曾野綾子氏の「人間にとって成熟とは何か」の欺瞞!
ついに発見。といっても、ずっと探していたわけではない。
ネットサーフィンしていて偶然に見つけた。そのホームページに
は「現行憲法はGHQの押し付けではなかった」という記録がある
と記述しており、出典を明示しながらの論述は説得力がある。
当該のホームページは「滴水亭」と銘を打っており、管理人は自
らを「改憲論者」と自己紹介はしているものの、プロフィールは
なく出自は不明だ。それだけに、些か訝しく思いながら読み進め
ることになる。ただ文章は平易な表現で、当方にも理解しやすい
ものになっているが、ロジックは学者のそれを彷彿とさせ、読む
者に確信を与える。従って、信頼できるのではないかと判断した次
第。出典元は主に「古関彰一著『新憲法の誕生』中央公論社」と
なっているので、当方は早速、amazonで当該書籍を確認して注文
した。その本を読んでからブログを書いても遅くはないのだが、
なぜだか気が急いてしかたがなかった。
まずは「マッカーサー=吉田往復書簡」の中にあるというマッカー
サーの手紙から紹介しよう。
「親愛なる総理
昨年一年間の日本における政治的発展を考慮に入れ、新憲法の
現実の運用から得た経験に照らして、日本人民がそれに再検討を
加え、審査し、必要と考えるならば改正する、全面的にしてかつ
永続的な自由を保障するために、施行後の初年度と第二年度の間
で、憲法は日本の人民ならびに国会の正式な審査に再度付される
べきであることを、連合国は決定した。もし、日本人民がその時
点で憲法改正を必要と考えるならば、彼らはこの点に関する自ら
の意見を直接に確認するため、国民投票もしくはなんらかの適切
な手段を更に必要とするであろう。換言すれば、将来における日
本人民の自由の擁護者として、連合国は憲法が日本人民の自由に
して熟慮された意思の表明であることに将来疑念が持たれてはな
らないと考えている。
憲法に対する審査の権利はもちろん本来的に与えられているも
のであるが、私はやはり貴下がそのことを熟知されるよう、連合
国のとった立場をお知らせするものである。
新年への心からの祈りをこめて 敬具
ダグラス・マッカーサー」
そして出典元は、袖井林二郎「マッカーサー=吉田往復書簡(一)」
『法学志林』
77巻4号(古関彰一「新憲法の誕生」中央公論社から孫引き)と
ある。
このマッカーサーの総理・吉田茂への手紙を、「滴水亭」の主は
以下のように解説している。
「 マッカーサーは単に『連合国の決定』と書いていますが、これ
は実際にはこの前年1946年10月17日のFECの『憲法の再検討規
定に関する極東委員会決定』のことです。
古関の『新憲法の誕生』によれば、この決定の公表に対しては
GHQのみならずアメリカ本国政府にも根強い反対があったとい
うことです。マッカーサー書簡の文面からは読み取れませんが、
FECの決定だから不承不承通知をしたということかもしれませ
ん。
憲法第14条の『法の下の平等』に関連して刑法から『大逆罪』
や『不敬罪』といった皇室に対する罪が削除されることになった
とき、これにもっとも強く抵抗した吉田茂ですから、マッカーサ
ーのこの書簡は渡りに舟だったはずなのですが、なぜかこの書簡
にはそっけない返事を返しただけでした。」
「親愛なる閣下
一月三日付の書簡たしかに拝受致し、内容を仔細に心に留め
ました。 敬具 吉田 茂」
更に管理人の解説は続く。
「 吉田茂は、2年目の期限間近の1949年4月末の国会答弁でも
『極東委員会の決議は直接には私は存じません。承知しておりま
せんが、政府においては、憲法改正の意思は目下のところ持って
おりません。』と答弁しています。(書簡、国会答弁、ともに、
古関「新憲法の誕生」から)
滴水亭の管理人は、以上の文献を基に「押し付け憲法論」を論破
していく。
「『押しつけ憲法論』は成り立ち難い
『押しつけ憲法論』を構成するいくつかの論点について考えて
みましたが、そもそも『押しつけ憲法だから改正すべきだ』とい
う議論そのものが、ある歴史的な事実を無視したものなのです。
結論を先に書くと、
GHQは日本政府に、施行後2年以内に、新憲法を日本国民が見
