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東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末5

2012-07-06 19:40:02 | 日記
東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末4
東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末3
東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末2
東日本大震災曽野綾子氏の教育改革国民会議レポートの粗末1
大津市の中2の男子生徒が自殺したのは「自殺の練習をさ
せられていた」ことを教師は見て見ぬふりをしていたなんて、あまり
にも酷すぎる。教師も学校も教育委員会も腐ってるわよッ
 
 レポートなのに論点がなく、それぞれの話に結論めいた記述もな
いので、話は移ろっていくという感を否めない。先の当ブログの
「粗末4」の最後の部分。
戦後の教育は時には道徳に反することまで許しましたから、若者た
ちは、心身の飽食と放縦の中で、みずからの責任において選ぶこと
の方途も意味も見失ったのです。足りない時にこそ、人はどう して
も手に入れたいものを明確に発見するものです
。」に続くのがこれだ。
そもそも教育は誰が行うかという点に注目しましょう。『教師は労働
者である』と自ら宣言するような 教師などに、教育ができるわけはあ
りません。その時点で自ら思考する能力のある教師たちは、自分の
使命と尊厳にかけて反対する戦いを始めるべきでした
。」という具合
に話は転じてしまう。曽野氏の文章を読むには「これが当たり前」と
いう認識がないと読了は覚束なくなる。で、ここにある「『教師は労働
者である』と自ら宣言するような 教師などに、教育ができるわけはあ
りません
」の中の「教師は労働者である」の文言をネットで調べると
日教組の倫理綱領の中の一文だった。あるネットの記事を転載する。
日教組第九回大会でうちだした「教師の倫理綱領」は、つぎの十項
目で成っている。
一、教師は日本社会の課題にこたえて青少年とともに生きる。
二、教師は教育の機会均等のためにたたかう。
三、教師は平和を守る。
四、教師は科学的真理に立って行動する。
五、教師は教育の自由の侵害を許さない。
六、教師は正しい政治を求める。
七、教師は親たちとともに社会の頽廃とたたかい、新しい文化をつくる。
八、教師は労働者である
九、教師は生活権を守る。
十、教師は団結する。
 これに前文があり、各項目ごとに短いコメントが付せられた形で
「教師の倫理綱領」という文書は構成されている。
「倫理綱領」を制定した第九回大会は一九五二年六月にひらかれた

曽野氏の論調は保守論壇の論調そのものだが、ここでも主張する論拠
は示されてはいない。曽野綾子氏を「保守の論客」と呼ぶ人がいるが
曽野氏は論客などではない。論客とは論理的な記述を行い、論理的に
鋭くディベイトを行なう人のことだ。保守論壇の中で論客といえば女性
では櫻井よし子氏が正にそうだ。ハワイ大学卒のようだが慶応を中退
した経歴の持ち主で、その鋭い舌鋒もさることながら論説の筆力は
相当なもののようで、当方など付け入る隙もない。それが論客だ。
もっとも何にでも口を出す人を「論客」と言うならば曽野氏もその一人
ではあろう。さて、話を元に戻すが「教師は労働者であると自ら宣言
するような教師などに、教育ができるわけはありません
」という論拠は
何か、曽野氏は示す必要がある。教師は「聖職者」で「労働者」ではな
いないと主張しても論拠は必要だ。ところが曽野氏はこの重要な問題
を論点にする気はさらさらない。なぜなら後述する曽野氏の記述は、
この後、続けて「過去にこだわるのはやめにしますと」となって肩透かし
を食らわすからだ。ただ記述の内容と日教組の倫理綱領の当該事項が
現存し教育基本法にも「教員」を規定した部分があり曽野氏が言及した
以上、曽野氏の意思とは関わりなく避けては通れない論点である。
 そこで当方は教師の労働組合が世界にはどの程度あるかネットを調
べてみた。ネットを見る限り教師の労働組合のある国はアメリカをはじ
め先進国といわれる国やフィンランド等、北欧の高福祉国家にもある。
それらの国々の労働組合と日教組とどう違うのだろうか?当然こういう
疑問が湧いてくる。ネットで探しているうちに、教育大国といわれるフ
ィンランドについて記述したあるブログを発見した。
浅野誠氏の「田舎暮らし 人生創造」というブログ。浅野氏は琉球大学、
沖縄大学で教鞭をとってこられた方でブログの記事は多岐に亘ってい
て学者らしいブログだ。フィンランドの部分の一部を以下に転載させ
て頂く。

