曾野綾子氏の産経新聞のコラム「イエスマンの国」を読む
東日本大震災 曽野綾子氏と読売新聞の「税と安心」
東日本大震災 曽野綾子氏と読売新聞「編集手帳」
東日本大震災 曽野綾子氏個人的記録という欺瞞Ⅳ
東日本大震災 曽野綾子氏と文芸春秋「日本はどこで間違えたか」
東日本大震災・曽野綾子のキーワードでネットを検索しても
曽野綾子さんの週刊誌掲載のコラムのタイトルを使って曽野綾子さ
んの文章を載せていた曽野綾子ファン方々のブログを含めていくつ
かのブログが表示されなくなったので夫は気の毒がっています。
このブログは週刊ポスト4月1日号の東日本大震災特集に寄稿し
た曽野綾子氏のコラムについて前々回からの「曽野綾子氏の間違
いだらけの文章作法」「曽野綾子氏の責任と良心を問う」に続いて
今回で3回目となる。曽野綾子氏のコラムは著名?な「作家」「文化
功労者」でありながら記述していることがノーマルではない部分が
ある以上、曽野綾子氏を放置しておくわけにはいかないのでこのよ
うに攻め続ける。曽野綾子氏のコラムの全文を紹介しておられる宇
佐美保氏のブログを一部抜粋させて頂くので宇佐美氏の「復興は平
和の礎(曽野綾子氏と石原慎太郎氏)」をあわせてお読み頂くとあ
りがたい。
さて、曽野綾子氏のこのコラムは冒頭から「近年落ち込んでいる
と言われる日本の凋落」などとレトリックというには程遠い稚拙な
文章表現の為、何を言いたいのかさっぱり分らない。だが強いて
言えば「1000年に1度の災害」を言い訳にするなと仰りたいのだ
ろうか?これも先のブログで指摘したように「1000年に1度の災害」
を「想定外」と言い訳したのはほかならぬ東京電力だ。
ところがWiLL」6月号「昇一先生の美女対談」『不幸からの贈り物
が日本人を鍛える』(渡部昇一&曽野綾子)抜粋で曽野 「こんなに
ひどい津波 は見たことがない、・・・・そもそもの想定が甘かったな
ら、責任は東電ではなく設計側にあります」
言い訳をする東電をこのように擁護しながら、一方では前原議員
には「言い訳するな」この甚だしい自己撞着をどう説明するおつ
もりか?最近、その東電が2008年に貞観津波を把握し現在の防潮
堤が低い事を認識していたことが判明した。調べもしないで東電を
擁護したことがどういうことになるのか考えもしなかったというこ
とですか?それなのに良心も痛まないし責任も感じないのですか?
だから当方も手を緩めず厳しく攻めるしかないのです。
では参りましょうか、前段部分から。
「十六年年前の阪神,淡路大震災の時にも略奪放火はなかった。
部分的なコソ泥はあったろうが、被災民その他が、暴徒化する気
配も全く示さなかった。その理由の八割は、日本人の受けて来た
教育と資質だと私は信じている。もっともそればかりというのも
いささか甘いのであって、今回は略奪する店一軒現場には残され
ていなかったこともあろうし、日本人にはまだ政府が何とか最底
限の水と食料、雨露をしのぐ屋根の下を与えてくれるだろうとい
う確固とした信頼があるからではないかと思う。」この部分は宇佐
美氏も指摘している。なにを「もっともそればかりというのもい
ささか甘いのであって」「その理由の八割は」ということは、後の
二割は暴動が起こったかもしれないと言いたいようだ。「今回は
略奪する店一軒現場には残されていなかった」ということと「日本
人にはまだ政府が何とか最底限の水と食料、雨露をしのぐ屋根
の下を与えてくれるだろうという確固とした信頼があるからでは
ないか」なんということを!調べもしないで寄稿するなんて「作家」
のすることか。「甘えている」のは曽野氏自身ではないか。
宇佐美氏が次週の週刊ポストの特集記事を引用しておられるの
で、当方はそれをさらに転記させて頂いた。
『週刊ポスト(2011.4.8号)現場の磁力:78年前の〈昭和三陸大津
波〉「見よ!希望の光に輝きつつ」』「『岩手懸昭和震災誌』は叙
説にこう綴った。『人々は絶望から立ち直り、希望の光を見出す。
県が救護本部を設置し、救助物資の配給を始め、陸軍の救援隊、
医療救護班も到る。陸は孤絶している。横須賀などを発した艦隊
が海から衣類、食糧を満載してきた。驚くべきは、この絶望にあ