直しするよう伝えていたということ、そして、
日本政府も国民も、施行後2年目の1949年5月3日までに、憲法の
改正をしなかった 」
じつを言うと、以上の論説は「押し付け憲法論」を三つの論点に
分けて、それぞれに論考したものの最後の論点の部分を記したが
第1点から抜粋すると下記のようになっている。
「1.帝国憲法からの継続性(現行憲法の合法性)を問題と
する論考
現行憲法はGHQの「正式な命令」を受けて強制的に作らされた
ものではありません。つぎに述べるような事情の当然の結末とし
て、GHQの案を受け入れざるをえなくなり、結局これをベース
とした憲法改正案を作成し、他でもない我が国政府の責任のもと
に、帝国憲法に定められた所定の手続きを踏んで成立させたもの
です。形式上の正当性には何の問題もないと考えるのが妥当でし
ょう。
帝国憲法の枠組みの中で、天皇が裁可して公布する手続きを取
った以上、現行憲法は、形式上は、欽定憲法であって民定憲法で
はありません。(このことは憲法の一番はじめ、「上諭」という
部分に明示されています)
「上諭」は注目されることの少ない部分なので、この機会に書き
写しておきましょう。
『朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに
至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七
十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、こ
こにこれを公布せしめる。』
国民主権を内容にうたう憲法が欽定憲法だというのはなにかお
かしな気がするかもしれませんが、それが歴史とか社会制度の継
続性ということなのかもしれません。
強制的なものではなかったと書くと、きっと多くの異論がでる
でしょう。正式の命令こそなかったが、GHQは自ら案文を作成
してそれをベースに憲法改正を迫ったではないか、それが強制で
なくて何だというのだと。あるいは、いわゆる「松本案」ができ
ていたにも関わらずGHQはそれを一顧だにすることなく自分た
ちが作ったものを押しつけた、「聞く耳持たぬ」というその姿勢
こそ占領者の強制のあらわれではないかと。
しかし、1945年10月から1946年2月に至る間の日本政府とGHQ
とのやり取り、そして、いわゆる「松本案」なるものの中味につ
いて虚心に調べるならば、あまりに愚かな我が国政府関係者とあ
まりに貧弱な憲法改正論議を知って、これならばGHQによる憲
法改正案提示という屈辱の事態の招来は必然だったと判断される
方の方が多いと思います。・・・・・・・・。
A.ドイツの占領がアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4カ国
によって分割管理されたのに対し、日本の占領は連合国の共同管
理という枠組みで行われた。これはドイツ占領が分割管理の故に
ソ連の大幅な介入につながったと考えたアメリカが、当初から主
導権を維持することを念頭にソ連の日本進駐を拒否するかわりに
選択した枠組みだったといわれている。
『名を捨てて実をとる』やり方ではあったが、形式上とはいえこ
の共同管理のためにGHQの上部に置かれた『極東諮問委員会』
が、GHQにとって煙たい存在であったことは間違いない。
そして、この極東諮問委員会は1945年の暮れにモスクワで開催さ
れたアメリカ・イギリス・ソ連3カ国の外相会議により、翌年2
月には、より権能を強化した『極東委員会(FEC)』になる。
当時の政治状況を考える場合には、日本政府・GHQに加えて、
このFECも視野に入れなくてはならない。
B.ポツダム宣言の論理的帰結として憲法改正は不可避であったが、
憲法改正はGHQにとって前項の事情により表だった動きのとり
にくいデリケートな側面を持っていたため正面切った指令は発せ
られなかった。
C.これらの事情は当然のことながら日本政府にはいっさい伝えら
れることはなかった。
また、彼我の情報を分析しこのような事情を推測した上で、我が
国の立場の改善を画策するほどの『人物』は、当時の日本政府高