教職員組合でのインタビュー フィンランド調査12 
インタビューに応じて下さったのは、ポリテクや職業高校で働いてき
て、現在組合の特別アドバイザーの任にある方。職業関連の学校に詳
しい方だ。
 組合加入率が低く、かついくつもの組織にわかれている日本の様子
とは随分異なる事情にある。そのいくつかの特徴を書く。
1)組織名は、Trade Union of Education in Finland 略称は、OAJ
2)フィンランドの95%以上の教員が加入している。組合員数は約
12万人。うち女性が74%. 幼稚園教員や大学教員も加入している。
3)teacher student(教員学生)たちの組織 Finnish Teacher
Student Association も加入している。約7000人が加入。教員養成課
程にある学生のことを指しているようだが、詳細はつかめていない。
「教員訓練を発展させるだけでなく、教員学生の地位や研究学習条件
を保障することを目的にしている。」
4)veteran teacher と呼ばれる退職教員も、約18000人加入
している。
6)どの政党ともリンクはしていない
9)これは私の推理であるが、教職員組合を含めて労働組合が、資
格取得、職業訓練に強くかかわっている。労働組合の全国組織にし
ても、資格・学歴と深いかかわりをもって組織されている。
 だから、教員養成に教職員組合が深いかかわりをもち、組合のな
かに「教員学生」も多数を組織している


更に文部科学省のホームページの中にフィンランドに関するレポー
トがあった。

教員組合、団体の状況 (文部科学省HPより転載)
フィンランドにおける最大の教職員組合は、教員組合(Trade Un
ion of Education in Finland:OAJ(注133))と呼ばれる団体である。
OAJは主に地方自治体の雇用制度担当組織である地方自治体雇用
者機関との交渉窓口となり、フィンランドにおける教員給与の決定プ
ロセスに関与している。
OAJは1973年12月28日に設立された。2006年1月1日時点の組合員数
は、11万4,983人であり、フィンランド全土の教員の96パーセント以上が
組合員となっている。OAJの主目的は、フィンランドにおける教員の
利益を保護することにあり、教員の給与、労働時間等の諸待遇に関
する交渉を行っている。OAJの意思決定はカウンシルと呼ばれる委員
会で行われ、年に2回カウンシル会議が実施される。OAJの中央事務
局及び11の地方事務局は、組合員に対し以下の福利厚生を提供して
いる
組合員への福利厚生
ア) 給与・待遇に関するアドバイス
(イ) 教員失業支援基金(Teacher's Unemployment Benefit Fund)
    への加盟
(ウ) 各種保険
(エ) Opettaja誌の発行(Opettajaとはフィンランド語で「先生」
    の意味)
(オ) 余暇・リクリエーションのサービス