って奪う者はなく互いに分けあい、一致団結する者しかいない』
と続ける。現在とは比べものにならない経済状況である。この津
波の10か月前の新聞は、ワラビの根しか食えない、凶作で『農漁
村の欠食児童が20万人を突破』と報じた。2年前から『満州事変』
に突入している。そういう時代だった。」調べればこういう記録が
あるではないか。上記のような明治以来の教育勅語を中心と
した儒教的思想教育による精神的風土があったことを差し引いて
も阪神大震災、東日本大震災で暴動など起こるはずがないことは
自明の理だ。従って「日本人にはまだ政府が何とか最底限の水と
食料、雨露をしのぐ屋根の下を与えてくれるだろうという確固とし
た信頼があるから」とは決して言えないし、「今回は略奪する店
一軒現場には残されていなかった」とは甚だしく被災者を愚弄し
た記述。ついでに言わせて頂くなら、4月の読売新聞の識者
インタビューで仰っている「そうした時代を生きる私たちは、国家
やシステムを疑い、それらにあまり依存しないことだ」と言いなが
ら、一方では「信頼があるから」暴動が起こらなかったという、こ
の発言の違いをどう説明するのですか?全く話にならない。
次の「私は小説家だから、自分の体験でものを言う他はない」
ご自身を「小説家」だと知らない人が多いと思って「私は小説家」
と前置きしたのですか?こんなことを言うから「自意識過剰」と批
判される。何も小説家でなくても我々庶民は基本的には体験でも
のを言う他ないし、そうしている。しかし小説家というのはすべ
て「体験」でものを言ったり書いたりするものなのですか?おかし
いではないですか。「私小説家だから」と言うのであれば解らな
くもないが、世にある小説はすべて体験に基づいているものなの
ですか?じゃ「時代小説」は、「SF小説」は、となりますよ。
強いて言えば取材やその他の調査で得たものを「体験」もしくは
「追体験」と言えば言えなくもないでしょうが、我々庶民の小説
に対する理解は作家が取材その他で得た資料や知識を基にフィ
クションの世界を作り上げていくプロの世界だと思っているのです
が。なのに「私は小説家だから、自分の体験でものを言う他はな
い」だからあなたを病気だと言うのですよ。名付けて「自意識過
剰病!」おまけに「私は小説家」と断ったわりには、その後の記
述は小学生並みの作文。 小学生の作文から急に大東亜戦争
の体験の話になったりするので面食らう。昔、当方が若造の頃、
年配の人に良く小言を言われたのをふと思い出した。「今時の若
いのは」。曽野氏の言っていることは、その小言に似ていて「これ
が老いの才覚の一つなのか」と情けなく思う。「老いては子に従い」
の諺どおり年寄りは余計な詮索や口出しをしないことが「老いの
才覚」の一つではないのですか?それから「サハラ横断」一人で
行ったのですか?スタッフが随行したのでしょうよ。おまけに何日
分かの食料やミネラルウォーターを持参しての話でしょう?まさか
コウモリやサソリを捕まえて食料にしながら横断したわけではな
いのでしょう?そんなの「原始で暮らした」とは言えません。
それでサハラのことをネットで検索したら「サハラマラソン」が
でてきた。「競技者は7日分の食料や飲み物、その他、寝袋、炊事
道具、懐中電灯、コンパス、衣服、薬など諸々の必要な荷物(お
よそ6kg~13kg)を背負いながらマラソンをする。水とテントは運
営側から提供される」相当過酷なレースだ。去年、このレースに
73歳の日本人女性が参加して完走したという。曽野氏の体験など
は大したことではないし、砂漠へ行ったからと言って原始を体験
したことにはならない。なぜアマゾンへ行かなかったのか?アマゾ
ンの奥地で食料を一切持参せず原住民と一緒に寝食を共に1週
間過したとなれば、それは「原始を体験した」ことなるだろう。また、
われわれ庶民にはサハラ横断するほどのお金がないから、せめて
北海道の日高山脈くらいにして欲しい。夏場、ヒグマのうろうろ
する所で銃器を持たず食料も現地調達で1週間過したというのであ
れば、「原始を体験」したと大手を振って言えます。何かを言わ
んがためにこういうことを持ち出す手法は幼児性の現れだ。
