今年7月1日に安倍内閣は集団的自衛権に関して閣議
決定を行った。
これに対し集団的自衛権反対論者たち・大江健三郎氏や倉本
聰氏らは「戦争をさせない1000人委員会」という団体を結成して
首相官邸前の広場で約2000人の「集団的自衛権閣議決定反対」
集会を開いたようだが、彼らの論調は「集団的自衛権」を容認
すれば日本は「地球の裏側まで行って戦争をする」国になると
言って、集団的自衛権の閣議決定に反対したようだが、日本は
果たして「地球の裏まで行って戦争する国になる」のだろうか。
そもそも集団的自衛権容認論というのは、日本は米国からは
守ってもらうが、米国が攻撃された時は日本は米国を守ることが
できないのは片手落ちだ、虫が良すぎるという論調が昔からあっ
た。それを米国を守れるように閣議決定したのが安倍内閣だ。
ただ、安倍内閣の「閣議決定」という手法が良かったのかどう
かについては当方は正直、判断できないし、法整備によって歯
止めを掛けるといっても、その信憑性には疑問符が付く。しか
し抑止力が一段と増すことは確かだろう。
これを座視できないというのが大江健三郎氏ら平和主義者
たちだ。もちろん日米安保条約も不要というのが彼らの持論で
あろう。そう主張してやまない大江氏ら「戦争させない1000人
委員会」をはじめとした平和主義者に、ぜひ読んで貰いたいのが
「中国六場戦争計画」だ。
読んだ上で集団的自衛権等について論じていただきたいものだ。
ただ大江氏のことをウィキペディアで読むと、氏は「尖閣諸島
や竹島は日本が侵略したものだ」と主張しているようだ。
大江氏の主張が正しければ中国や韓国の主張通りになるが
果たしてそうなのだろうか?
当方は市井のブロガーに過ぎないので、調査能力はネットのみ
というレベルだが、この乏しい調査能力で「世界の知性」大江
健三郎氏に反論するなど身の程知らずというか、笑止千万の極
みに違いないが、「やむにやまれぬ大和魂」を抑えることはで
きない。
「尖閣諸島や竹島は日本が侵略したものだ」という大江氏の主張
は本当なのだろうか。大江氏はノーベル文学賞受賞者だから、す
べからく調査した上で結論を出されたものと思うが、それでも
当方は近代日本の基礎を築いた明治維新の先人たちの記録を信
じたい。
ウィキペディアの「尖閣諸島」を見ると
「日本政府は「尖閣諸島の領有状況を1885年から1895年まで調査
し、世界情勢を考慮したうえで隣国の清国など、いずれの国にも
属していないことを慎重に確認したうえで閣議で決定し沖縄県に
編入した。」としている。日本政府は1895年1月14日に尖閣諸島の
編入を閣議決定した。この編入は日清戦争【1894年(明治27年)
7月(光緒20年)~1895年(明治28年)3月(光緒21年2月)】の最
中であった。日本政府の公式見解は尖閣諸島の編入手続きは国際
法で言う先占の法理手順を満たしており「この領域に領有権問題
は存在しない」というものであるが、中国政府や台湾政府は、
1971年以降から領有権を主張して「領有権問題が存在する」と主
張している」
竹島についても
「竹島は江戸時代には既に日本人に利用されており(当時の呼称
は「松島」)、無主地の竹島は1905年(明治38年)1月の閣議決
定で島根県隠岐島司の所管となっている」
当方は、ウィキペディアのこの記述の中の「尖閣諸島の領有状況
を1885年から1895年まで調査し、世界情勢を考慮したうえで隣国
の清国など、いずれの国にも属していないことを慎重に確認した
うえで閣議で決定し沖縄県に編入した。」
「無主地の竹島は1905年(明治38年)1月の閣議決定で島根県隠
岐島司の所管となっている」という部分に注目した。つまり「侵略」
する者が「1885年から1895年」と10年の歳月をかけてまで、あの
小さな諸島を「侵略」するなどというのは、どう考えてもおかし
い?という素朴な疑問だ。「侵略する者」が、なぜ「無主地」で
あることを調査し確認した上で、閣議決定までしなければならな
かったか。
しかし、大江氏は日本が「尖閣を侵略したもの」だと言明され
るのは1609年(慶長14年)江戸幕府創設間もない時に島津藩が琉球
に侵攻したことを指しているのか、あるいはその270年後の1879
年に鹿児島県管轄領地だった琉球王国が明治政府に従わなかっ
たために処分官をはじめ随員・警官・兵、約600人を派遣して
「琉球藩」を廃止して沖縄県を設置した「琉球処分」を指してい
るのか?大江氏は明治政府の「琉球処分」を指しておられると思
われるが、廃藩置県の際、島津藩管轄下の「琉球国」も領土の一
部と認識して、その後の施策を講じたものと思われる。これを
