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日本国憲法の制定過程

2022-05-03 23:40:18 | 国制・現代政治学

本文全体につき、国立国会図書館(高見勝利監修)「日本国憲法の誕生」を参照。→関連記事《占領体制下の国制

 

[1945年10月:前期ー内大臣府による改憲作業と内閣の追随]

・10月4日夕方、東久邇宮稔彦内閣の無任所大臣(副総理格)であった近衛文麿は、連合国軍最高司令官総司令部(General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers:GHQ/SCAP)本部のある第一生命ビルにおいて、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーと2度目の面談をした。この面談の際、マッカーサーは、近衛に対して憲法改正を示唆した。この会談の直後である同日午後6時、GHQは「連合軍最高司令部発帝国政府に対する覚書」(いわゆる人権指令)を発出した。□古関11-6、西10-1

・人権指令によって東久邇宮内閣は瓦解したため、近衛と木戸幸一内大臣は、近衛が内大臣府御用係として憲法改正作業を主導することを決めた。10月11日、近衛は、天皇から御用係の任命を受けた。□古関18、西10-1

・10月11日、新たに首相となった幣原喜重郎はマッカーサーを面談し、いわゆる五大改革指令を受けた。これは、(1)婦人解放、(2)労働組合の結成奨励、(3)自由な教育を行うための諸学校の開設、(4)秘密警察等の廃止、(5)独占的産業支配の改善を内容としており、直接には憲法改正の指示を含んでいなかった。10月13日に出された新聞記事では、あたかも「天皇が近衛に憲法改正作業を命じ、マッカーサーから幣原へ(憲法改正を含まない)5項目の指示が出された」ように報道された。以上は、近衛のブレーンであった高木八尺(東大教授・アメリカ政治史)の配慮だった。□古関16-8

・10月13日、近衛の依頼を受けた佐々木惣一(京大教授・憲法学)が上京し、近衛と同じく内大臣府御用掛の勅令を受けた。他方の幣原内閣は、同日10月13日の閣議において、松本烝治国務大臣(弁護士・商法学)を委員長とする憲法問題調査委員会(いわゆる松本委員会)の設置を決めた。ここに、憲法改正作業の主導権をめぐって「内大臣府(近衛、佐々木)v.内閣(幣原、松本)」という構図が生まれた。朝日新聞や毎日新聞も社説で憲法改正の必要を訴えた。松本や宮沢俊義(東大教授・憲法学)は内閣が改正作業を主導すべきだと主張し、佐々木がこれに反論した。□古関18-21

・10月19日付け毎日新聞において、宮沢は憲法改正に慎重な態度を表明した。美濃部も、朝日新聞に20日、21日、22日、毎日新聞に25日、26日、27日と続けて論文を掲載し、当面の憲法改正に反対し、現行憲法の範囲内での議会制度改革を提案した。□古関77-8

・五大改革指令を受けた幣原内閣は、10月23日の閣議において、婦人に選挙権及び被選挙権を認める「衆議院議員選挙制度改正要綱」を提出した。

・近衛は、佐々木を伴って箱根に籠り、帝国憲法改正の作業に入った。この間も高木八尺がGHQとの接触を続け、10月25日時点では「天皇制の護持は日本国民が決めること」とのアメリカ政府の方針を聞き出した。□古関22-5

・10月25日、幣原内閣は、官制によらず、閣議了解の形式で憲法問題調査委員会を設置した。その構成は、顧問に美濃部達吉を含む3名が就き、委員には美濃部門下の3名(九大の河村又介、東北大の清宮四郎、東大の宮沢)、法制局の入江俊郎、佐藤達夫、貴族院書記官長の小林次郎、衆議院書記官長の大池真、司法省民事局長の奥野健一などがいた。松本は佐々木惣一も加えることを望んだが、既に近衛の改憲作業に関与している佐々木はこれを拒み、美濃部も佐々木の参画には強く反対した。□古関73-5,79-84、西16、大石b108-7

・憲法問題調査委員会は、10月27日から1946年2月2日までの間に、7回の総会と15回の調査会・小委員会を開いた。10月27日の第1回総会において、松本は、「憲法改正の要否について議論することは不要である」「第1条と第4条(※)に触れる必要がない」と主張した。□古関79-80

第一條:大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス

第四條:天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲󠄁法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ

 

[1945年11月:前期ー近衛の挫折]

