異常な行動を見せるようになると、いぜんとして続く不安定な精神状態の原因は、こうなることを予感していたからか、とも考えた。しかし、恵果を元どおりに直そうとすればするほど、娘に対して抱く恐怖心は、ますます強くなっていった。
気がつけば、娘がそばにいて、恐怖心を感じていなくても、恵果に、自分が不安定な状態になる原因を求め、つらく当たってしまった。
深夜の家に一人、明かりも点けずにいたのは、その時が来るのを待っていたからだった。
しかし、計画どおりには、行かなかった。
時間になっても、子供達は戻ってこなかった。父親も、真士の10才の誕生日だから、と早く帰るように電話で念を押したが、結局は携帯電話に、“帰れない”とメッセージを送ってきた。いいわけがましく、明日の誕生会には、絶対に出るから、と追伸が送られてきた。
遅くなってもいい。準備はおこたりなかった。家族が揃いさえすれば、自分の使命を、まっとうすることができるはずだった。神に与えられた仕事を、遂行できるはずだった。
計画どおりにできなければ、どうすればいいのか――。
ぼんやりとした焦りを感じていたところに、直接、指令が与えられた。
玄関に現れた審問官を見たとたん、抱いていたすべての煩悶が、消し飛んでしまった。
そして、新しく与えられた使命を果たすことが、なににも代えがたい幸福なんだ、とそう思えた。
燃やせ燃やせ燃やせ、悪魔の住処を燃やせ――……
倒せ倒せ倒せ、この世の悪魔を地獄に帰せ――……
と、部屋に戻った母親は、飾りの入った紙袋の中から、ライターに補充するオイル缶を取りだした。
ためらうことなく、部屋中にオイルを撒き散らした母親は、大きな声で言葉を繰り返しながら、バースデーケーキに刺されたろうそくではなく、部屋中に撒いたオイルに、マッチで火を点けた。
ちろちろと燃え広がっていく炎を見ながら、母親はじっと立ちつくしたまま、黙って涙を流していた。
「前」
「次」