当時の国際情勢から「侵略」と定義することはできないだろう。
以下琉球王国に関するウィキペディアの一部を転記した。
「薩摩による琉球侵攻[編集]
1609年(琉球暦万暦37年・和暦慶長14年)、薩摩藩の島津氏は
3000名の兵を率いて3月4日に薩摩を出発し、3月8日には当時琉
球王国の領土だった奄美大島に進軍。3月26日には沖縄本島に
上陸し、4月1日には首里城にまで進軍した。島津軍に対して、
琉球軍は島津軍より多い4000名の兵士を集めて対抗したが敗れ
た。4月5日には尚寧王が和睦を申し入れて首里城は開城した。
これ以降、琉球王国は薩摩藩の付庸国となり、薩摩藩への貢納
を義務付けられ、江戸上りで江戸幕府に使節を派遣した。その
後、明を滅ぼした清にも朝貢を続け、薩摩藩と清への両属とい
う体制をとりながらも、琉球王国は独立国家の体裁を保ち、独
自の文化を維持した。琉球王国が支配していた奄美群島は、薩
摩藩直轄地となり分離されたが、表面上は琉球王国の領土とさ
れ、中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王
府の役人が派遣されていた。
琉球処分[編集]
1871年、明治政府は廃藩置県によって琉球王国の領土を鹿児島
県の管轄としたが、1872年には琉球藩を設置し、琉球国王尚泰
を琉球藩王に「陞爵」して華族とした。明治政府は、廃藩置県
に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩
王自ら上京することなどを再三迫ったが、琉球が従わなかった
ため、1879年3月、処分官松田道之が随員・警官・兵あわせて
約600人を従えて来琉、武力的威圧のもとで、3月27日に首里城
で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じ、4月4日に琉球藩の
廃止および沖縄県の設置がなされ[7]、沖縄県令として鍋島直
彬が赴任するに至り、王統の支配は終わった(琉球処分)。琉
球の王族は、日本の華族とされた。しかし琉球士族の一部はこ
れに抗して清国に救援を求め、清国も日本政府の一方的な処分
に抗議するなど問題は尾を引いた。外交交渉の過程で、清国へ
の先島分島問題が提案され、調印の段階まできたが、最終段階
で清国が調印を拒否して分島問題は流産、琉球に対する日本の
領有権が確定した。」
話は横道に逸れたが、当方は10年かけて無主地であることを確
認したことに重大なキーワードが隠されていると思った。
そのキーワードとは即ち当時の国際法である「万国公法」だ。
それは明治政府が尖閣諸島を調査する1885年よりさらに10年以上
前の1874年、現在の日本の生活保護法の原型「恤救規則」がすでに
制定されていたことを以前、当ブログで書いたことがある。これ
は明治政府樹立7年目にして、細部に至るまで一定の近代化を成
し遂げていたことを物語っている。この近代化のバックボーンが
当時の国際法である「万国公法」だと当方は考えている。
テレビドラマ「龍馬伝」の中にも出てきた「万国公法」は幕末から
明治にかけて急速に伝播したとある。明治政府は西欧列強に侵
略されず、また列強に肩を並べるためにも「万国公法」が定める
国際基準を遵守し、国政の内外で、なんとしても「万国公法」に
よる体裁を整えることに懸命だったのではないかと思う。
だからこそ尖閣諸島を10年かけて調査し、「無主地」であること
を確認した上で「閣議決定」という面倒くさい手続きで体裁を
整えたのではないかというのが当方の見解だ。
次ぎに万国公法に関するウィキペディアの記事を一部転記する。
「幕末・明治史における『万国公法』と国際法[編集]
『万国公法』の伝播という事件は、西欧法思想に留まるものでは
なく、以下に見るように幕末・明治初期に大きな影響を与えてい
る。
幕末[編集]
日本最初の翻刻である開成所版『万国公法』は、西周が訓点を
施したものである。その西周はオランダに留学して国際法を学
び、1865年に帰国している。こののち幕府開成所教授の職に就い
ていたが、1867年に改革案として「議題草案」・「別紙 議題草案」
を提出した。この後者において「万国公法」という字句が登場し
ている[20]。これら改革案は徳川家中心の政体案であり、且つ三
権分立を取り入れたもので、大政奉還後の展望を示したものであ
る。ただ翌月には王政復古の大号令が発せられ、草案が日の目を
見ることはついになかった。
また薩長が攘夷論から開国論へと対外政策を転換する契機ともな
った。『万国公法』は、国際社会が遵守すべき法規として受け取