官にはいなかった。それどころか、GHQから『正式な命令』が
発せられなかったことを安易に解釈し、憲法改正は焦眉の課題で
はないとさえ判断していた。 このことは、政府が憲法改正に関
する検討のためにおいた委員会の名称を『憲法問題調査委員会
(委員長、松本丞治の名をとって松本委員会と呼ばれる)』とし、
なおかつその委員会も閣議了承による設置という『非公式の機関』
としたことにうかがうことができる。
この消極性(GHQ命令がないから現状でよいとする判断)こそ
が、日本人の手による憲法改正案の政府による作成の自主性を摘
みとってしまった。
松本委員会は、憲法学者や政府内の法律専門家というそうそうた
るメンバーを集めながら、『必ずしも憲法改正を目的とするもの
ではなく、調査の目的は、改正の要否および改正の必要があると
すればその諸点を明らかにすることにある(松本委員長談話)』
という程度の認識でスタートし、ついに時代の要請に耐えられな
いお粗末きわまりない改正案しかまとめえぬという醜態を演ずる
ことになる。(この責任の大半は松本丞治という尊大にして無能
な人物にあるといってよい)
注意深く当時の全体像を押さえたいという人には、次の2点を見
落とさぬようにして欲しい。
a.1945年9月に、法制局第一部長入江俊郎が、ポツダム宣言が及ぼ
す憲法改正の要点についてまとめていたこと
b.1945年12月に、松本委員会では少数意見に終始した野村淳治東
大名誉教授が、ポツダム宣言の内容から帝国憲法の問題をかなり
正確にまとめた意見書を提出していたこと
これらは、もしきちんとした評価がなされていたならば、GHQ
案のお世話になることなく日本人の手で憲法改正がなし得た可能
性があったことを示すものとして記憶にとどめるべきことである
と思うからです。
いずれにしても、日本政府は結局のところ、ポツダム宣言の正
確な理解ができずに、自力で憲法改正にたどり着くことはかない
ませんでした。GHQ案の提示はいわば松本委員会の不始末が招
いた結果です。したがって、GHQによる改正案文の作成を非難
するのなら、まず身内のだらしなさを認識してからでなくてはな
らぬということをお忘れなく。
2.GHQの憲法案作成権限の有無を問題とする論考
GHQに憲法案を作成する権限があったのか?
答えは『ノー』です。その権限は、FECにあったのです。
このことは、FEC(極東委員会)の設置を定めた1945年12月
28日に発表された『モスクワ外相会議コミュニケ』の中に明記さ
れています。このコミュニケは、日本管理法令研究会『日本管理
法令研究』1巻7号に収録されていますが、全部で7項からなっ
ており、その2番目に『極東委員会及び連合国日本理事会』とい
う箇所があります。そのなかの『3 合衆国政府の任務』の第3
節にこのような文言が書かれています。
・・・但し日本の憲政機構、若くは管理制度の根本的変更を規定
し、又は全体としての日本政府の変更を規定する指令は、極東委
員会の協議及び合意の達成のあった後に於てのみ発せられるべき
である。
前のノートにも書いたように、2月1日の毎日新聞の政府改正
案スクープの内容を見たマッカーサーが、なりふり構わず短期間
に憲法案の作成を急がせ日本政府に提示したのは、予定される2
月26日のFEC第1回会議までになんとか既成事実を作りたか
ったからです。これこそ、外相間の約束から実体的組織の成立に
至るまでのグレーゾーンの中に逃げ込む、ほとんど唯一の方法で
あったわけです。
GHQの憲法案作成は占領管理のために天皇を利用するという
マッカーサーの構想にしたがってGHQが犯した越権行為だった
のです。
『押しつけ改正論者』の中には、『GHQは天皇を人質に取っ
て憲法改正を迫った、脅迫による行為は無効だ』という主張をす
る人がいますが、この時、GHQがバーターしたものは『天皇』
と『憲法』というセットではなく、『日本が民主憲法を制定する
事実』と『アメリカの日本管理の主導権』というセットだったの
であり、その相手は日本政府ではなくFEC内の天皇糾弾派の国
々だったのです
3.憲法案作成スタッフの能力と期間を問題とする
『押しつけ改正論者』が強調する主張に、GHQ案の作成ス