・アメリカ国内では、当初から「戦犯というべき近衛に改憲作業を依頼したこと」に対する批判が強かった。11月1日夜、GHQは、突如「憲法改正の要求を伝えたのは近衛が当時首相の代理だったからに過ぎず、幣原新内閣にはGHQの命令を新たに伝えた」と発表し、近衛を憲法改正作業に選任したわけではないと明言した。後には「10月4日のマッカーサー近衛面談時に「憲法改正」とは伝えられておらず、通訳人の誤訳だった」との説も流布されるようになった。□古関25-6,28-9

・11月10日、憲法問題調査委員会の第2回総会が開催された。松本は、第1回総会とは態度を変えて「憲法改正問題がきわめて近い将来に具体化される」と述べて、以後、方針を変えて「大きな問題」「切実な条項」を深く掘り下げることとなった。□古関80-1

・GHQの近衛に対する態度が急変する中でも、近衛は、GHQの意向を汲んだ改正案の作成を急いだ。政治的配慮を嫌う佐々木との間で改憲構想を一致させることは不可能となり、11月22日、近衛は天皇に「帝国憲法の改正に関し考査して得たる要綱」(近衛案)を上奏した。この近衛案は条文化されていなかったが、アチソンの示唆を受けた「天皇大権の制限」「議会の自立解散」「自由権の尊重」などがうたわれた。□古関30-1、西12

・11月24日、佐々木は全100条に条文化した「帝国憲法改正の必要」(佐々木案)を進講した。佐々木案は「天皇に関する1条から4条は明治憲法をそのまま踏襲する」「法律の留保を維持する」というように、近衛案より明治憲法に近い内容だった。□古関31-2、西12

・佐々木案が進講された11月24日同日、内大臣府は廃止された。以後、近衛案や佐々木案が省みられることはなかった。□古関32、西

・11月24日、憲法問題調査委員会は、ほぼ明治憲法全般にわたる審議を終え、意見をまとめたプリントを配布した。□古関81

 

[1945年12月:前期ー松本四原則の表明]

・12月8日、第89回帝国議会(衆議院予算委員会)において、松本は国務大臣の答弁として、憲法改正の4つの原則「(1)天皇の統治権総覧の堅持、(2)議会議決権の拡充、(3)国務大臣の議会に対する責任の拡大、(4)人民の自由・権利の保護強化」を表明した(松本四原則)。この松本の答弁に対し、ほとんど議論は起きなかった。□古関82-3

・12月15日、内閣から提出された衆議院議員選挙法改正法案が可決成立され、同時に、選挙権は20歳以上、被選挙権は25歳以上と引き下げられた。

・戦犯逮捕命令が発せられた近衛は、出頭を目前にした12月16日未明に青酸カリを飲んで服毒自殺をとげた。

・12月17日、選挙権年齢を20歳に引き上げる改正衆議院議員選挙法が成立し、性別を要件としない普通選挙制が誕生した。その翌日18日、幣原内閣は衆議院を解散した。□大石a344-5

・12月のモスクワ外相会議の結果、日本占領管理機構としてワシントンに極東委員会(Far Eastern Commission:FEC)が設置され、東京に対日理事会(Allied Council for Japan)が設置されることとなった。極東委員会は日本占領管理に関する連合国の最高政策決定機関となり、GHQもその決定に従うことになった。特に憲法改正問題に関して、アメリカ政府は、以後、極東委員会の合意なくしてGHQへの指令を発することができなくなった。

・12月26日、憲法問題調査委員会は第6回総会を開いた。常に少数意見の立場であった顧問野村淳治から約6万字に及ぶ意見書が提出されたが、事実上無視された。□古関83

 

[1946年1月:前期ーSWNCC228]

・松本は、1946年1月1日から3日夜にかけて憲法改正案を起草した。1月4日に完成した「憲法改正試案」は、宮沢が「要綱」の形にまとめ、最後に松本自身が筆をとって「憲法改正要綱」(松本甲案)とした。□古関83

・一方の宮沢、入江、佐藤達夫の3委員は、1月4日から調査会小委員会を開き、宮沢甲案・宮沢乙案の審議を始めた。さらに小委員会は、小規模改正の松本甲案に対して、大規模な改正をした「憲法改正案」(松本乙案)も用意した。□古関84