だから読む者の嘲笑を買う。
そして次に例の政治家が叫ぶテーゼを巡る発言。「安心して暮
らせる生活」「安心して暮らせる老後」という言葉は「もともと詐欺
なのである」などと言うあたりも曽野氏の病状の一つ。先のブ
ログでも触れたが、これは曽野綾子氏の「不安の概念」という哲
学的命題を追求する視点での話で庶民の実生活や政治家の
政治活動に理解がないための錯覚や幻想に過ぎない。「安心して
暮らせる生活を」というのは戦後政治の中で古くから叫ばれてきた
合言葉だ。民主化運動や様々な政治活動もあって今日のある程
度の安定した社会がもたらされたことは紛れもない事実。例えば
1955年までは農業、自営業者、零細企業従業員等約3000万人が
無保険で、これが社会問題となり政治家や市民運動等の活動で
3年後の1958年に国民健康保険法が制定され1961年に国民健
康保険事業が始まって国民皆保険体制が出来上がった。これな
ども「安心して暮らせる社会の実現」を標榜して運動してきた人々
の成果でもある。また高負担高福祉のデンマークやスウェーデン
等の北欧の国々やカナダに「安心して暮らせる老後」がある以上
「詐欺」などとは言えない。現実にある世界だ。詐欺などと叫ん
でいるのは曽野綾子氏くらいなものだろう。むしろ曽野綾子氏の
主張は別の意味で危険性を孕んでいる。曽野綾子氏は「文化功労
者」でありながら「安心して暮らせる社会」を希求する国民運動
を阻止し、国民を他へ誘導しようとする一部の保守勢力や極右の
先導役を務めることにもなりかねない。「安心して暮らせる生活
や老後」を希求する国民や政治理念を否定するのであれば、潔く
「文化功労者」を返上して一部の政治勢力の旗振り役に専念すれ
ば良い。
そして後段のサブタイトル「水と電気がある稀有のぜいたく」。
言わんとしていることは解らなくもないが、ご自分は何なのです
か。「水は屋外タンクに二百リッターは貯水してあるシステムだっ
た。・・・・・・・水はペットボトルに二百本以上の備蓄がある。」それ
こそ庶民も真似できない「稀有のぜいたく」をしながら国民には
自分が体験したからと言って、アフリカと比較して「稀有のぜい
たく」をしていることが分らないか?何を本末転倒!チンプンカンプン!
何度も言いますが明治以来、追いつけ追い越せと頑張ってきた西
欧となぜ比較しないのですか?アフリカとは文化や歴史があまり
にも違いすぎるでしょう。わが国の先達が血の滲むような努力と
高い納税義務の上に築き上げてきた今日の日本。贅沢を戒めるの
だったら別の言い方があるでしょう。「太平洋戦争で犠牲になっ
た310万人のおかげで今日の平穏と贅沢があることを忘れてはな
るまい」と言われるのだったら納得します。おまけに「水と電気が
ある稀有のぜいたく」の日本を「私は天国だと言い続けてきた。
しかしそのような日本を、格差のひどい社会だと言った政治家や
学者が現にいたのもほんとうだ。」なんという言い草。
なんという比較。「日本は天国だ」と思い、主張することを妨げ
はしないが、自己の主張を既成事実のように錯覚して正当化する
為に「格差社会」という社会問題を持ち出して比較するナンセン
スは曽野氏が病気であることを証明している。しかも「格差のひ
どい社会だと言った政治家や学者が現にいたのもほんとうだ」と
言って格差社会の現実を否定するかのごとき発言は由々しきこ
とだ。
さらに国民には「甘えるな」などと差し出がましいことを言いなが
ら同胞のことにはほとんど関心がない。その証拠がこれだ。「どん
な事故も、一瞬にして万単位の人を消し去ることはできない」
などとなにを寝ぼけたことを仰る。ここは宇佐美氏も指摘してい
るが、広島・長崎の被爆では一瞬にして20万人の同胞が亡くなっ
ているというのに、曽野氏には戦争を体験したと言いながら同胞
のことなど全く念頭にないからエイヤーでこういう間抜けな記述
をする。曽野氏の文章は幼稚で非論理的で、思索や検証の形跡
もない。正に戦後の文壇史に汚点を残す売文家だ。
曽野綾子氏よ。ついでに言わせて頂くと週刊ポストのコラムと
言えども公共性がある以上は、あなたが気ままに書ける日記帳
ではないのですよ。言っている意味が解りますか?