タッフには憲法学者は一人もいなかった 。しかも作成期間は10
日間であった
『憲法制定過程覚え書』(有斐閣:1979)の中で田中英夫は次の
ように書いています。
『・・・憲法の理論の研究ならば、専門の学者が秀れているのが
当然である。しかし、憲法のドラフティングについては、必ずし
もそうとはいえない。技術性が強く、細部までルールを設けなけ
ればならない分野とは異なり、国の統治の機構の大綱を定める憲
法については、法律学の素養があれば、さまざまの文献を参照し
ながらドラフティングにあたることは、それほど至難事ではない。
むしろ、そこで第一に要請されるのは、一国の今後のあるべき姿
に対する洞察という、ステーツマンシップなのである。』
長々と引用したのは、この節で扱っている問題以外にも関わる
意味を持つと考えたからです。
『GHQ案の作成スタッフに憲法の専門家は一人もいなかった』
ということを云々する人に再度お尋ねしたいことがあります。
『帝国憲法の有力な起草者であった伊藤博文は憲法の専門家だ
ったのでしょうか?』と。
と極めて明快だ。当方も、現在の日本を取り巻く安全保障の環
境は危険水域にあることから、現行憲法はそれに対応できないと
考える一市民として、この「滴水亭」の論考を支持したいと考え
ている。
ここまで書き終えてamazonから本が届いた。古関彰一著『新憲法
の誕生』(中公文庫)は、あとがきまで入れると441ページ。とても
すぐには読破できない。序文の「押し付け」と「自由党憲法調査
会」の文言を蛍光ペンでマーキングしてあるので明らかに中古本
なのだが、比較的にきれいだ。ただ全体の1/4のページの断面が
わずかに汚れているというのか焼けているので、前所有者はその
1/4までは読んだものの、それ以上の読了はなかったものと思わ
れる。いずれ当方も読破して、「滴水亭」の管理人と解釈が違う
ところがあればブログで物申すことになろう。
ついに発見。といっても、ずっと探していたわけではない。
ネットサーフィンしていて偶然に見つけた。そのホームページに
は「現行憲法はGHQの押し付けではなかった」という記録がある
と記述しており、出典を明示しながらの論述は説得力がある。
当該のホームページは「滴水亭」と銘を打っており、管理人は自
らを「改憲論者」と自己紹介はしているものの、プロフィールは
なく出自は不明だ。それだけに、些か訝しく思いながら読み進め
ることになる。ただ文章は平易な表現で、当方にも理解しやすい
ものになっているが、ロジックは学者のそれを彷彿とさせ、読む
者に確信を与える。従って、信頼できるのではないかと判断した次
第。出典元は主に「古関彰一著『新憲法の誕生』中央公論社」と
なっているので、当方は早速、amazonで当該書籍を確認して注文
した。その本を読んでからブログを書いても遅くはないのだが、
なぜだか気が急いてしかたがなかった。
まずは「マッカーサー=吉田往復書簡」の中にあるというマッカー
サーの手紙から紹介しよう。
「親愛なる総理
昨年一年間の日本における政治的発展を考慮に入れ、新憲法の
現実の運用から得た経験に照らして、日本人民がそれに再検討を
加え、審査し、必要と考えるならば改正する、全面的にしてかつ
永続的な自由を保障するために、施行後の初年度と第二年度の間
で、憲法は日本の人民ならびに国会の正式な審査に再度付される
べきであることを、連合国は決定した。もし、日本人民がその時
点で憲法改正を必要と考えるならば、彼らはこの点に関する自ら
の意見を直接に確認するため、国民投票もしくはなんらかの適切
な手段を更に必要とするであろう。換言すれば、将来における日
本人民の自由の擁護者として、連合国は憲法が日本人民の自由に
して熟慮された意思の表明であることに将来疑念が持たれてはな
らないと考えている。
憲法に対する審査の権利はもちろん本来的に与えられているも
のであるが、私はやはり貴下がそのことを熟知されるよう、連合
国のとった立場をお知らせするものである。
新年への心からの祈りをこめて 敬具
ダグラス・マッカーサー」
そして出典元は、袖井林二郎「マッカーサー=吉田往復書簡(一)」
『法学志林』