以上の記事からフィンランドの教員の労働組合は日本と違って組合
大会や集会というのがほとんどなく、執行委員会若しくは組合事務
局が労使交渉の窓口となって、ほとんどの教員は子供の教育に専念
しているのではないかと推察する。更に浅野氏のブログの6の「どの
政党ともリンクはしていない
」というのが日本と全く違うところだ。
日教組の組織率が28.3%と低いものの日本の教員の労働組合は、
関係の濃淡はあっても民主党、社民党、共産党、自民党とリンク若
しくは支配下にある。組合によっては非常にイデオロギーが強い組
織もあるようだ。
更に日本の元教員だった方の質問に関連した2chのレスをまとめたブロ
グ「もと日教組だけど質問ある?BIPブログ」を紹介する。
このレスで告発される日教組の組合員の姿は決して賛同できるもので
はない。待遇改善等は組合員の自分たちがやっているんだという自負
が非組合員に対しては露骨な排他的言動や対応になっているようだ。
このような職場環境では子供の教育などできるのだろうかと心配だ。
子供は大人たちの人間関係や姿勢を鋭い感覚で読み取る。そのことに
教師たちが気づかぬはずがない。従ってそのことに無頓着な教師は真
の教師とはいえまい。フィンランドでも教師は「聖職者」として世の
尊敬を集めるのは、まずその姿勢があるからだろう。子供たちの将来
を左右する立場にある教師は日本でも「聖職者」でなければなるまい。
労働者ではあるが労働環境の改善は執行部や組合事務局任せにして、
すべてを子供に捧げるほどの気持ちが欲しい。授業時間外や学校以
外でも子供のことが頭を離れない教師であって欲しい。それが「聖職
者」と言われる所以ではないかと当方は考える。このことから曾野綾
子氏には「過去のこと」ではなく永遠の課題として再考して頂きたい。
 ここで当方の「教師」に対する過去の経験について記述してお
きたい。それはわが長男が小学5年生の時のことだ。
仕事中に妻から電話があって、学校から帰ってきた息子が吐き気
をもようしているので病院へ連れて行ったという。学校で殴り合
いをして頭を殴られッ放しだったことが原因のようだか、それに
は経緯があって、授業時間中に相手と睨み合いになったところを
教師が咎めて二人を廊下に立たせたようだが、睨み合いの原因は相
手から「お前は○○チャンを好きなんだ」と言って皆の前でからか
われたらしい。それで長男は気が治まらなかったようだ。授業が終
わって、その担任の教師が「けんか両成敗」と言って自身の目の前
で素手で殴り合いをさせたのだが、相手は上背が高く、長男は身長
が低い方だったので一方的に殴られて頭部にダメージを受けたよう
だ。妻は怒りが収まらない口調で担任の教師に抗議をして欲いと言
った。早速、担任へ電話をして、具合が悪くなった息子を受診させ
たことを伝えた後、「睨み合いの原因をお聞きになったのですか」
と尋ねると「いいえ」という返事だ。「原因を確かめないで喧嘩両成敗
ですか?」「申し訳ございません」平謝りだ。畳掛けて「先生、目の前で
子供たちに素手で殴り合いをさせるということは、どういうことですか?」
「申し訳ございません」「殴り合いをさせるにしてもゲーム化できなかっ
たのですか?」「えっ?」「そういうことも解らないのですか?新聞紙を筒状
に丸めて、それぞれにその筒状の新聞紙を持たせて、お互いにその
新聞紙で50回づつおもいっきり殴れと言えば、互いに身体的なダメ
ージを受けることもなくストレス解消にもなる。そして仲直りをさせる」
「はい、お父さんの仰るとおりです。気が付かずに申し訳ございません
でした。」教師はこの程度なのかという情けない思いで一杯だった。
大半の教師がこの程度なのだろう。なぜか?教科を教えるだけで子供
に愛情がないからだ。愛情がないから子供を見ていない、また見詰よ
うとしない。
昨年10月に起きた大津市の中学2年生の男子生徒の自殺も子供に
愛情がないから、いじめを目撃した他の生徒から相談を受けても
「何もしてくれなかった」となり、中2の生徒の自殺を巡って行な
った全校アンケートを市の教育委員会は生徒らに真偽の確認もせず、
従ってアンケートの回答も公表しなかったという。理由は「事実確
認は可能な範囲でしたつもりだが、いじめた側にも人権があり、教
育的配慮が必要と考えた。『自殺の練習』を問いただせば、当事者
の生徒や保護者に『いじめを疑っているのか』と不信感を抱かれる
かもしれない、との判断もあった」といかにも保身的なコメントだ
が「いじめを疑っているのかと不信感を抱かれるかもしれない」な
どと社会では通用しない弁解だ。不信感を抱かせないようにアプロ
ーチをし話を進めるのが教育者なのに、普段はインテリ然としなが