こんな病的な「文化功労者」曽野綾子氏には
二音節、三音節がお似合いのようだ。
なにそれ!
え?・・・ご存じない?
それなら言って進ぜよう!
※曽野綾子氏側は相当神経質になっていて、たいした罵詈雑言
でもないのに削除要請を行ったようだ。これだったらどうだ。
○○! ○○! ○○ケーッ
読む人の想像力を刺激してかえってよいのでは・・・・。
ということです。
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東日本大震災 曽野綾子氏と読売新聞の「税と安心」
東日本大震災 曽野綾子氏と読売新聞「編集手帳」
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東日本大震災・曽野綾子のキーワードでネットを検索しても
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んの文章を載せていた曽野綾子ファン方々のブログを含めていくつ
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た曽野綾子氏のコラムについて前々回からの「曽野綾子氏の間違
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今回で3回目となる。曽野綾子氏のコラムは著名?な「作家」「文化
功労者」でありながら記述していることがノーマルではない部分が
ある以上、曽野綾子氏を放置しておくわけにはいかないのでこのよ
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と言われる日本の凋落」などとレトリックというには程遠い稚拙な
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ら、責任は東電ではなく設計側にあります」
言い訳をする東電をこのように擁護しながら、一方では前原議員
には「言い訳するな」この甚だしい自己撞着をどう説明するおつ
もりか?最近、その東電が2008年に貞観津波を把握し現在の防潮
堤が低い事を認識していたことが判明した。調べもしないで東電を
擁護したことがどういうことになるのか考えもしなかったというこ
とですか?それなのに良心も痛まないし責任も感じないのですか?
だから当方も手を緩めず厳しく攻めるしかないのです。
では参りましょうか、前段部分から。
「十六年年前の阪神,淡路大震災の時にも略奪放火はなかった。
部分的なコソ泥はあったろうが、被災民その他が、暴徒化する気
配も全く示さなかった。その理由の八割は、日本人の受けて来た
教育と資質だと私は信じている。もっともそればかりというのも
いささか甘いのであって、今回は略奪する店一軒現場には残され
ていなかったこともあろうし、日本人にはまだ政府が何とか最底
限の水と食料、雨露をしのぐ屋根の下を与えてくれるだろうとい
う確固とした信頼があるからではないかと思う。」この部分は宇佐
美氏も指摘している。なにを「もっともそればかりというのもい
ささか甘いのであって」「その理由の八割は」ということは、後の
二割は暴動が起こったかもしれないと言いたいようだ。「今回は
略奪する店一軒現場には残されていなかった」ということと「日本
人にはまだ政府が何とか最底限の水と食料、雨露をしのぐ屋根
の下を与えてくれるだろうという確固とした信頼があるからでは
ないか」なんということを!調べもしないで寄稿するなんて「作家」
のすることか。「甘えている」のは曽野氏自身ではないか。
宇佐美氏が次週の週刊ポストの特集記事を引用しておられるの
で、当方はそれをさらに転記させて頂いた。
『週刊ポスト(2011.4.8号)現場の磁力:78年前の〈昭和三陸大津
波〉「見よ!希望の光に輝きつつ」』「『岩手懸昭和震災誌』は叙
説にこう綴った。『人々は絶望から立ち直り、希望の光を見出す。
県が救護本部を設置し、救助物資の配給を始め、陸軍の救援隊、
医療救護班も到る。陸は孤絶している。横須賀などを発した艦隊
が海から衣類、食糧を満載してきた。驚くべきは、この絶望にあ
って奪う者はなく互いに分けあい、一致団結する者しかいない』
と続ける。現在とは比べものにならない経済状況である。この津