77巻4号(古関彰一「新憲法の誕生」中央公論社から孫引き)と
ある。
このマッカーサーの総理・吉田茂への手紙を、「滴水亭」の主は
以下のように解説している。
「 マッカーサーは単に『連合国の決定』と書いていますが、これ
は実際にはこの前年1946年10月17日のFECの『憲法の再検討規
定に関する極東委員会決定』のことです。
古関の『新憲法の誕生』によれば、この決定の公表に対しては
GHQのみならずアメリカ本国政府にも根強い反対があったとい
うことです。マッカーサー書簡の文面からは読み取れませんが、
FECの決定だから不承不承通知をしたということかもしれませ
ん。
憲法第14条の『法の下の平等』に関連して刑法から『大逆罪』
や『不敬罪』といった皇室に対する罪が削除されることになった
とき、これにもっとも強く抵抗した吉田茂ですから、マッカーサ
ーのこの書簡は渡りに舟だったはずなのですが、なぜかこの書簡
にはそっけない返事を返しただけでした。」
「親愛なる閣下
一月三日付の書簡たしかに拝受致し、内容を仔細に心に留め
ました。 敬具 吉田 茂」
更に管理人の解説は続く。
「 吉田茂は、2年目の期限間近の1949年4月末の国会答弁でも
『極東委員会の決議は直接には私は存じません。承知しておりま
せんが、政府においては、憲法改正の意思は目下のところ持って
おりません。』と答弁しています。(書簡、国会答弁、ともに、
古関「新憲法の誕生」から)
滴水亭の管理人は、以上の文献を基に「押し付け憲法論」を論破
していく。
「『押しつけ憲法論』は成り立ち難い
『押しつけ憲法論』を構成するいくつかの論点について考えて
みましたが、そもそも『押しつけ憲法だから改正すべきだ』とい
う議論そのものが、ある歴史的な事実を無視したものなのです。
結論を先に書くと、
GHQは日本政府に、施行後2年以内に、新憲法を日本国民が見
直しするよう伝えていたということ、そして、
日本政府も国民も、施行後2年目の1949年5月3日までに、憲法の
改正をしなかった 」
じつを言うと、以上の論説は「押し付け憲法論」を三つの論点に
分けて、それぞれに論考したものの最後の論点の部分を記したが
第1点から抜粋すると下記のようになっている。
「1.帝国憲法からの継続性(現行憲法の合法性)を問題と
する論考
現行憲法はGHQの「正式な命令」を受けて強制的に作らされた
ものではありません。つぎに述べるような事情の当然の結末とし
て、GHQの案を受け入れざるをえなくなり、結局これをベース
とした憲法改正案を作成し、他でもない我が国政府の責任のもと
に、帝国憲法に定められた所定の手続きを踏んで成立させたもの
です。形式上の正当性には何の問題もないと考えるのが妥当でし
ょう。
帝国憲法の枠組みの中で、天皇が裁可して公布する手続きを取
った以上、現行憲法は、形式上は、欽定憲法であって民定憲法で
はありません。(このことは憲法の一番はじめ、「上諭」という
部分に明示されています)
「上諭」は注目されることの少ない部分なので、この機会に書き
写しておきましょう。
『朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに
至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七
十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、こ
こにこれを公布せしめる。』
国民主権を内容にうたう憲法が欽定憲法だというのはなにかお
かしな気がするかもしれませんが、それが歴史とか社会制度の継
続性ということなのかもしれません。
強制的なものではなかったと書くと、きっと多くの異論がでる
でしょう。正式の命令こそなかったが、GHQは自ら案文を作成
してそれをベースに憲法改正を迫ったではないか、それが強制で
なくて何だというのだと。あるいは、いわゆる「松本案」ができ
ていたにも関わらずGHQはそれを一顧だにすることなく自分た
ちが作ったものを押しつけた、「聞く耳持たぬ」というその姿勢
こそ占領者の強制のあらわれではないかと。