・1946年1月7日、アメリカ政府は、国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC:スウィンク)が承認した「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)を作成した。SWNCC228は、日本の憲法改正に関する指針を示しており、マッカーサーが日本政府に対して「選挙民に責任を負う政府の樹立、基本的人権の保障、国民の自由意思が表明される方法による憲法の改正といった目的を達成すべく、統治体制の改革を示唆すべきである」とした。また、改革や憲法改正は日本側が自主的に行うように導かなければ日本国民に受容されないので、改革の実施を日本政府に「命令」するのは「あくまで最後の手段」であると強調されている。ポツダム宣言と比べると踏み込んだ具体的な内容となっており、SWNCC228こそ「日本国憲法の第一次草案」と評される。□大石a337-8

・既に1945年12月の時点で極東委員会の設置が決定されていたため、SWNCC228は、「アメリカ政府からマッカーサー(GHQ)への命令」ではなく、あくまで「情報」の形式で1月11日に伝達された。もっとも、SWNCC228は、GHQ草案の作成の際に「拘束力ある文書」として取り扱われた。

・1月26日の第15回調査会において、松本甲案と松本乙案が完成した。□古関84

・1月29日の閣議において、松本が改正案の審議を提案し、翌30日、31日、2月1日、2月2日と連日の臨時閣議が開かれることになった。□古関84

 

[1946年2月:後期ーGHQ草案]

・2月1日、毎日新聞が「憲法問題調査委員会試案」なるスクープ記事を出した。この「試案」は、松本甲案・松本乙案ではなく、ほぼ宮沢甲案であり、毎日新聞は「あまりに保守的、現状維持的なものにすぎない」と批判した。□古関90-3

・このスクープをきっかけに、2月1日と2日、民政局(Government Section:GS)の局長コートニー・ホイットニーは、マッカーサーに対して、「極東委員会が憲法改正の政策決定をする前ならば、憲法改正に関するGHQの権限には制約がない」と進言した。なお、白洲次郎は、「ホイットニーはマッカーサーを看板に、ケーディスはホイットニーの後援でGHQ内では飛ぶ鳥を落とす勢いだった」「GHQ詣での大半はホイットニー詣でかケーディス参りだった」と回想している。□古関126-9、大石a328-9

・2月3日、マッカーサーは、ホイットニーに対し、憲法改正の必須要件として「(1)天皇の地位、(2)戦争の廃止、(3)封建制度の廃止」を示し(いわゆるマッカーサー三原則)、民政局にて憲法草案を作成するよう命じた。翌2月4日、民政局内に作業班が設置された。ホイットニーは全職員に対して「これからの1週間、民政局は憲法制定会議の役をすることになる」と述べた。当時の民生局員は26名だったが、ホイットニーの指揮の下、行政部長チャールズ・ケーディス、アルフレッド・ハッシー、マイロ・ラウエルが全体を統括する運営委員会を組織し、他の職員は小委員会に配属されて、9日間の起草作業が行われた。□古関130-1,137-42、西31-3、大石b110-2

・GHQは、秘密裏に草案の起草作業を急ぐ一方で、幣原内閣に対しては政府案の提出を要求した。2月8日、松本は、GHQに対し、「憲法改正要綱」(松本甲案)と「憲法改正案の大要の説明」等を提出した。□古関175

・2月13日午前10時、外務大臣官邸において、幣原内閣の松本国務大臣、吉田茂外務大臣、白洲次郎終戦連絡中央事務局参与、長谷川元吉外務省通訳官の4名は、松本甲案への回答をもらうためホイットニーやケーディスらを迎えた。ホイットニーは松本甲案を拒否すると述べ、呆然とする松本らに、全92条(11章)からなるGHQ草案(マッカーサー草案)が手交された。さらにホイットニーは、GHQ草案を日本に押し付けるつもりはないが、天皇擁護のためであるし、日本民衆の意識に合致したものだ、と述べた。この会談の事実やGHQ草案が手交されたことを秘密にすることが確認され、会談は1時間ほどで終わった。□古関177-82、大石a339-41、大石b113

・佐藤達夫によれば、松本甲案の提出までが「前期」、GHQ草案の受領からが「後期」となる。実質的には「後期」が憲法成立過程の本史であり、「前期」はその前史にすぎない。□大石a331-4