られ、また理念として世界中の国家が平等である権利(「万国並
立の権」・「諸国平行の権」)を有することを説いていた。この
ような万国公法の内容が広く知られるようになったことは、薩摩
・長州ら維新政府側が、江戸幕府が締結した不平等条約を継承す
ることへの弁明や攘夷論者の説得(=開国論の正当化)に根拠を
与えた(吉野1927、尾佐竹1932、山室2001)。
明治新政府の布告への影響[編集]
『万国公法』は、また一方で維新政府の国家体制設計に際し、大
いに参照されている。
五箇条の御誓文
まず明治政府の基本方針として示された五箇条の御誓文に、
『万国公法』の影響が認められる。五箇条の一つ「旧来の陋習を
破り天地の公道に基くべし」、及びその原案「旧来の陋習を破
り宇内の通義に従ふへし」に使われていることば「天地ノ公道」
・「宇内の通義」は「万国公法」(国際法)の意味だとされる[21]。
また1868年にだされた政体書は、日本の国家体制を規定しようと
した、いわば維新政府の青写真・計画書であるが、その構想とは
太政官をトップに、議政官(立法)・行政官(行政)・刑法官(
司法)を配置するもので、三権分立思想を取り入れている。この
政体書第11条を書くに当たって参照されたのが『万国公法』第一
巻第二章第二四節及び第二五節で、そこではアメリカ合衆国憲法
やスイスの国会権限について部分的に訳され、紹介されている。
政体書第11条は、アメリカを例にして連邦政府による連邦内の小
政府の権限制約について解説した箇所であるが、これを政体書に
取り入れることで中央集権の法理導入の根拠としようとしたもの
である[22]。というのも当時の江戸幕府倒壊直後の日本は諸藩割
拠状態であって、諸藩をどのようにまとめ上げて統一国家とする
かという点において、国家スタイルとして連邦制が妥当と考えら
れた。この時点では連邦型国家の中でも、ドイツ連邦のような分
権型国家か、あるいはアメリカのようなより中央集権を強めた国
家とするかという二つの選択肢が考えられていた。政体書起草者
たちは同じ連邦国家でもより中央集権的なアメリカ型を選択し、
その際『万国公法』を参照したのである。結果的にはその後の紆
余曲折を経て廃藩置県により連邦国家アメリカ以上の中央集権国
家となったが、政体書作成当初はそこまでの展望は開けていなか
った。そういう時に『万国公法』は国家体制のプランを練る上で
指針とされたのである(井上1994)。
さらに民衆向けに掲げられた五榜の掲示(第4札)にも「万国の
公法」という字句が登場し、外交は朝廷が担い、条約を遵守する
ので、庶民は外国人に不法なことをしないようにと命じている。」
以上が「万国公法」に関するウィキペディアの記事の一部だ。
大江氏は、この「万国公法」に対する明治政府の信奉とも言
うべき理念があったことを見落としてはいないだろうか。見落
としてしまったために、明治政府は最初から他国を侵略する野
蛮な国として認識してしまい、「尖閣、竹島を侵略した」と大
江氏は考えたのではないか。列強に肩を並べる為に国家の近
代化を急いだ明治政府には「万国公法」を基礎とした制度設計
の理想に燃えていた先人たちばかりであったろうと思う。従っ
て「万国公法」を遵守しようと懸命だった明治政府が樹立の当
初から侵略的野望を持っていたとは考えにくい。
例えば明治政府の朝鮮半島との接触の仕方は、穏便で儀礼的で
あったと思われる。以下が朝鮮半島との関係を記したウィキペ
ディアの記事だ。
「明治新政府が成立した日本は1868年(慶応4年)12月19日、新
政権樹立の通告と条約に基礎づけられた近代的な国際関係の樹
立を求める国書を持つ使者を、かねてから日本と国交のあった
李氏朝鮮政府に送った。しかし大院君のもとで攘夷を掲げる朝
鮮政府は、西洋化を進める明治政府を訝しみ、冊封体制下では
中国の皇帝にのみ許される称号である「皇」、中国皇帝の詔勅
を意味する「勅」の文字が入っていることなどを理由に国書の
受け取りを拒否した。日本はその後何度も国書を送ったが、朝
鮮側はその都度受け取りを拒否した」とあり、ここから
アメリカが徳川幕府に対して行なった「砲艦外交」に転じていく。
それでも領土領地、国境に関しては「万国公法」を遵守してい
たものと思われる。これが列強の国際的な「常識」だったからだ。
それにもう一つ触れておきたいことがある。
日露戦争で「広瀬中佐」の物語はあまりにも有名だが、ロシア
駐在武官として赴任していた広瀬は、ロシア社会でも非常に好
意的に扱われ、アリアズナというロシア貴族の娘と恋人仲だっ
たことは周知の事実だ。なぜロシアで、これほどの好意を得た
か?