しかし、1945年10月から1946年2月に至る間の日本政府とGHQ
とのやり取り、そして、いわゆる「松本案」なるものの中味につ
いて虚心に調べるならば、あまりに愚かな我が国政府関係者とあ
まりに貧弱な憲法改正論議を知って、これならばGHQによる憲
法改正案提示という屈辱の事態の招来は必然だったと判断される
方の方が多いと思います。・・・・・・・・。
A.ドイツの占領がアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4カ国
によって分割管理されたのに対し、日本の占領は連合国の共同管
理という枠組みで行われた。これはドイツ占領が分割管理の故に
ソ連の大幅な介入につながったと考えたアメリカが、当初から主
導権を維持することを念頭にソ連の日本進駐を拒否するかわりに
選択した枠組みだったといわれている。
『名を捨てて実をとる』やり方ではあったが、形式上とはいえこ
の共同管理のためにGHQの上部に置かれた『極東諮問委員会』
が、GHQにとって煙たい存在であったことは間違いない。
そして、この極東諮問委員会は1945年の暮れにモスクワで開催さ
れたアメリカ・イギリス・ソ連3カ国の外相会議により、翌年2
月には、より権能を強化した『極東委員会(FEC)』になる。
当時の政治状況を考える場合には、日本政府・GHQに加えて、
このFECも視野に入れなくてはならない。
B.ポツダム宣言の論理的帰結として憲法改正は不可避であったが、
憲法改正はGHQにとって前項の事情により表だった動きのとり
にくいデリケートな側面を持っていたため正面切った指令は発せ
られなかった。
C.これらの事情は当然のことながら日本政府にはいっさい伝えら
れることはなかった。
また、彼我の情報を分析しこのような事情を推測した上で、我が
国の立場の改善を画策するほどの『人物』は、当時の日本政府高
官にはいなかった。それどころか、GHQから『正式な命令』が
発せられなかったことを安易に解釈し、憲法改正は焦眉の課題で
はないとさえ判断していた。 このことは、政府が憲法改正に関
する検討のためにおいた委員会の名称を『憲法問題調査委員会
(委員長、松本丞治の名をとって松本委員会と呼ばれる)』とし、
なおかつその委員会も閣議了承による設置という『非公式の機関』
としたことにうかがうことができる。
この消極性(GHQ命令がないから現状でよいとする判断)こそ
が、日本人の手による憲法改正案の政府による作成の自主性を摘
みとってしまった。
松本委員会は、憲法学者や政府内の法律専門家というそうそうた
るメンバーを集めながら、『必ずしも憲法改正を目的とするもの
ではなく、調査の目的は、改正の要否および改正の必要があると
すればその諸点を明らかにすることにある(松本委員長談話)』
という程度の認識でスタートし、ついに時代の要請に耐えられな
いお粗末きわまりない改正案しかまとめえぬという醜態を演ずる
ことになる。(この責任の大半は松本丞治という尊大にして無能
な人物にあるといってよい)
注意深く当時の全体像を押さえたいという人には、次の2点を見
落とさぬようにして欲しい。
a.1945年9月に、法制局第一部長入江俊郎が、ポツダム宣言が及ぼ
す憲法改正の要点についてまとめていたこと
b.1945年12月に、松本委員会では少数意見に終始した野村淳治東
大名誉教授が、ポツダム宣言の内容から帝国憲法の問題をかなり
正確にまとめた意見書を提出していたこと
これらは、もしきちんとした評価がなされていたならば、GHQ
案のお世話になることなく日本人の手で憲法改正がなし得た可能
性があったことを示すものとして記憶にとどめるべきことである
と思うからです。
いずれにしても、日本政府は結局のところ、ポツダム宣言の正
確な理解ができずに、自力で憲法改正にたどり着くことはかない
ませんでした。GHQ案の提示はいわば松本委員会の不始末が招
いた結果です。したがって、GHQによる改正案文の作成を非難
するのなら、まず身内のだらしなさを認識してからでなくてはな
らぬということをお忘れなく。
2.GHQの憲法案作成権限の有無を問題とする論考
GHQに憲法案を作成する権限があったのか?
