非才無才の雄叫び

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「太平洋戦争の大嘘」という荒唐無稽28

2020-11-08 15:15:19 | 日記
先のブログでは、余談を書いて
申し訳ございませんでした

さて、本題へ戻ります。
「アメリカを侵略する共産主義の脅威」
ここで藤井氏と読者の皆さんに謝罪しなければならないことが
あります。
フーヴァーの本の引用
(ルーズベルトの失策は)共産ロシアを1933年11月に承認した
ことである
。」

以前のブログで、ソ連が政権を樹立して10年以上経過しているのに
「承認する」必要があるのか、また藤井氏の創作だろうと一蹴した
が、承認の年月が書いてあるので、ネットを調べると1933年の年表
の11月17日に他の項目の下に「米国、ソ連を承認」とあった。
え、あった。承認したんだ。
それでも腑に落ちない小生は、キーワード「ルーズベルト」を
もう一度検索したが、ルーズベルトか米国政府が「ソ連を承認し
た」という記事を見つけることはできなかった。
さらにアメリカ合衆国の歴史(1918年から1945年)」も検索したが
「ソ連を承認」という文言は見当たらない。なぜか・・・・。
しかし「ソ連」で検索すると、その歴史の項の「戦間期の外交」に
「承認」ではないが、「国交樹立」という記述があった。
外交面では、コミンテルンは当初社会ファシズム論を唱え、
社会民主主義勢力への批判を強めていたが、ファシズムやナチズム
についてはむしろ容認していた。しかし、ヒトラー内閣成立後、
1933年11月にアメリカと国交を樹立。1934年9月には国際連盟に
加盟し、常任理事国となった

「国交樹立」で「承認」ではない。そうすると小生は「承認する」
という文言の概念を理解していなかったということになる。
それで改めて「承認」をネットで調べてみた。

国家の承認とは、ある国家の政府が、
新たに成立した別の国を正式に主権のある国家であると認めること
を指す
」その通りで小生の認識に間違いはない。
そして「国交樹立」とは
国交は、互いの国が相手国を主権国家と認める国家の承認を前提
として行われ、 大使(特命全権大使)を長とする外交使節団の交換
を伴うのが通常である。外交使節団は相手国に大使館を設置し、
外交活動や自国民の保護などの業務を行う。
」とある。

ウィキ「ソヴィエト連邦の外交関係」
二国間関係
第二次世界大戦以前1933年、民主党のフランクリン・ルーズヴ
ェルトがアメリカ合衆国大統領に就任すると、共和党などの反対
を押し切って同年11月にソ連承認を実施した


なおさら謎が深まった。
ルーズベルトやアメリカの歴史に関するウィキペディアの記事に、
そのことがなぜ記載されていないのか。なぜ、「ソ連を承認」や
「ソ連と国交樹立」の文言がないのだろうか。試行錯誤して、
1930年、米ロで検索したら、冒頭に「米ロ関係ーコトバンク」
を発見、読んでみた。

コトバンクの米ロ関係日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 ロシア革命後初期の米ソ関係について見落とすべきでないのは、
両国政府関係についてはともかく、アメリカの多くの知識人、青
年、技術者、労働者が革命に共鳴して、初期社会主義建設に物心
両面で協力した事実である(ロシア革命に関する古典的名著『世
界を震撼(しんかん)させた十日間』のジョン・リード、後の全米
自動車労組(UAW)会長ウォルター・ルーサー、天才的舞踏家
イサドラ・ダンカンなどはそのうちの著名人の一部にすぎない)。
しかし、第一次世界大戦後1920年代に最大の債権国としてアメリ
カが空前の繁栄を祝福していた間は、米ソ関係を打開する条件は
熟さず、主要な資本主義諸国がソ連を承認したあとも、アメリカ
だけはソ連不承認の原則をとり続けた。しかし1929年秋に始まる
大恐慌の深まるなかで、アメリカでも初めてソ連市場に過剰生産
のはけ口を求める世論が高まり、とりわけソ連の第一次・第二次
五か年計画の成功とその恐慌免疫性が、アメリカにソ連不承認政
策を改めさせる気運をつくった。
1932年11月フランクリ
ン・D・ルーズベルトは大統領選挙戦に勝利すると、大統領に就任
する以前に早くもソ連リトビノフ外務人民委員(外相)を招き、
関係打開の交渉を開始した。こうして1933年11月、ルーズベルト
政権は、(1)アメリカ国内でコミンテルン活動を行わないこと、
(2)旧債務を履行すること、などをソ連側に承認させたうえで国交
関係樹立に踏み切った
」とある。