明治政府が最初から侵略をする野蛮な国だったら、広瀬といえ
どもロシア社会は、それほど好意的ではなかっただろう。「万
国公法」を遵守して、瞬く間に一定の近代化を成し遂げた紳士
の国と受け止められていたに違いないのだ。日露戦争で戦死し
た広瀬の遺体を海上から引き上げ埋葬したのは、アリアズナの
兄たちロシア兵だったという。樹立間もない明治政府が当初か
ら侵略する野蛮な国だったら、こんな扱いはしなかっただろう。
大江氏は変質していった後の明治政府の朝鮮半島での行状を
見て、「侵略した」と判断しておられるのではないか。
大江健三郎氏をはじめとした「戦争させない1000人委員会」の
方々、如何であろうか?
従って「万国公法」を遵守することに懸命だった日本は
「尖閣諸島や竹島を侵略」してはいないのだと、当方は考え
ている。
大江氏には是非、反論を伺いたい。
決定を行った。
これに対し集団的自衛権反対論者たち・大江健三郎氏や倉本
聰氏らは「戦争をさせない1000人委員会」という団体を結成して
首相官邸前の広場で約2000人の「集団的自衛権閣議決定反対」
集会を開いたようだが、彼らの論調は「集団的自衛権」を容認
すれば日本は「地球の裏側まで行って戦争をする」国になると
言って、集団的自衛権の閣議決定に反対したようだが、日本は
果たして「地球の裏まで行って戦争する国になる」のだろうか。
そもそも集団的自衛権容認論というのは、日本は米国からは
守ってもらうが、米国が攻撃された時は日本は米国を守ることが
できないのは片手落ちだ、虫が良すぎるという論調が昔からあっ
た。それを米国を守れるように閣議決定したのが安倍内閣だ。
ただ、安倍内閣の「閣議決定」という手法が良かったのかどう
かについては当方は正直、判断できないし、法整備によって歯
止めを掛けるといっても、その信憑性には疑問符が付く。しか
し抑止力が一段と増すことは確かだろう。
これを座視できないというのが大江健三郎氏ら平和主義者
たちだ。もちろん日米安保条約も不要というのが彼らの持論で
あろう。そう主張してやまない大江氏ら「戦争させない1000人
委員会」をはじめとした平和主義者に、ぜひ読んで貰いたいのが
「中国六場戦争計画」だ。
読んだ上で集団的自衛権等について論じていただきたいものだ。
ただ大江氏のことをウィキペディアで読むと、氏は「尖閣諸島
や竹島は日本が侵略したものだ」と主張しているようだ。
大江氏の主張が正しければ中国や韓国の主張通りになるが
果たしてそうなのだろうか?