ら、いざとなるとこの体たらくだ。教育関係者が如何に愚鈍な者が
多いかということだ。以上のことからも解るように子供をしっかりと
見詰ながら、そこにおいて知・情・意を行なえば、それぞれの
子供を理解することができ、創意を以って接することもできるは
ずだ。これが教師の「聖職者」たる所以だ
。教師が、あるいは
日教組がこの自覚の基に「労働環境の改善」に取り組んでいれ
ば、世論の激しい批判を浴びることもなかったであろう。
 いかがであろうか。「教師は労働者」という問題は「過去」のことで
はなく現在進行形の重要な論点だ。ところが曽野氏は「過去にこだわ
るのはやめにしますと
」とさらりとやり過ごす。これにはいささか疑念が
残る。頑固一徹の曾野綾子氏がそんな言葉を残して簡単にやり過ご
してしまうのはどうも腑に落ちない。1994年に社会党と自民党の連
立政権で村山内閣が誕生して、翌1995年に日教組は当時の文部省と
の協調路線に転じた。曽野氏はこのことをもって「過去にこだわるのは
やめにしますと
」と記述したかのように受け取れるが、実をいうとそうで
はなかろう。
日教組が提起して文部省(旧)がすでに実施していた「ゆとり教育」を夫・
三浦朱門氏の別の思惑つまりエリートを育てる為の「ゆとり教育」に変
更させる意図があり、それを成就する為には日教組との摩擦を避けた
かった為に「過去にこだわるのはやめにしますと」という記述となったも
のと推察する。曽野氏よ、その通りではないのですか?
 さて、次はいよいよ曽野綾子氏の珍説の出番だ。
過去にこだわるのはやめにしますと、小学校5、6年生に自我ので
きかける年ごろ以上の年齢の子供に は、教育の責任は次のような比
率である、と教えるべきでしょう。
 50パーセント 当人。
 25パーセント 親。
 12.5パーセント 教師。
 12.5パーセント 周辺の一般社会。
つまり『自らの教育を他人任せにするな』ということです
。」
 これでは教育改革国民会議の他の委員たちが唖然としたと思われる。
「教育の責任」を数値で表すこと自体が滑稽なことだからだ。例えば
全体の50%であるこの範囲を責任もって清掃しなさいとか、学習塾の
授業料の50%は自分の責任で稼いででも支払いなさいという物理的な
課題であれば理解できるが、義務教育途上の子供に「自分に対する教
育の責任」を数値で示すことは教育に関する知見を持ち合わせていな
い者のすることだ。高校生くらいになると「半分は自分の責任だ」と
教師や大人たちは説教がましいことを言ったりするが、それは本人の
自主性、主体性を促す為の方便に過ぎない。「教育の責任」という概
念があるにしても、それは数値で表すようなものではなかろう。それ
にしてもナンセンスなのは「25パーセント 親。12.5パーセン
ト 教師。12.5パーセント 周辺の一般社会
。」との曽野氏の記
述。例え高校生に対してもこれを言ってなんになるのか?早熟した子
供たちから失笑を買うようなもので、およそ教育というものを理解し
ていない者の言辞だ。
まして義務教育途上の子供に「自らの教育の責任は本人に50%」あると、
どのようにして教えようというのか。例えば子供が「50%の自分の教育
の責任は果たしたので、後は親や先生や社会の責任だ。」と主張した
ら、曽野氏はどう答えるつもりだろうか。「自らの教育を他人任せに
するな」というのが、この段落の論旨だろうが、そうはいっても親以
外の他人の責任は25%となるが、それをどう教えるつもりか?本当は子
供に関心がないから、こういう記述を平気で行なうのだ。
それより幼い年頃の子供に対する教育の責任は、
 50パーセント 親。
 25パーセント 教師。
 25パーセント その子の身の回りの社会。
 と私は考えています。
 いつの社会でも、どの時代でも、内外のさまざまな理由が、子供の
人生に介入します。人のせいにしていれば、望ましい要素でさえそ
の子を傷つける理由になります
。」この人はどうしてこうも駄文を書く
のか。「人のせいにしていれば」ではなく「これらのことを人のせい
にすることは」でしょうに・・・。この段階になると他人の責任が50%
となる。にもかかわらず、曽野氏自身の責任に言及していないのはな
ぜか。いずれにしてもこういう責任論で子供たちの自主性、主体性、
社会性を育成することは、余計な混乱を招くだけだ。

曽野綾子氏よ
このレポートのていたらくは
国力の低下を目の当たりに
しているようで哀しい。
責任は感じないのですか
・・・・だそうです。


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