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村の欠食児童が20万人を突破』と報じた。2年前から『満州事変』
に突入している。そういう時代だった。」調べればこういう記録が
あるではないか。上記のような明治以来の教育勅語を中心と
した儒教的思想教育による精神的風土があったことを差し引いて
も阪神大震災、東日本大震災で暴動など起こるはずがないことは
自明の理だ。従って「日本人にはまだ政府が何とか最底限の水と
食料、雨露をしのぐ屋根の下を与えてくれるだろうという確固とし
た信頼があるから」とは決して言えないし、「今回は略奪する店
一軒現場には残されていなかった」とは甚だしく被災者を愚弄し
た記述。ついでに言わせて頂くなら、4月の読売新聞の識者
インタビューで仰っている「そうした時代を生きる私たちは、国家
やシステムを疑い、それらにあまり依存しないことだ」と言いなが
ら、一方では「信頼があるから」暴動が起こらなかったという、こ
の発言の違いをどう説明するのですか?全く話にならない。
次の「私は小説家だから、自分の体験でものを言う他はない」
ご自身を「小説家」だと知らない人が多いと思って「私は小説家」
と前置きしたのですか?こんなことを言うから「自意識過剰」と批
判される。何も小説家でなくても我々庶民は基本的には体験でも
のを言う他ないし、そうしている。しかし小説家というのはすべ
て「体験」でものを言ったり書いたりするものなのですか?おかし
いではないですか。「私小説家だから」と言うのであれば解らな
くもないが、世にある小説はすべて体験に基づいているものなの
ですか?じゃ「時代小説」は、「SF小説」は、となりますよ。
強いて言えば取材やその他の調査で得たものを「体験」もしくは
「追体験」と言えば言えなくもないでしょうが、我々庶民の小説
に対する理解は作家が取材その他で得た資料や知識を基にフィ
クションの世界を作り上げていくプロの世界だと思っているのです
が。なのに「私は小説家だから、自分の体験でものを言う他はな
い」だからあなたを病気だと言うのですよ。名付けて「自意識過
剰病!」おまけに「私は小説家」と断ったわりには、その後の記
述は小学生並みの作文。 小学生の作文から急に大東亜戦争
の体験の話になったりするので面食らう。昔、当方が若造の頃、
年配の人に良く小言を言われたのをふと思い出した。「今時の若
いのは」。曽野氏の言っていることは、その小言に似ていて「これ
が老いの才覚の一つなのか」と情けなく思う。「老いては子に従い」
の諺どおり年寄りは余計な詮索や口出しをしないことが「老いの
才覚」の一つではないのですか?それから「サハラ横断」一人で
行ったのですか?スタッフが随行したのでしょうよ。おまけに何日
分かの食料やミネラルウォーターを持参しての話でしょう?まさか
コウモリやサソリを捕まえて食料にしながら横断したわけではな
いのでしょう?そんなの「原始で暮らした」とは言えません。
それでサハラのことをネットで検索したら「サハラマラソン」が
でてきた。「競技者は7日分の食料や飲み物、その他、寝袋、炊事
道具、懐中電灯、コンパス、衣服、薬など諸々の必要な荷物(お
よそ6kg~13kg)を背負いながらマラソンをする。水とテントは運
営側から提供される」相当過酷なレースだ。去年、このレースに
73歳の日本人女性が参加して完走したという。曽野氏の体験など
は大したことではないし、砂漠へ行ったからと言って原始を体験
したことにはならない。なぜアマゾンへ行かなかったのか?アマゾ
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間過したとなれば、それは「原始を体験した」ことなるだろう。また、
われわれ庶民にはサハラ横断するほどのお金がないから、せめて
北海道の日高山脈くらいにして欲しい。夏場、ヒグマのうろうろ
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れば、「原始を体験」したと大手を振って言えます。何かを言わ
んがためにこういうことを持ち出す手法は幼児性の現れだ。
だから読む者の嘲笑を買う。
そして次に例の政治家が叫ぶテーゼを巡る発言。「安心して暮
らせる生活」「安心して暮らせる老後」という言葉は「もともと詐欺
なのである」などと言うあたりも曽野氏の病状の一つ。先のブ