当方は市井のブロガーに過ぎないので、調査能力はネットのみ
というレベルだが、この乏しい調査能力で「世界の知性」大江
健三郎氏に反論するなど身の程知らずというか、笑止千万の極
みに違いないが、「やむにやまれぬ大和魂」を抑えることはで
きない。
「尖閣諸島や竹島は日本が侵略したものだ」という大江氏の主張
は本当なのだろうか。大江氏はノーベル文学賞受賞者だから、す
べからく調査した上で結論を出されたものと思うが、それでも
当方は近代日本の基礎を築いた明治維新の先人たちの記録を信
じたい。
ウィキペディアの「尖閣諸島」を見ると
「日本政府は「尖閣諸島の領有状況を1885年から1895年まで調査
し、世界情勢を考慮したうえで隣国の清国など、いずれの国にも
属していないことを慎重に確認したうえで閣議で決定し沖縄県に
編入した。」としている。日本政府は1895年1月14日に尖閣諸島の
編入を閣議決定した。この編入は日清戦争【1894年(明治27年)
7月(光緒20年)~1895年(明治28年)3月(光緒21年2月)】の最
中であった。日本政府の公式見解は尖閣諸島の編入手続きは国際
法で言う先占の法理手順を満たしており「この領域に領有権問題
は存在しない」というものであるが、中国政府や台湾政府は、
1971年以降から領有権を主張して「領有権問題が存在する」と主
張している」
竹島についても
「竹島は江戸時代には既に日本人に利用されており(当時の呼称
は「松島」)、無主地の竹島は1905年(明治38年)1月の閣議決
定で島根県隠岐島司の所管となっている」
当方は、ウィキペディアのこの記述の中の「尖閣諸島の領有状況
を1885年から1895年まで調査し、世界情勢を考慮したうえで隣国
の清国など、いずれの国にも属していないことを慎重に確認した
うえで閣議で決定し沖縄県に編入した。」
「無主地の竹島は1905年(明治38年)1月の閣議決定で島根県隠
岐島司の所管となっている」という部分に注目した。つまり「侵略」
する者が「1885年から1895年」と10年の歳月をかけてまで、あの
小さな諸島を「侵略」するなどというのは、どう考えてもおかし
い?という素朴な疑問だ。「侵略する者」が、なぜ「無主地」で
あることを調査し確認した上で、閣議決定までしなければならな
かったか。
しかし、大江氏は日本が「尖閣を侵略したもの」だと言明され
るのは1609年(慶長14年)江戸幕府創設間もない時に島津藩が琉球
に侵攻したことを指しているのか、あるいはその270年後の1879
年に鹿児島県管轄領地だった琉球王国が明治政府に従わなかっ
たために処分官をはじめ随員・警官・兵、約600人を派遣して
「琉球藩」を廃止して沖縄県を設置した「琉球処分」を指してい
るのか?大江氏は明治政府の「琉球処分」を指しておられると思
われるが、廃藩置県の際、島津藩管轄下の「琉球国」も領土の一
部と認識して、その後の施策を講じたものと思われる。これを
当時の国際情勢から「侵略」と定義することはできないだろう。
以下琉球王国に関するウィキペディアの一部を転記した。
「薩摩による琉球侵攻[編集]
1609年(琉球暦万暦37年・和暦慶長14年)、薩摩藩の島津氏は
3000名の兵を率いて3月4日に薩摩を出発し、3月8日には当時琉
球王国の領土だった奄美大島に進軍。3月26日には沖縄本島に
上陸し、4月1日には首里城にまで進軍した。島津軍に対して、
琉球軍は島津軍より多い4000名の兵士を集めて対抗したが敗れ
た。4月5日には尚寧王が和睦を申し入れて首里城は開城した。
これ以降、琉球王国は薩摩藩の付庸国となり、薩摩藩への貢納
を義務付けられ、江戸上りで江戸幕府に使節を派遣した。その
後、明を滅ぼした清にも朝貢を続け、薩摩藩と清への両属とい
う体制をとりながらも、琉球王国は独立国家の体裁を保ち、独
自の文化を維持した。琉球王国が支配していた奄美群島は、薩
摩藩直轄地となり分離されたが、表面上は琉球王国の領土とさ
れ、中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王
府の役人が派遣されていた。
琉球処分[編集]
1871年、明治政府は廃藩置県によって琉球王国の領土を鹿児島
県の管轄としたが、1872年には琉球藩を設置し、琉球国王尚泰
を琉球藩王に「陞爵」して華族とした。明治政府は、廃藩置県