ここでは「国交関係樹立」と言っても、「承認」の行為以上の
ものではなかったと考えるべきだろう。

つまりこういうことだ。
1780年以来、アメリカ合衆国はロシアに外交使節団を派遣して
きた。
ロシアが革命により倒壊し、ソヴィエト連邦が成立してから
は、旧在ロシア大使は在ソヴィエト連邦大使となり・・・
。」
帝政ロシアの時代から国交があった為、改めて大使館設置や
外交団の交換という「国交樹立」の作業の必要はなく、
従って「承認」も特筆すべきことではなかったのではないか。
だから「ルーズベルト」のキーワードで取り上げなかったと
いうことだろう。

大騒ぎして申し訳なかったが、要は小生が探せなかっただけです。
それでもルーズベルト等のキーワードにないという謎は残ったま
まで、釈然としないが、先へ進みます。

次の記述「4人の大統領と5人の国務長官は、共和党か
民主党かを問わずに、そのような承認行為を、(国際共産主義運動の
目的と手法の全体を知ったうえで)ずっと拒否してきた


まず「4人の大統領」にはフーヴァー自身も入っているのだろうが
彼の任期1年目にアメリカ共産党は党勢を拡大している。それは
どう釈明するのか?

1929年に大恐慌が米国を襲い、労働運動や社会改革運動が再び
台頭の兆しをみせるなかで、共産党は学生運動や労働運動、公民
権運動などに着手し、大衆運動に影響力を拡大しはじめる


拒否したにも関わらず、共産党の影響力が拡大していったのは
自分の責任ではないとフーヴァーは思っていたのか。ルーズベルト
を一方的に批判する、ずいぶんと手前勝手な人物である。
それと(国際共産主義運動の目的と手法の全体を知ったうえで)の
注釈は藤井氏の創作だろう。

コトバンクの記述のように、ロシア革命は皇帝を打倒したフランス
革命以上の幻想を世界の知識人たちに与えたのではないか。
アメリカの多くの知識人、青年、技術者、労働者が革命に共鳴
して、初期社会主義建設に物心両面で協力した事実である(ロシ
ア革命に関する古典的名著『世界を震撼(しんかん)させた十日間』
のジョン・リード、後の全米自動車労組(UAW)会長ウォルター
・ルーサー、天才的舞踏家イサドラ・ダンカンなど
」と諸手を挙げ
て共産主義に賛同したのだろう。

政府の高いレベルに入り込み、第五列の活動が全国にひろがり、
フランクリン・ルーズベルトが大統領であった12年間に亘って
国家反逆者の行為が長く続くことになった


第五列とはスパイや対敵協力者のことを言うらしい。

アメリカのソ連関連のスパイを告発した公文書
ベノナないしベノナ・プロジェクトは、1943年から1980年
まで37年間の長期にわたって、アメリカ合衆国陸軍情報部と
イギリスの情報機関が協力して行ったソ連と米国内に多数存在
したソ連スパイとの間で有線電信により交信された多数の暗号
電文を解読する極秘プロジェクトの名称である・・・ベノナ文書、
もしくはベノナファイル


後年解読された暗号電文を元に様々な研究が行われた結果、
1930年代から第二次大戦後の1940年代末までに米国国内の政府機
関、諜報機関、軍関係、民間組織などに数百人単位のソ連のスパ
イ、スパイグループ及びスパイネットワークが存在し、当時の米
国政府の政策や意思決定をソ連有利に歪め、世論などがこれらの
様々な工作活動によって多大な影響を受けていた可能性があること
が明らかになった


というわけで当時のアメリカはソ連のスパイ天国だったようだ。
藤井氏は、そのソ連のスパイに誘導されて作成された「ハル・ノー
ト」によって、日本は追い詰められて真珠湾攻撃をせざるをえな
かった。日本を追い詰めたのはルーズベルト大統領だ、と言って
いる。この論理は、他の右派論客も使っているが、明らかに論理
矛盾だ。
日本の陸軍参謀・石原莞爾の主張と同内容だったと言われる「ハル
・ノート」は満州国を除いた中国大陸から日本軍を撤退させるよう
要求したものだったと言われているが、日本軍が中国大陸から撤退
すると安定するのは蒋介石率いる中華民国で、それがルーズベルト
の狙いだった。もし、「ハル・ノート」がソ連の影響を受けていた
としたら南下したいソ連の戦略と明らかに矛盾する。毛沢東率いる
中共軍はより困難な状況に陥っただろうし、場合によっては中華人
民共和国そのものも誕生していなかったかもしれない。
またソ連が割譲を要求していた北海道も、アメリカ政権内部でソ連
のスパイの影響力が大きかったら、ソ連の要求通りになって、今頃
は北海道の半分はソ連領になっていただろう。

藤井君
「ソ連を承認」の一件は
悪かったな
しかし
そもそも脚注も付けない
歴史書など
所詮、荒唐無稽の類なのだよ
分かったか

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