・2月13日午後と14日、白洲次郎はホイットニーを訪ねて、いわゆる「ジープ・ウェイ・レター」をもって松本甲案を擁護しようと試みたが、ホイットニーは、GHQ草案を天皇制を護るための最終案であると繰り返し警告した。2月18日、松本は「憲法改正案説明補充」を提出したが、ホイットニーは幣原内閣が48時間以内にGHQ草案を受け入れるよう警告した。□古関182-7

・2月19日、幣原内閣の定例閣議において、初めてGHQ草案が報告された。閣議の意見はまとまらず、白洲がホイットニーに22日までの回答猶予を要請して認められた。21日、幣原はGHQ本部を訪れてマッカーサーと3時間に及ぶ会談をした。翌日2月22日の閣議において、GHQ草案のうち第1章と第2章の外務省訳が配布され、GHQ草案に沿う憲法改正の方針を決めた。□古関187-94

・2月26日の閣議では、初めてGHQ草案全文の日本語訳(外務省仮訳)が配布された。27日から、首相官邸内の放送室を作業部屋として、松本の下、入江と佐藤達夫が中心となって日本案の作成に着手した。□古関195-6

 

[1946年3月:後期ー憲法改正草案要綱]

・日本案の完成は3月11日を予定していたものの、GHQから幣原内閣には作業を早めるよう執拗な督促が行われた。3月2日、佐藤らは、日本文を整理して、GHQへ提出するため案文の謄写刷30部(3月2日案)を印刷した。これは全109条(9章)からなり、前文を削る・刑事手続的権利を縮減する・二院制とするなどの修正を施したものであった。佐藤達夫曰く「あたかも書きかけの試験答案を途中で引ったくられた気持ちであった」。□古関196-7、西59、大石b113

・3月4日午前、松本は、佐藤達夫や白洲次郎を伴い、民政局に赴いて「3月2日案」を提出した。松本とケーディスの間で「天皇の行為に対する内閣の補佐」をめぐって激論が起き、松本は、午後2時30分頃に民政局を退出した。残された佐藤は、ケーディスやハッシーらとともに、途中から加わった法制局第二部長井手成三との間で、4日午後8時30分頃から、GHQ草案と3月2日案との異同の検討を中心に逐条審議に入った(徹宵交渉)。松本が削除した前文は全面的に復活されるなど、特に前文・第1章・第2章についてはGHQ草案によるべきことが言い渡された。佐藤は完全な徹夜を強いられ、全体の作業が終わったのは5日午後4時頃であった。□古関207-18、西60、大石113-4

・佐藤の奮闘と並行して、5日午前10時から午後9時過ぎまで閣議が開かれた。幣原内閣は、天皇の意思による改正案の発議という体裁をとることを決め、佐藤が作り上げた「3月5日案」を要綱化し、翌3月6日午後5時、記者会見を開いて「憲法改正草案要綱」を発表した。□古関223-4、西61、大石b114

・3月7日の各紙は、発表された「憲法改正草案要綱」と、これを支持するマッカーサーの声明書を掲載した。3月8日、アメリカ国務省の出先機関である東京の政治顧問部は、バーンズ国務長官に宛てて、「突然の発表に驚いている・草案を十分に検討する時間がない・日本政府案は事前にGHQの検討と承認を得ていることは明らかだ」との報告を送った。この報告は、GHQに知られないよう、電報ではなく郵便で発送された。□古関286-7

・3月10日、陸軍参謀総長は、マッカーサーに対して、「日本案がGHQではなく、天皇と日本政府によってモスクワ声明以前のマッカーサーの指令に従って発せられたものであり、かつ、統治体制の改革内容がマッカーサーの受けた指令と合致しているために個人的に承認したのであれば、陸軍省の見解と一致する」との照会を発した。12日、マッカーサーは「その理由は正しい」「新憲法草案は来るべき選挙における日本国民の賛意にかかっている」と回答した。□古関286-8

・3月20日、極東委員会は、全員一致をもってマッカーサーに宛てた同日付け文書を発し、「日本国民が憲法草案について考える時間がほとんどない」等の理由で、4月10日に予定された総選挙の延期を求めた。□古関289-92

・3月26日、安藤正次(東洋大教授・国語学)、山本有三(作家)、横田喜三郎(東大教授・国際法学)、三宅正太郎(判事)らが首相官邸を訪れ、応対した松本と入江に対して「国民の国語運動」として法令や公文書を口語体とすることを訴えた。□古関245-7

・3月29日、マッカーサーは長文の返電を行い、4月10日の総選挙を延期する必要はないなどと回答した。□古関289-92

 

