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ナポレオンの生涯(1)

2022-09-17 10:38:37 | 政治史・思想史

[コルシカのボナパルト家]

・フランス本土の南西に位置する地中海に浮かぶコルシカは、13世紀以来、ジェノヴァ共和国に支配されていた。1729年から農牧民を主力としたコルシカ独立戦争が勃発し、1755年には独自の憲法を制定するなど成功裡に展開していた。武装独立運動を指導したのがパスカル・パオリであり、その副官がカルロ・ボナパルトである。□杉本4-5

・1768年、ジェノヴァ共和国がコルシカの統治権をフランス王国(ブルボン家)に譲渡した。翌1769年、フランス軍がコルシカに上陸し、独立派は鎮圧された。パオリはイギリスへ亡命し、カルロはフランスに帰順した。□杉本5

・カルロがフランス支持派に転向した1769年同年、カルロの二男としてナポレオン・ボナパルトが生まれた。カルロは王立裁判所判事の職を得たほか、フランス貴族としての身分を追認された。□杉本5-7

 

[青年将校として]

・1779年、9歳のナポレオンは、コルシカを離れてフランス本土のシャンパーニュ地方にある王立幼年兵学校へ入学した。□杉本8

・1784年、15歳になったナポレオンはパリの士官学校へ進学し、砲兵の兵種を選択した。入学直後の1785年にカルロが死去した。これによってボナパルト家は収入を失ったため、ナポレオンはわずか11か月で士官学校を卒業した。□杉本11-2

1785年、16歳のナポレオンはヴァランス市にある砲兵連隊に着任した。ナポレオンは訓練に従事する傍ら、ヴォルテール、モンテスキュー、ルソーといった啓蒙思想家の著書を愛読し、論説を執筆した。論説では、郷土コルシカのフランスからの解放を訴える一方、フランス国王への忠誠も示された。□杉本12-4

・1786年から1788年にかけて、ナポレオンはコルシカに2度長期滞在した。9歳以来の帰郷であったが、カルロの死去によりボナパルト家の収入は激減しており、所有農地も荒廃していた。ナポレオンは家政を立て直すためコルシカ州長官への請願などを行う一方、読書と論説の執筆にも時間を割き、コルシカの独立を熱弁したと推定されている。□杉本14-5

・1788年9月、ナポレオンはフランス本土のオーソンヌへ戻り、原隊へ復帰した。□杉本15

 

[ブルジョワ革命派への共感]

・1789年5月に約170年ぶりに三部会が開催されると、急速に革命の動きが生じた。ナポレオンは民衆蜂起を鎮圧するため治安出動をし、都市民衆と農民による破壊行為を嫌悪した。他方、ナポレオンは封建的諸権利の廃止に賛同を示したように、その立ち位置はブルジョワ階層側にあった。→《フランス革命の進路(1)》□杉本16-8

・1789年9月、ナポレオンは軍隊に休暇届を出してコルシカに赴いた。ナポレオンの意図は、フランス王国の植民地状態にあるコルシカを、本土からのブルジョワ革命の波に乗って救済することにあった。ナポレオンは革命の宣伝に努め、封建的特権を享受するコルシカの貴族階層を弾劾する宣伝文を広めた。同年、本土の憲法制定国民会議は、コルシカも本土と同じ憲法下で統治することを決めた。コルシカ人が行政を担うことも決まり、コルシカは植民地状態から解放されていった。1790年にはパオリがコルシカへ帰還し、コルシカ県行政府首長に選出された。ナポレオン自身はコルシカの要職には就かなかったものの、ジャコバンクラブの支部「自由と平等の清廉なる友の会」の有力会員となって革命宣伝文書の流布を続けた。□杉本18-21

 

[コルシカとの決別]

