非才無才の雄叫び

つぶやくこと、叫ぶこと、すべてボケ防止だ!

東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末1

2012-06-08 11:44:38 | 日記
東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末4
東日本大震災曾野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末3
東日本大震災曾野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末2
東日本大震災 曽野綾子氏の産経新聞「透明な歳月の光」の怪
曽野綾子氏の産経新聞のコラム「イエスマンの国」を読む
夫は、この間は泣いていたかと思ったら、今回は怒ってる。
曾野綾子さんって、どういう人かしら私も興味が沸いてきそう。

 鬼神も泣かするものは世の中の
          人のこころのまことなりけり

 明治天皇御製の有名な和歌のひとつ。当方は鬼神ではないが曽野
綾子氏と「敵対」するブロガーとしては、「不覚」にも産経新聞の曽
野氏のコラム「会えなかった恩人たち」を読んで落涙してしまった。
たとえ刹那的であっても「まことのこころ」で書かれた文章には到底
敵うものではない。あれは「同志」への衒いも気負いもなく感謝に満
ち溢れた気持を率直に書き表したから読む者に感動を与えることが出
来たが、曽野氏は我々庶民には全く違ったスタンスで臨んでくる。
「無信仰」な我々国民に向かうと、途端にエリザベトが鎌首をもたげ、
選民意識を強く刺激して侮蔑と憎悪の牙を剥き出しにして、言辞を弄し
苦手とする論理性を要するテーマにも手を出してしまう。そのため記
述するものすべてにわたって齟齬が多くなるのではないかと思われる。
そのようにして曽野綾子氏がこれまでに与え続けてきた人々の傷は余
りにも深く、どんな手立てを講じようと到底癒すことは出来ないだろう。
また曾野綾子氏もこれまでの姿勢を変えるはずはないので、当方も心
を「鬼」にして闘わざるをえない。曾野氏がたとえ過去に書いた文物
であっても容赦なく反撃する。
 その思いを新たにする中で発見したのが教育改革国民会議に提出さ
れた曽野氏の「教育基本法について」と題したレポート。それは教育
改革国民会議・第一分科会所属の委員として曾野綾子氏が2000年6月
15日に提出したものとなっていて、A4版で6頁に亘る「大作」?だ。
ところで当ブログのタイトルがどうして東日本大震災なのか?それは
東日本大震災以降、曾野綾子氏のこれまで記述してきたものの原型が、
このレポートの中にあるからだ。これが曽野綾子節の原点というとこ
ろかと興味が湧く。
  先ず、教育改革の委員としてのアプローチは、「戦後の教育の荒
廃」の原因追求というごく一般的な手法をとっていて陳腐そのものだ
が、のっけから記述には誤りがある。国の主催する教育改革国民会議
に提出するレポートは認識から表現に至るまで厳格であるべきだ。と
ころが曽野氏の記述は「戦後の教育の荒廃は、精神から人間性を奪っ
た・・・
。」「その原因は、長い年月、民主主義の名を借りた安易な『自由
放任』の姿勢にありました
。」と曖昧だ。少なくとも我々戦中生まれ
の世代と団塊の世代までは民主主義の理念と自由については徹底した
教育を受けてきた。特に「自由とは何でも好き勝手にやることではな
い。自由と自由放任主義を履き違えるな。
」と大人たちは手厳しかった。
問題は次の世代だ。死に物狂いで働いた団塊の世代たちは共働きで仕
事に追われる余りに、一人っ子、かぎっ子を作り出し社会問題とまで
なった。子供の傍に居てあげられないという罪悪感から子供に物を与
え過ぎた。欲望耐性を身につけない子供がやがて大人になっていく。
親、教師、社会、その多くは、相手から嫌われるのを恐れるあまり、
易々として子供の身勝手な要求に迎合しました・・・
」訳ではなく、
また「卑屈な求愛の精神から出た」ものでもない。この辺の認識に
誤りがあるため「民主主義の名を借りた安易な『自由放任』の姿勢に
ありました
」となって、その後の展開が論理的ではなくなる。従って
「民主主義」の解釈について自説を延々と展開する破目となる。
冒頭、「一人でも反対があったら橋を架けない」を引用しているが、
この言葉は調べてみるとアフリカの思想家フランツ・ファノンの
「橋の哲学」の文章というが、後段があって「反対する者は例え冬で
も川を泳いで渡れ」とアイロニーを込めて警告したもののようだ。
この前段を美濃部亮吉が演説か何かで「民主革新都政」のスローガン
としたのだろう。前段のみを掲げて「民主主義」を唱えたところに
美濃部亮吉の誤りがあった。これは美濃部亮吉の決意であったのだろ
うが、曽野氏の言うような「全体主義」などでは決してなかった。
ただ気持だけで政治をやろうとした、今から思えば幼稚な政治家だっ