[1946年4月:後期ー憲法改正草案の公表]

・4月5日、東京にて対日理事会の初会議が行われた。その席上、マッカーサーは「憲法草案は日本国民が広範かつ自由に議論しており、連合国の政策に一致するものになるだろう」と主張した。

・4月10日、女性の選挙権を認めた新選挙法のもとで衆議院総選挙が実施された。鳩山一郎を総裁とする自由党が第一党(141議席)となり、幣原の進歩党は第二党(94議席)となった。他には社会党が93議席、国民協同党が14議席、共産党が5議席、諸派無所属が119議席となったため、幣原は単独政権を維持することができなくなった。□古関317、大石b114-5

・幣原内閣は、「国民の国語運動」の建議を受け入れ、「要綱」を条文化するにあたり、それまでの法文作成形式に反してひらがな口語体を採用した。条文化作業にあたって入江と佐藤はケーディスと協議し、新たに参議院の緊急集会を盛り込んだ。総司令部との調整を終え、4月17日、前文と全100条からなる「憲法改正草案」が公表され、同日に枢密院に諮詢された。□古関247-51、西64

・幣原は自由党との連立を模索するが失敗し、4月22日に幣原内閣は総辞職した。□古関317

・枢密院は、改正草案を審議するため13人からなる審査委員会を設け、4月22日から6月3日までの間に計11回の委員会を開催した。幣原内閣が総辞職した4月22日の第1回委員会において、委員(顧問官)小幡酉吉の質問に対して、委員会に出席していた松本は「政府として草案の修正は政治上実質的に不可能だ」と述べた。また、1月26日から顧問官に就任していた美濃部達吉は、「民主主義的憲法は、政府の起草によるよりは、国民により選ばれた委員会によって自由に討議して起草されるべきである」「政府は草案を撤回して、次の議会で憲法改正手続法を制定した上で、新憲法案を特別議会で最終決定すべきである」と迫った。美濃部の問題提起は次の3点だった:[1]明治憲法73条の改正条項はポツダム宣言受諾によって無効となった、[2]憲法改正草案が廃止とするはずの枢密院に草案が諮詢されるのは不可解である、[3]改正の発案が勅命によってされた・原案が政府に起草された・修正権が限定された議会の協賛を経て天皇の裁可により公布される、といった実情があるにもかかわらず、「日本国民が制定する」との明言は虚偽の声明である。しかし、美濃部の主張は支持されなかった。□西65-6、望月312-4

 

[1946年5月:後期ー吉田内閣の成立]

・5月3日、GHQは、組閣の準備を進めていた鳩山を公職追放した。鳩山に代わって吉田が自由党の総裁となった。□古関317-8

・雑誌「世界文化」昭和21年5月号に、憲法改正草案要綱(3月6日公表)を受けた美濃部と宮沢の論稿が掲載された。美濃部は、少なくとも法律裁可権と国務大臣任免権は天皇大権とされなければならないと主張し、要綱における「象徴天皇制」を批判した。対する宮沢は、「ポツダム宣言の受諾によって天皇主権が廃棄され、国民主権が確立する法的革命(主権者の交代)が生じた」と主張した。□日比野

・極東委員会は、帝国議会の召集が間近に迫る5月13日、「審議のための充分な時間と機会」、「明治憲法との法的持続性」および「国民の自由意思の表明」が必要であるとする「新憲法採択の諸原則」を決定した。

・5月16日に第90回帝国議会が召集されたが、「政治的空白期」のために開院式は1か月以上先の6月20日となった。

・吉田による組閣は時間を要し、幣原内閣が総辞職してからちょうど1か月の「政治的空白期」を経た5月22日、第一次吉田内閣が成立した。□古関317-8

・先例にしたがって草案はいったん撤回され、5月27日にそれまでの審査結果に基づく修正を加えて再び諮詢されることとなった。

 

[1946年6月:後期ー制憲議会(1)]

・6月1日、枢密院審査委員会は、再諮詢された憲法草案を修正しないことを決した。□望月314

・6月8日、枢密院本会議が開催された(議長は鈴木貫太郎)。審査委員長である潮恵之輔の審査報告につづき、顧問官林頼三郎が、憲法の条文を完璧にするためにも審議に十分な時間を与えるよう希望した。成人親王のうち、高松宮宣仁(のぶひと・昭和天皇の実弟)は主権在民の憲法草案には反対の考えであり、あえて本会議を欠席した。もう1人の三笠宮崇仁(たかひと・昭和天皇の実弟)は、戦争放棄の条項に賛意を表した。2時間に及ぶ審議の結果、「憲法改正草案」が賛成多数で可決された。三笠宮は採決を棄権し、美濃部達吉が唯一の反対だった。□古関323、西66、望月315-6,306