答えは『ノー』です。その権限は、FECにあったのです。
このことは、FEC(極東委員会)の設置を定めた1945年12月
28日に発表された『モスクワ外相会議コミュニケ』の中に明記さ
れています。このコミュニケは、日本管理法令研究会『日本管理
法令研究』1巻7号に収録されていますが、全部で7項からなっ
ており、その2番目に『極東委員会及び連合国日本理事会』とい
う箇所があります。そのなかの『3 合衆国政府の任務』の第3
節にこのような文言が書かれています。
・・・但し日本の憲政機構、若くは管理制度の根本的変更を規定
し、又は全体としての日本政府の変更を規定する指令は、極東委
員会の協議及び合意の達成のあった後に於てのみ発せられるべき
である。
前のノートにも書いたように、2月1日の毎日新聞の政府改正
案スクープの内容を見たマッカーサーが、なりふり構わず短期間
に憲法案の作成を急がせ日本政府に提示したのは、予定される2
月26日のFEC第1回会議までになんとか既成事実を作りたか
ったからです。これこそ、外相間の約束から実体的組織の成立に
至るまでのグレーゾーンの中に逃げ込む、ほとんど唯一の方法で
あったわけです。
GHQの憲法案作成は占領管理のために天皇を利用するという
マッカーサーの構想にしたがってGHQが犯した越権行為だった
のです。
『押しつけ改正論者』の中には、『GHQは天皇を人質に取っ
て憲法改正を迫った、脅迫による行為は無効だ』という主張をす
る人がいますが、この時、GHQがバーターしたものは『天皇』
と『憲法』というセットではなく、『日本が民主憲法を制定する
事実』と『アメリカの日本管理の主導権』というセットだったの
であり、その相手は日本政府ではなくFEC内の天皇糾弾派の国
々だったのです
3.憲法案作成スタッフの能力と期間を問題とする
『押しつけ改正論者』が強調する主張に、GHQ案の作成ス
タッフには憲法学者は一人もいなかった 。しかも作成期間は10
日間であった
『憲法制定過程覚え書』(有斐閣:1979)の中で田中英夫は次の
ように書いています。
『・・・憲法の理論の研究ならば、専門の学者が秀れているのが
当然である。しかし、憲法のドラフティングについては、必ずし
もそうとはいえない。技術性が強く、細部までルールを設けなけ
ればならない分野とは異なり、国の統治の機構の大綱を定める憲
法については、法律学の素養があれば、さまざまの文献を参照し
ながらドラフティングにあたることは、それほど至難事ではない。
むしろ、そこで第一に要請されるのは、一国の今後のあるべき姿
に対する洞察という、ステーツマンシップなのである。』
長々と引用したのは、この節で扱っている問題以外にも関わる
意味を持つと考えたからです。
『GHQ案の作成スタッフに憲法の専門家は一人もいなかった』
ということを云々する人に再度お尋ねしたいことがあります。
『帝国憲法の有力な起草者であった伊藤博文は憲法の専門家だ
ったのでしょうか?』と。
と極めて明快だ。当方も、現在の日本を取り巻く安全保障の環
境は危険水域にあることから、現行憲法はそれに対応できないと
考える一市民として、この「滴水亭」の論考を支持したいと考え
ている。
ここまで書き終えてamazonから本が届いた。古関彰一著『新憲法
の誕生』(中公文庫)は、あとがきまで入れると441ページ。とても
すぐには読破できない。序文の「押し付け」と「自由党憲法調査
会」の文言を蛍光ペンでマーキングしてあるので明らかに中古本
なのだが、比較的にきれいだ。ただ全体の1/4のページの断面が
わずかに汚れているというのか焼けているので、前所有者はその
1/4までは読んだものの、それ以上の読了はなかったものと思わ
れる。いずれ当方も読破して、「滴水亭」の管理人と解釈が違う
ところがあればブログで物申すことになろう。