ログでも触れたが、これは曽野綾子氏の「不安の概念」という哲
学的命題を追求する視点での話で庶民の実生活や政治家の
政治活動に理解がないための錯覚や幻想に過ぎない。「安心して
暮らせる生活を」というのは戦後政治の中で古くから叫ばれてきた
合言葉だ。民主化運動や様々な政治活動もあって今日のある程
度の安定した社会がもたらされたことは紛れもない事実。例えば
1955年までは農業、自営業者、零細企業従業員等約3000万人が
無保険で、これが社会問題となり政治家や市民運動等の活動で
3年後の1958年に国民健康保険法が制定され1961年に国民健
康保険事業が始まって国民皆保険体制が出来上がった。これな
ども「安心して暮らせる社会の実現」を標榜して運動してきた人々
の成果でもある。また高負担高福祉のデンマークやスウェーデン
等の北欧の国々やカナダに「安心して暮らせる老後」がある以上
「詐欺」などとは言えない。現実にある世界だ。詐欺などと叫ん
でいるのは曽野綾子氏くらいなものだろう。むしろ曽野綾子氏の
主張は別の意味で危険性を孕んでいる。曽野綾子氏は「文化功労
者」でありながら「安心して暮らせる社会」を希求する国民運動
を阻止し、国民を他へ誘導しようとする一部の保守勢力や極右の
先導役を務めることにもなりかねない。「安心して暮らせる生活
や老後」を希求する国民や政治理念を否定するのであれば、潔く
「文化功労者」を返上して一部の政治勢力の旗振り役に専念すれ
ば良い。
そして後段のサブタイトル「水と電気がある稀有のぜいたく」。
言わんとしていることは解らなくもないが、ご自分は何なのです
か。「水は屋外タンクに二百リッターは貯水してあるシステムだっ
た。・・・・・・・水はペットボトルに二百本以上の備蓄がある。」それ
こそ庶民も真似できない「稀有のぜいたく」をしながら国民には
自分が体験したからと言って、アフリカと比較して「稀有のぜい
たく」をしていることが分らないか?何を本末転倒!チンプンカンプン!
何度も言いますが明治以来、追いつけ追い越せと頑張ってきた西
欧となぜ比較しないのですか?アフリカとは文化や歴史があまり
にも違いすぎるでしょう。わが国の先達が血の滲むような努力と
高い納税義務の上に築き上げてきた今日の日本。贅沢を戒めるの
だったら別の言い方があるでしょう。「太平洋戦争で犠牲になっ
た310万人のおかげで今日の平穏と贅沢があることを忘れてはな
るまい」と言われるのだったら納得します。おまけに「水と電気が
ある稀有のぜいたく」の日本を「私は天国だと言い続けてきた。
しかしそのような日本を、格差のひどい社会だと言った政治家や
学者が現にいたのもほんとうだ。」なんという言い草。
なんという比較。「日本は天国だ」と思い、主張することを妨げ
はしないが、自己の主張を既成事実のように錯覚して正当化する
為に「格差社会」という社会問題を持ち出して比較するナンセン
スは曽野氏が病気であることを証明している。しかも「格差のひ
どい社会だと言った政治家や学者が現にいたのもほんとうだ」と
言って格差社会の現実を否定するかのごとき発言は由々しきこ
とだ。
さらに国民には「甘えるな」などと差し出がましいことを言いなが
ら同胞のことにはほとんど関心がない。その証拠がこれだ。「どん
な事故も、一瞬にして万単位の人を消し去ることはできない」
などとなにを寝ぼけたことを仰る。ここは宇佐美氏も指摘してい
るが、広島・長崎の被爆では一瞬にして20万人の同胞が亡くなっ
ているというのに、曽野氏には戦争を体験したと言いながら同胞
のことなど全く念頭にないからエイヤーでこういう間抜けな記述
をする。曽野氏の文章は幼稚で非論理的で、思索や検証の形跡
もない。正に戦後の文壇史に汚点を残す売文家だ。
曽野綾子氏よ。ついでに言わせて頂くと週刊ポストのコラムと
言えども公共性がある以上は、あなたが気ままに書ける日記帳
ではないのですよ。言っている意味が解りますか?
こんな病的な「文化功労者」曽野綾子氏には
二音節、三音節がお似合いのようだ。
なにそれ!
え?・・・ご存じない?
それなら言って進ぜよう!
※曽野綾子氏側は相当神経質になっていて、たいした罵詈雑言
でもないのに削除要請を行ったようだ。これだったらどうだ。
○○! ○○! ○○ケーッ
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