・開院式の前日である6月19日、第一次吉田内閣は閣僚を追加し、元法制局長官であった金森徳次郎を憲法担当の国務大臣に任命した。□古関320、西67

・6月20日、第90回帝国議会が開会され、「帝国憲法改正案」は明治憲法73条の規定により勅書をもって議会に提出された。6月21日、吉田が施政方針演説を行い、社会党書記長の片山哲と共産党書記長の徳田球一が反対を述べた。□西68

・6月21日、マッカーサーは、新憲法草案審議についての声明を出した。「審議のための充分な時間と機会」「明治憲法との法的持続性」「国民の自由意思の表明」が必要であると訴えるものであり、極東委員会が5月13日に決定した「新憲法採択の諸原則」と同一のものであった。この事実は、マッカーサーが初めて極東委員会の要求(一部)を受け入れたことを意味した。□古関307-9

・6月25日、帝国憲法改正案が衆議院本会議に上程された(→《日本国憲法の「三大原理」の出自》)。4日間にわたって質疑がなされ、北一輝の実弟である北昤吉(自由党)の質問を受けた吉田の「君臣一家」、北浦圭太郎(自由党)の「山吹憲法」、鈴木義男の「源氏物語の法律版」、野坂参三の「天皇制廃止、自衛戦争容認」などが発言された。□古関325-6、西70-1

・6月28日、帝国憲法改正案は、議長指名の帝国憲法改正案委員会(特別委員会)に付託された。委員長には自由党の芦田均が互選され、委員は72名から構成された。□古関323

 

[1946年7月:後期ー制憲議会(2)]

・7月1日より、特別委員会での審議が開始された。

・7月2日、極東委員会は、新しい憲法が従うべき基準として「日本の新憲法についての基本原則」を決定した。その内容は、先にアメリカ政府が作成した「日本の統治体制の改革」を基礎とするものであった。

・特別委員会での議論が進み、7月23日、共同修正案を作成するため、やはり芦田均を委員長とする小委員会が設置された。小委員会は各党派の精鋭14名から構成され(共産党などの小会派は除外された)、佐藤達夫がアドバイザーとして参画した。7月25日から8月20日まで非公開のもと懇談会形式で進められた。□古関323、西75

・GHQは、極東委員会の意向に沿う形で改正案の修正を日本政府に働きかけ、その結果、主権在民、普通選挙制度、文民条項などが明文化されるに至った。

 

[1946年8月:後期ー制憲議会(3)]

・8月20日、小委員会は各派共同により、9条2項冒頭に「前項の目的を達するため」という文言を追加する内容(いわゆる「芦田修正」)などを含む修正案を作成した。翌21日、共同修正案は特別委員会に報告され、修正案どおり可決された。□古関323

・8月24日、帝国憲法改正案は衆議院本会議の討議に付された。芦田による委員長報告では「改正憲法の第1章は、万世一系の天皇が国民至高の総意に基づき、天壌と共に永劫より永劫に亙り(ワタリ)国民を統合する君主としての地位を確保せらるることを明記したものであります」などと述べられた。委員長報告の後、社会党提出修正案の否決につづいて、委員長報告が賛成421票、反対8票(共産党と無所属議員)という圧倒的多数で可決された。□古関323,328、西77

・改正案は8月24日に貴族院へ送られ、8月26日の貴族院本会議に上程された。この時の貴族院には、公職追放となった勅任議員の空席を埋めるため、南原繁、高木八尺、高栁賢三、牧野英一、宮沢俊義、佐々木惣一、淺井清といった政治学者・公法学者が集められていた。□西78

・8月27日と28日、宮沢と南原がそれぞれ「国体が変わったことを認めるべきだ」と問いただしたが、金森は地動説を持ち出して国体が変わっていないと答弁した。□古関327

・8月30日、阿倍能成を委員長とする帝国憲法改正案特別委員会に付託された。□西78

 

[1946年9月:後期ー制憲議会(4)]