た。「一人の落伍者も出さない」も美濃部が言ったとすれば、「民主
政治」のアピールと決意表明に過ぎない。そもそも「全体主義」とい
うものは政治や経済から教育そして各家庭での個々人の言動にまで規
制を及ぼすイデオロギーだ。戦後に自由主義経済圏のわが国で部分的
であるにせよ、起こるはずがないではないか。共産主義国家や宗教教
団でない限りありえない話だ。曽野氏はそれと固く信じて疑わないか
ら「民主主義」に拘るあまり脱線する。「一人の人間の命は地球より
も重い」という言葉を理解せずに、なんと数字で比較するというナン
センスを展開する。この言葉は今から35年前のバングラディッシュの
ダッカで起きた「日航機ハイジャック事件」で乗客乗員151名の人質
を楯に武装した日本赤軍5人が日本の刑務所に収監されていた仲間
6人の釈放と16億円の身代金を要求したもので、この要求を呑む
にあたり当時の福田赳夫首相が表明した言葉として語り継がれている。
151人の人質がいたので「一人の」とは言うはずがない。これも誰
かの言葉らしいが「人の命は地球よりも重い」と、これといった大義
名分もなく世界の批判を浴びるであろう超法規的措置によるテロリス
ト集団の日本赤軍の囚人たちの引渡は、この大仰な言葉でしか凌げな
かったのであろう。「人の命は地球より重い」とは言い換えれば「人
の命は何物にも代えがたい」と人の命の大切さを強調した言葉だ。そ
れを「私たちは誰もが、1人の死者も出さないようにあらゆる部門で努
力しています。しかし9人の命を救うために1人の命を犠牲にしなけ
ればならない状況がしばしば起こることは良くあることです。ですか
ら1人の命は9人より軽いと見るのが正確でしょう
。」という具合に1人
と9人の命を比較するというナンセンスを展開して笑いを誘う。なん
という粗末。「会えなかった恩人たち」とはまるっきり違っていて同
一人物の筆によるものとはとても思えない。しかも、この論調は次の
人工妊娠中絶の話へと発展?する。人工妊娠中絶という問題は母体保
護法との関係もあって相当デリケートな問題なので扱い方を誤ると新
たな論点となってしまうのだが、曽野氏は一向にお構いなしだ。命を
大切にするということでは曽野氏の仰るとおりではあるが、「教育基
本法について」と題しているのに中絶の話を持ち出さないと論旨を展
開できないのかと思ってしまう。とにかくこの問題は当方の太刀打ち
できる問題ではないが、曾野氏に対しては指摘しておきたい点がある。
私も含め何千万という人がこの論理(人口妊娠中絶に関する)を見聞
きしましたが、おかしいとも非人道そのものだとも言わず、それを是
正する運動を起こさなかったのは、恐ろしいことです
。」
そんなはずはない、そう思ってネットで調べてみた。すると、ある論
文が眼に留まった。それは大阪府立大学人間社会学部人間科学科教授
で哲学者の森岡正博氏のもので、「生殖技術とフェニミズム」となっている。
曽野氏のレポートの4ヶ月前の2000年2月に発表したものだ。ここには
1970年代初頭に優生保護法改正案の国会提出でウーマン・リブ、中ピ
連等の婦人団体や障害者団体の激しい反対運動で同法案が廃案となっ
たが、この時期から生命倫理について議論や主張が本格化していった
としている。人工妊娠中絶は「女性の権利」と主張するウーマン・リブ
や中ピ連等の婦人団体に激しく反発したのは障害者団体だったと述べ
ているが、こういう経緯のなかで当時ウーマン・リブの指導者だった
田中美津氏は「敢えて提起する=中絶は既得の権利か?」と題した論文
を発表して波紋を呼んだ。
彼女は、『中絶は女性の権利』という言い方で、中絶という行為を
理屈によって正当化し、合理化して安心しようとする女性のこころの
問題を鋭く指摘する。そして、そのような合理化に納得しない自分の
内面にこだわるならば、中絶において自分が『殺人者』であるという
点を引き受けなくてはならないと言い切る。そのうえで、自分がその
ような殺人をしなくてはならないような社会の構造を凝視し、それを
変革してゆかねばならないとするのである。彼女は自分の思索を、
『生命(いのち)の持つ意味に対する問いかけである』と述べている。
七〇年代ウーマン・リブの思索は、明確に生命論と重なっている。
 田中のこのような思索を受けて、リブ新宿センターを中心としたグ
ループは、『権利論』ではなく、『産める社会、産みたい社会』追求
という言説を選択してゆく
。」
 森岡氏の論文は優性保護法改正案反対運動の高まりの中で「人工妊
娠中絶は女性の権利」論が台頭したものの、欧米で主張される「胎児
の生存権」という生命倫理学との議論へと向かい、現在は「五体満足
な子供がほしい」という「内なる優性思想」との葛藤の最中にあると
している。
 いかがであろうか?曾野氏の「おかしいとも非人道そのものだとも言
わず、それを是正する運動を起こさなかったのは、恐ろしいことです