に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩
王自ら上京することなどを再三迫ったが、琉球が従わなかった
ため、1879年3月、処分官松田道之が随員・警官・兵あわせて
約600人を従えて来琉、武力的威圧のもとで、3月27日に首里城
で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じ、4月4日に琉球藩の
廃止および沖縄県の設置がなされ[7]、沖縄県令として鍋島直
彬が赴任するに至り、王統の支配は終わった(琉球処分)。琉
球の王族は、日本の華族とされた。しかし琉球士族の一部はこ
れに抗して清国に救援を求め、清国も日本政府の一方的な処分
に抗議するなど問題は尾を引いた。外交交渉の過程で、清国へ
の先島分島問題が提案され、調印の段階まできたが、最終段階
で清国が調印を拒否して分島問題は流産、琉球に対する日本の
領有権が確定した。」
話は横道に逸れたが、当方は10年かけて無主地であることを確
認したことに重大なキーワードが隠されていると思った。
そのキーワードとは即ち当時の国際法である「万国公法」だ。
それは明治政府が尖閣諸島を調査する1885年よりさらに10年以上
前の1874年、現在の日本の生活保護法の原型「恤救規則」がすでに
制定されていたことを以前、当ブログで書いたことがある。これ
は明治政府樹立7年目にして、細部に至るまで一定の近代化を成
し遂げていたことを物語っている。この近代化のバックボーンが
当時の国際法である「万国公法」だと当方は考えている。
テレビドラマ「龍馬伝」の中にも出てきた「万国公法」は幕末から
明治にかけて急速に伝播したとある。明治政府は西欧列強に侵
略されず、また列強に肩を並べるためにも「万国公法」が定める
国際基準を遵守し、国政の内外で、なんとしても「万国公法」に
よる体裁を整えることに懸命だったのではないかと思う。
だからこそ尖閣諸島を10年かけて調査し、「無主地」であること
を確認した上で「閣議決定」という面倒くさい手続きで体裁を
整えたのではないかというのが当方の見解だ。
次ぎに万国公法に関するウィキペディアの記事を一部転記する。
「幕末・明治史における『万国公法』と国際法[編集]
『万国公法』の伝播という事件は、西欧法思想に留まるものでは
なく、以下に見るように幕末・明治初期に大きな影響を与えてい
る。
幕末[編集]
日本最初の翻刻である開成所版『万国公法』は、西周が訓点を
施したものである。その西周はオランダに留学して国際法を学
び、1865年に帰国している。こののち幕府開成所教授の職に就い
ていたが、1867年に改革案として「議題草案」・「別紙 議題草案」
を提出した。この後者において「万国公法」という字句が登場し
ている[20]。これら改革案は徳川家中心の政体案であり、且つ三
権分立を取り入れたもので、大政奉還後の展望を示したものであ
る。ただ翌月には王政復古の大号令が発せられ、草案が日の目を
見ることはついになかった。
また薩長が攘夷論から開国論へと対外政策を転換する契機ともな
った。『万国公法』は、国際社会が遵守すべき法規として受け取
られ、また理念として世界中の国家が平等である権利(「万国並
立の権」・「諸国平行の権」)を有することを説いていた。この
ような万国公法の内容が広く知られるようになったことは、薩摩
・長州ら維新政府側が、江戸幕府が締結した不平等条約を継承す
ることへの弁明や攘夷論者の説得(=開国論の正当化)に根拠を
与えた(吉野1927、尾佐竹1932、山室2001)。
明治新政府の布告への影響[編集]
『万国公法』は、また一方で維新政府の国家体制設計に際し、大
いに参照されている。
五箇条の御誓文
まず明治政府の基本方針として示された五箇条の御誓文に、
『万国公法』の影響が認められる。五箇条の一つ「旧来の陋習を
破り天地の公道に基くべし」、及びその原案「旧来の陋習を破
り宇内の通義に従ふへし」に使われていることば「天地ノ公道」
・「宇内の通義」は「万国公法」(国際法)の意味だとされる[21]。
また1868年にだされた政体書は、日本の国家体制を規定しようと
した、いわば維新政府の青写真・計画書であるが、その構想とは
太政官をトップに、議政官(立法)・行政官(行政)・刑法官(