・特別委員会は9月2日からほぼ連日の審議に入った。9月24日、極東委員会からの指示を受けた総司令部から吉田首相に対して、文民条項を追加するよう要請があった。衆議院を通過している段階で政府修正案を提出することができないため、吉田内閣と貴族院関係者が打ち合わせた結果、特別委員会から提出する形式が採られた。

・9月28日から10月2日までの4回、貴族院帝国憲法改正案特別委員会小委員会において、修正のための検討がなされた。□西80

 

[1946年10月:後期ー制憲議会(5)]

・10月1日、小委員会において、高木は「文民条項の修正を拒むべきだ」と発言し、対する宮沢は「憲法全体が自発的にできているものではない」と応じた。□西80-1、大石b118-9

・小委員会は、GHQ側からの要請に基づき、「文民条項」の挿入など4項目を修正した(前文の一部修正、15条3項の一部追加、66条2項の一部追加、79条2項から4項までの削除)。10月3日、修正案は特別委員会に報告され、小委員会の修正どおり可決された。□西81

・10月5日、修正された「帝国憲法改正案」が貴族院本会議に移された。安倍の委員長報告では「新憲法に対して必ずしもよろこびを感ずることができない」と述べられた。10月6日、高柳賢三と山田三良による「天皇が自らの名で批准書を発給する」等の修正案、牧野英一と田所美治による「家族生活はこれを尊重する」との追加案が提出されたがいずれも否決された。同日、改正案は貴族院本会議において賛成多数で可決された。□西82

・改正案は10月6日同日に衆議院へ回付され、翌7日、衆議院本会議において圧倒的多数で可決された。

・「帝国憲法改正案」は、10月12日に枢密院に再諮詢された。□望月316

・10月17日、極東委員会は、「新憲法施行1年以上2年以内に、国会が新憲法を再審査すること、極東委員会が国民投票等を要求できること」を採択した。□西84

・枢密院では、2回の審査の後、10月29日の本会議において、天皇が臨席する中、2名の欠席者をのぞき全会一致で可決され、天皇の裁可を経た。□西86、望月316

 

[1946年11月:後期ー公布]

・11月3日午前11時、貴族院本会議場で日本国憲法公布記念式典が挙行された。天皇の勅語の後、吉田首相、徳川貴族院議長、山崎衆議院議長がそれぞれ奉答文を朗読した。共産党の議員は式典を欠席した。同日、マッカーサーも声明を発表した。□西87-90

・11月3日、公式令(明治40年勅令6号)3条「帝国憲法の改正は、上諭を附してこれを公布す。前項の上諭には、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第73条による帝国議会の議決を経たる旨を記載し、親署の後御璽を鈐し、内閣総理大臣年月日を記入し他の国務各大臣とともににこれに副署す。」の規定に基づき、上諭を付して「日本国憲法」として公布された。□日比野

 

[補論:日本国憲法の英文テキスト]

・1946年11月3日、官報号外に日本国憲法の正文(邦文)が掲載されたのと同日、官報英訳版(英文官報)の号外に英文が掲載された。邦文では第82条(裁判の公開)が第1項と第2項に分けられているものの、英文のArticle82.では、段落分け(項分け)がされていない。□松浦木村414

・内閣官房が作成した冊子“The Constitution of Japan”〔Cabinet Secretariat〕にも日本国憲法の英文テキストが掲載されている。英文官報と比べると、Article82.の誤記がないほか、Article103.のコンマの位置に相違がある。□松浦木村414

 

大石眞『日本憲法史〔第2版〕』[2005a]★

日比野勤「現行憲法成立の法理」大石眞・石川健治編『憲法の争点』[2008]

西修『図説 日本国憲法の誕生』[2012]★

松浦好治・木村垂穂「日本法令の外国語訳資料-英文官報を中心として」名古屋大學法政論集262巻383頁[2015] ※歴史的重要資料の収集・整理・公開という「地味」だが極めて大事な仕事。名大関係者の労作。英文テキストを転載する者は「英文官報による」などと出典を明記すべきだろう。

古関彰一『日本国憲法の誕生〔増補改訂版〕』(岩波現代文庫)[2017]★

大石眞「日本国憲法」筒井清忠編『昭和史講義[戦後篇](上)』(ちくま新書)[2020b]★

望月雅士『枢密院』(講談社現代新書)[2022] ※2022-06-25追記。類書が乏しい中で大変勉強になる。

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