この記述はレポート提出にあたって全く調査さえ行なっていないとい
うお粗末さを露呈している。ここには自らのキリスト教的信念による
主観的認識だけで記述するという傲慢さがある。しかも「何であろうと
筋を通さねば、教育などできるわけはありません
」「それを是正する運
動を起こさなかったのは、恐ろしいことです
」この文言はご自身が「人
工妊娠中絶」禁止運動を起こし筋を通したので国の任命を受けて
教育改革国民会議の委員として提議していると仰っていることに
なりますが、果たしてそうなのですか
?
では、日本で盛んに「人工妊娠中絶」に関する議論や反対運動が
起こっている時に、曾野綾子氏は、どこにいたのですか?

本当は、それにはほとんど興味を示さず、当時、選挙で選ばれた
チリのアジェンデ政権を軍事クーデターで転覆したピノチェト政権
を応援する為にわざわざチリまで行ったのではなかったのですか?

国民への虐殺等の弾圧を続けていることを知っていて応援に行っ
たのですよね。国連がチリ非難決議を1974年から4年連続で行な
った国に、しかもローマ法王が虐殺や拷問を止めるようにピノチ
ェトの説得にわざわざチリを訪問したというのに、曾野氏は夫・三
浦朱門氏と一緒にピノチェトの応援だったのでしょう?

にもかかわらず「おかしいとも非人道そのものだとも言わず、そ
れを是正する運動を起こさなかったのは、恐ろしいことです

何であろうと筋を通さねば、教育などできるわけはありません
という言辞はなんなのですか?ご自身は運動も起こさず、従って筋
も通していないのに他人には「おかしいとも非人道そのものだとも
言わず、それを是正する運動を起こさなかったのは、恐ろしいこと
です
」とは何なのですか?これは明らかに欺瞞でしょう。政府の
教育改革国民会議の委員がこういう欺瞞を弄するとは、どういう
ことですか。

 前にも述べたように扱い方を誤ると新たな論点になると警告し
たが、「何であろうと筋を通さねば、教育などできるわけはありません
という言辞は「人工妊娠中絶」問題を論点にするという意思を表し
たものだ。つまり生命倫理学を抜きにした教育論はありえないとい
うことになる。ところがこの記述の前後を読む限り曾野綾子氏は、
これを論点にする気など毛頭ないのだ。ただ最初に「1人の人間の
命は地球よりも重い」という言葉に着目したことがキリスト教の
教義の「堕胎」へと進んでいった。たったそれだけのことだ。ど
うもそれ以上のことはなさそうだ。幸いにも他の委員が遠慮してか
これを問題視しなかった為に論点にはならなかったものの自己撞着
も甚だしい非常に危うい記述である。
 この程度で政府の教育改革国民会議の委員になっているという
のは、どういうことだろうか?つまり当時の自民党政権の末期症状
が作り出した虚像ではないのか。
 
曽野綾子氏よ
こういう欺瞞を政府関係の仕事でも
やってのけるというのは大胆不敵だ
仕事を舐めている。
甘やかされて、甘えているのだよ。
能力もないのに、何でも安請け合いしないことだ。
潔く筆を折るか、さもなくば、
ほんの身の回りのことだけにしなさい


※申し訳ありませんが長くなるので、次回に割愛いたします。

■埼玉不動産仲介手数料最大無料メディアエステート
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 産経新聞の曾野綾子氏には参... | トップ | 東日本大震災曽野綾子氏の教... »
最新の画像もっと見る

日記」カテゴリの最新記事