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神話時代・古代初期の天皇

2019-02-11 12:55:13 | 政治史・思想史

[神武天皇?]

・日本書紀によれば、天照大神を始祖とする日の神の末裔ニニギノミコトが、高千穂の地に降臨した(天孫降臨)。これが神武の曽祖父である。□笠原3-5、遠藤22

・ニニギノミコトの曽孫であるカミヤマトイワレヒコノミコトは、日向を出て転戦を重ねて東へ移り、ついに大和を平定した(東征伝説)。イワレヒコノミコトは、初代天皇【1神武(在位前660~前585)】としてヤマト王権を創始した、とされる。□笠原3-5

・日本書紀は、日本最初の公式の史書として年紀を立てることにこだわった。古代中国の思想(辛酉革命説)に基づき、大変革が起きるとされた辛酉(しんゆう)の年(=特に推古9年の辛酉601年から1260年さかのぼった紀元前660年)の正月1日に神武が即位したと古く設定したため、各天皇の治世や寿命が異常に長すぎる事態となった。□遠藤36-9、吉村39-40

・紀元前7世紀の日本は階級社会の生まれていない縄文時代であり、神武天皇の存在やその物語はフィクションである。なお、奈良県橿原市には「神武天皇陵」と称される陵墓が存在するものの、単なる丘が明治時代にそう呼ばれるようになったにすぎない。□山本24

 

[欠史八代?]

・日本書紀巻第四には、神武天皇を継承したとされる【2綏靖】【3安寧】【4懿徳】【5孝昭】【6孝安】【7孝霊】【8孝元】【9開化】の基礎情報(実名、続柄、后妃、子女、宮の場所、崩御した年齢、陵など)だけがまとめて連ねられている。□遠藤22、山本24-5

・これら8人の天皇の実在も否定されており、「欠史八代」と称される。□遠藤22、吉村39-41

 

[崇神天皇とヤマト王権?]

・日本書紀巻第五では【10崇神(在位前97~前30)】、巻第六では【11垂仁(在位前29~後70】が取り上げられ、再び天皇の事績が記述される。いずれも祭祀に関する伝承が多い。□遠藤22

・日本書紀では神武と崇神に「はつくにしらすスメラミコト=はじめてこの国を統治する天皇」という名をあて、古事記では崇神(のみ)を「はつくにしらししみまきのすめらみこと」と呼ぶ。このため、崇神をヤマト王権の実質的創始者とする見解もあるが、崇神がが実在したことを示す直接的な文献資料はない。□山本25-6、吉村46-8

・崇神の叔母である倭迹々日百襲姫(ヤマトトトソモモソヒメ=孝霊の娘)を邪馬台国の卑弥呼(←魏志倭人伝)とみなす見解もある。しかし、倭迹々日百襲姫も実在の証拠がなく、邪馬台国と時代も異なる。□山本25-6

 

[日本武尊伝承?]

・【12景行】の皇子とされるのが日本武尊(ヤマトタケルノミコト)である。古事記では苦悩する英雄として、日本書紀では景行の命により服従しない勢力と戦う皇族将軍として描かれている。□遠藤22-3

・日本武尊の弟が【13成務】、日本武尊の第二皇子が【14仲哀】とされる。

 

[神功皇后と応神天皇?]

・仲哀より有名なのが神功皇后である。神功皇后は熊襲や土蜘蛛を征伐した後、朝鮮半島に出征して新羅、高麗、百済をしたがわせたとされる(三韓征伐)。神功皇后の実在性を疑う見解も強いが、その伝承に後生の影響を認めつつ実在自体は認める見解もある。□遠藤40-6、山本27

・参観征伐のため、前線である筑紫に入った神功皇后が同地で出産したとされるのが【15応神(在位270~310)】である。日本書紀には、神が応神に朝鮮半島の三韓を授けた、とされる。史実として、高句麗の好太王碑に「391年、倭国が海を渡って百済と新羅を服属させた」との記録があるが、応神の在位時期とは一致しない。大阪府羽曳野市には「応神天皇陵」とも呼ばれる誉田御廟山古墳があるが、現在では、応神の実在は疑問視されている。□山本27-8

 

[仁徳天皇]

・【16仁徳(在位313~399)】から古墳時代となり、実在が確実視される最初の天皇となる。もっとも、その在位期間は不自然に長く疑わしい。□山本28

・先の「百済と新羅の服属」は、仁徳天皇の事績だと考えられる。□山本29

・大阪府堺市にある「仁徳天皇陵」は、現在は別人の墓だと考えられている。□山本28

 

[倭の五王]

・仁徳を継承したのが、いずれもその皇子である【17履中(在位400~405)】【18反正(在位406~410)】【19允恭(在位412~453)】、允恭の皇子である【20安康(在位453~456)】【21雄略(在位456~479)】である。□山本29-32

・宋書倭国伝には、倭の五王が中国の南朝に朝貢し、倭国のみならず朝鮮半島の支配権までも認めてもらおうとしたとの記述がある。この倭の五王のうち、最後の「武」を雄略とみることが定説となっている(埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣銘文にある「ワカタケルオオキミ」)。ここから、武の父である「済」が允恭、武の兄である「興」が安康に該当する。残る「讃」が履中、「珍」が反正だと推測されている。□山本29-32

 

[皇統の断絶]

・雄略の第三皇子が【22清寧】には子がなかったため、履中の孫である【23顕宗】が擁立され、履中の崩御後にはその兄【24仁賢】が即位した。□山本32-3

・仁賢を継いだのがその子【25武烈】である。日本書紀において、武烈は、妊婦の腹を裂く、人の生爪をはいで山芋を掘らせる、などの悪行を尽くした人物として描かれている。この武烈の死後、仁徳以降で跡を継ぐべき皇族がいなくなり、仁徳王朝(河内王朝)は断絶する。ここに、「悪行の天皇によって仁徳王朝が断絶した」との中国的発想を見る見解もある。□山本34-3、笠原61-2、遠藤23

 

[継体の即位]

・そこで、応神の五世の孫であり越前にいた【26継体(在位507~531)】が擁立された。この「継体」という諡号に皇統の断続が意識されている。もっとも、継体は仁賢の皇女(=武烈の妹)である手白香皇女(タシラカノヒメミコ)を皇后に迎えているので、女系で皇統がつづいたと考えることもできる。□山本23

・もっとも、「応神五世の孫」という伝承も含めて史実性には疑問が向けられており、朝廷の混乱に乗じて越前や近江の勢力が皇位を簒奪した、との見方も有力である。遠藤は、継体の即位をもって日本書紀の前後半が区切られる、と指摘する。□山本33-4、笠原63-4、遠藤24

 

笠原英彦『歴代天皇総覧ー皇位はどう継承されたか』[2001]

吉村武彦『ヤマト王権 シリーズ日本古代史(2)』[2010]

遠藤慶太『六国史ー日本書紀に始まる古代の「正史」』[2016]

山本博文『天皇125代と日本の歴史』[2017]

※宮内庁ウェブサイトにある「天皇系図」と「歴代天皇陵の案内」が便利。

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