司法)を配置するもので、三権分立思想を取り入れている。この
政体書第11条を書くに当たって参照されたのが『万国公法』第一
巻第二章第二四節及び第二五節で、そこではアメリカ合衆国憲法
やスイスの国会権限について部分的に訳され、紹介されている。
政体書第11条は、アメリカを例にして連邦政府による連邦内の小
政府の権限制約について解説した箇所であるが、これを政体書に
取り入れることで中央集権の法理導入の根拠としようとしたもの
である[22]。というのも当時の江戸幕府倒壊直後の日本は諸藩割
拠状態であって、諸藩をどのようにまとめ上げて統一国家とする
かという点において、国家スタイルとして連邦制が妥当と考えら
れた。この時点では連邦型国家の中でも、ドイツ連邦のような分
権型国家か、あるいはアメリカのようなより中央集権を強めた国
家とするかという二つの選択肢が考えられていた。政体書起草者
たちは同じ連邦国家でもより中央集権的なアメリカ型を選択し、
その際『万国公法』を参照したのである。結果的にはその後の紆
余曲折を経て廃藩置県により連邦国家アメリカ以上の中央集権国
家となったが、政体書作成当初はそこまでの展望は開けていなか
った。そういう時に『万国公法』は国家体制のプランを練る上で
指針とされたのである(井上1994)。
さらに民衆向けに掲げられた五榜の掲示(第4札)にも「万国の
公法」という字句が登場し、外交は朝廷が担い、条約を遵守する
ので、庶民は外国人に不法なことをしないようにと命じている。」
以上が「万国公法」に関するウィキペディアの記事の一部だ。
大江氏は、この「万国公法」に対する明治政府の信奉とも言
うべき理念があったことを見落としてはいないだろうか。見落
としてしまったために、明治政府は最初から他国を侵略する野
蛮な国として認識してしまい、「尖閣、竹島を侵略した」と大
江氏は考えたのではないか。列強に肩を並べる為に国家の近
代化を急いだ明治政府には「万国公法」を基礎とした制度設計
の理想に燃えていた先人たちばかりであったろうと思う。従っ
て「万国公法」を遵守しようと懸命だった明治政府が樹立の当
初から侵略的野望を持っていたとは考えにくい。
例えば明治政府の朝鮮半島との接触の仕方は、穏便で儀礼的で
あったと思われる。以下が朝鮮半島との関係を記したウィキペ
ディアの記事だ。
「明治新政府が成立した日本は1868年(慶応4年)12月19日、新
政権樹立の通告と条約に基礎づけられた近代的な国際関係の樹
立を求める国書を持つ使者を、かねてから日本と国交のあった
李氏朝鮮政府に送った。しかし大院君のもとで攘夷を掲げる朝
鮮政府は、西洋化を進める明治政府を訝しみ、冊封体制下では
中国の皇帝にのみ許される称号である「皇」、中国皇帝の詔勅
を意味する「勅」の文字が入っていることなどを理由に国書の
受け取りを拒否した。日本はその後何度も国書を送ったが、朝
鮮側はその都度受け取りを拒否した」とあり、ここから
アメリカが徳川幕府に対して行なった「砲艦外交」に転じていく。
それでも領土領地、国境に関しては「万国公法」を遵守してい
たものと思われる。これが列強の国際的な「常識」だったからだ。
それにもう一つ触れておきたいことがある。
日露戦争で「広瀬中佐」の物語はあまりにも有名だが、ロシア
駐在武官として赴任していた広瀬は、ロシア社会でも非常に好
意的に扱われ、アリアズナというロシア貴族の娘と恋人仲だっ
たことは周知の事実だ。なぜロシアで、これほどの好意を得た
か?
明治政府が最初から侵略をする野蛮な国だったら、広瀬といえ
どもロシア社会は、それほど好意的ではなかっただろう。「万
国公法」を遵守して、瞬く間に一定の近代化を成し遂げた紳士
の国と受け止められていたに違いないのだ。日露戦争で戦死し
た広瀬の遺体を海上から引き上げ埋葬したのは、アリアズナの
兄たちロシア兵だったという。樹立間もない明治政府が当初か
ら侵略する野蛮な国だったら、こんな扱いはしなかっただろう。
大江氏は変質していった後の明治政府の朝鮮半島での行状を
見て、「侵略した」と判断しておられるのではないか。
大江健三郎氏をはじめとした「戦争させない1000人委員会」の
方々、如何であろうか?
従って「万国公法」を遵守することに懸命だった日本は
「尖閣諸島や竹島を侵略」してはいないのだと、当方は考え
ている。
大江氏には是非、反論を伺いたい。