【例題】Xの運転する自動車と、Yの運転する自動車が、信号機のない交差点で出会い頭に衝突した。この事故によってXが所有する自動車は大破し、Yが所有する自動車は一部が損壊した。またXは6か月の治療を要する傷害を負い、Yは1か月の治療を要する傷害を負った。この度、XはYに対する損害賠償請求訴訟を提起した。なお、XはP社の自動車保険に加入しており、Yは無保険である。
[物損×物損:法定相殺可能]
・結論:2020年4月1日以降の交通事故において、物的損害を被った一方当事者は、自身の物的損害を回収するために、相手方に負う物損賠償債務と相殺することができる。
・理由:債権法改正により、「不法行為に基づく損害賠償請求権を受働債権とする相殺禁止」の範囲は、[1]積極的に他人を害する意思によって不法行為がなされた場合(∵不法行為の誘発防止)、[2]生命身体が害された場合(∵人身被害者への現実の弁済の必要)、に限定された(民法509条本文)(※)。したがって通常の過失交通事故であれば、「物損債権を、物損債務と相殺する」ことは許される。この意味で、最二判昭和54年9月7日集民127号415頁(交通民集12巻5号1173頁)の法理は放棄された。□一問一答202
※私見では、「善意/悪意」というジャーゴンを残したまま、別の意味で「悪意=積極的害意」との用語を採用するのは賛成できない(紛らわしい)。後者が日常の語感にも近くて望ましいというのならば、むしろ「善意/悪意」の用語を廃止すべきだろう。
・実務:損保実務では合意に基づく相殺払いが多用されている。債権法改正後は、合意を待たずして相殺することも可能となり、相手方が任意無保険の場合には、法定相殺を利用することで回収不能のダメージを小さくできる(※)。特に車両保険の付保がない場合に実益があり、相手方への請求額が30、相手方への負担額が10の場合、「自身の対物賠償保険の使用と法定相殺」を組み合わせることで、自身が契約する対物社から対物賠償保険金10を回収することができる(差引20は未回収で残る)(たぶん)。
※もっとも、示談で決着する際は相殺合意を伴うだろうから、法定相殺が意味を持つのは訴訟事案に限られるか(たぶん)。
・原告が法定相殺を主張する場合の主張例:「本件事故により被告車は修理を要し、その修理費用は⚫︎円である。したがって、原告は被告に対し、民法709条に基づき、過失相殺(⚫︎%)後の損害額⚫︎円の損害賠償債務を負う。/原告は、⚫︎年⚫︎月⚫︎日提出の準備書面において、上記損害賠償債務と原告の被告に対する損害賠償債権を対当額で相殺する旨の意思表示をする(※)。この法定相殺により、原告の被告に対する損害賠償債権⚫︎円は、被告の原告に対する損害賠償債務⚫︎円と対当額で相殺され、その残額は⚫︎円となる。」
※判決であれば、これに続けて「⚫︎年⚫︎月⚫︎日、上記準備書面が被告訴訟代理人に直送されたことは当裁判所に顕著である。」などと記載される。
[人損×物損:法定相殺可能]
・結論:2020年4月1日以降の交通事故において、人身損害を被った一方当事者は、自身の人的損害を回収するために、相手方に負う物損賠償債務と相殺することができる。
・理由:民法509条本文。したがって、したがって通常の過失交通事故であれば、「人損債権を、物損債務と相殺する」ことは許される。
・実務:[1]人身損害の示談時に、物損債務との相殺を主張することが考えられる。もっとも、現実には、対人賠償保険金からストレートに控除することは困難だろう。[2]相手方が任意無保険であれば、対人被害者はまずは自賠社からの回収を考えよう。自賠責保険をはみ出る分については、物損債務と相殺することで「自分の対物賠償を使いたくない」というニーズを実現する余地がある(たぶん)。
[物損×人損:法定相殺不可]
・結論:2020年4月1日以降の交通事故でも、物的損害を被った一方当事者は、自身の物的損害の回収のために「相手方に負う人損賠償債務との相殺」を主張することはできない。
・理由:民法509条本文。債権法改正後も、改正前と同様に「相手方の人損損害賠償債務」は特別に保護されている。
・実務:理論上は「相殺合意があれば何でもあり」のはずだが、損保実務では、仮に相殺合意があったとしても「対人社が物損債権と人損債務を相殺すること」は困難か(たぶん)(※)。
※なお、被害者による自賠社への16条請求権は、差押禁止債権とされている(自動車損害賠償保障法18条)。この規律は、直接的には、対人被害者に何らかの債権を有する者は、16条請求権から回収することができないという帰結を生む。また、自賠社の立場から言えば、「偶然、自賠社が被害者に対して請求権を有している場合(未払保険料など)に、自賠社は16条請求権を受働債権とした法定相殺ができない(民法510条)」という形でも意味を持つ。□逐条168
[人損×人損:法定相殺不可]
・結論:2020年4月1日以降の交通事故でも、人的損害を被った一方当事者は、自身の人的損害の回収のために「相手方に負う人損賠償債務との相殺」を主張することはできない(※)。
※以上の文言に素直な解釈に対して、「一方が無資力の場合にも相殺禁止を貫くと公平を欠く」との観点から相殺を認める解釈もありうる。□深谷562
・理由:民法509条本文。債権法改正後も、改正前と同様に「相手方の人損損害賠償債務」は特別に保護されている。
・実務:「物損×人損」と同様に、「対人社が人損債権と人損債務を相殺すること」は困難か(たぶん)。
松尾弘「物損による損害賠償請求権相互間における相殺禁止(判批)」新美育文・山本豊・古笛恵子編『交通事故判例百選〔第5版〕』[2017]pp178-9
山田八千代「双方物損事故における新民法509条の適用と責任保険」中央ロージャーナル第14巻第4号[2018]
筒井健夫・村松秀樹『一問一答民法(債権関係)改正』[2018]
北河隆之・中西茂・小賀野昌一・八島宏平『逐条解説自動車損害賠償保障法〔第3版〕』[2024]
深谷格「第509条」山田誠一編『新注釈民法(10)債権(3)』[2024]