・1790年7月、フランス本土の革命派は聖職者民事基本法を制定し、国内のカトリック教会を国家の管理下において聖職者を公務員化した。この政策はローマ教皇や聖職者から非難され、宗教心の熱いコルシカ島民も革命派に反発した。また、国有化された王領地の売却が始まったものの、現実に国有地を購入できたのはボナパルト家のような旧来の支配層やブルジョワ層に限られたため、やはり農牧民は革命派への反感を強めた。革命派内部でも対立が生まれ、島民感情を重視するパオリはフランス本土への反感を強めたが、ナポレオンはブルジョワ革命を推進する立場を捨てなかった。□杉本21-3

・ナポレオンは1791年1月にいったんフランス本土へ戻り、同年9月に再びコルシカへ戻った。1792年4月、国民衛兵隊現場指揮官の選挙がコルシカで行われ、ナポレオンがパオリ派の対抗馬を破って副隊長に選出された。その直後、聖職者の公務員化に反対する島民デモ隊とナポレオン指揮下の国民衛兵が武力衝突し、デモ隊側に死者が出た。パオリ派から非難されたナポレオンは、5月に本土へ戻った。□杉本23-4

・1792年10月、ナポレオンは再びコルシカに戻った。1793年2月、フランスはコルシカの真南に位置するサルデーニャ本島への侵攻を開始し、ナポレオンは国民衛兵大隊を率いて参加した。フランス軍は有利に展開していたが、パオリの甥である遠征軍司令官の指示によって勝利を目前にして撤退した。この撤退によって、国民公会とナポレオンはパオリと決定的に対立することになり、1793年4月2日、国民公会はパオリをパリに召喚することを決議した。パオリはこの決議に猛反発し、5月、パオリ派の島民がボナパルト家を襲撃した。ナポレオンは母や兄弟姉妹を連れて6月にコルシカを脱出した。□杉本26-7

 

[山岳派による庇護と凋落]

・1793年6月、コルシカを脱出したボナパルト家はマルセイユに居を構え、ナポレオンは正規軍に大尉として復帰した。当時のフランス本土では山岳派が国民公会を支配するようになっていたが、ジロンド派と王党派が手を組んで南フランスの主要地方都市を武装支配しており、対外戦争と並行して内戦も展開されていた。ナポレオンは、山岳派を支持する小冊子『ボーケールの晩餐』を執筆し、オーギュスタン・ロベスピエールの信頼を得た。オーギュスタンによってナポレオンは開港都市トゥーロンへ砲兵隊指揮官として派遣され、直ちに少佐となった。□杉本31-3

・当時のトゥーロンはジロンド派と王党派の連合勢力に支配されており、8月以降はイギリス・スペイン連合艦隊も入港していた。12月17日深夜から明け方にかけて、ナポレオンが指揮する中隊がイギリス軍を襲撃し、最終的には要塞を占拠した。これによってイギリス・スペイン連合艦隊は港から脱出した。19日にはトゥーロンの町は共和国軍によって占領され、ジロンド派・王党派が大量に公開処刑された。この功績によって、ナポレオンは、フランス軍史上もっとも若い将軍として24歳にして准将となった。1794年2月、ナポレオンはイタリア方面軍団砲兵隊司令官に就いた。□杉本32-4

・当時、オーギュスタンの兄であるマクシミリアン・ロベスピエールが物価統制を断行し、反対者の逮捕と処刑を続けていた。ナポレオンは、オーギュスタンからパリ国民衛兵隊司令官に就くよう要請されていたが、ナポレオンは慎重にこれを辞退した。1794年7月27日、国民公会多数派によってロベスピエール兄弟が逮捕され、直ちに処刑された。□杉本34-6

・1794年8月9日、ニースにいたナポレオンは、オーギュスタンの庇護者であったことを理由に逮捕された。10日後に釈放され、1か月の禁足を経て自由のみになったが、軍から左遷されたナポレオンは休職を選んで予備役となった。□杉本36-7

・ナポレオンは、1795年4月にデジレ・クラリーと婚約し、8月にはパリの戦争省測地局に就職した。当時のナポレオンは精神的に追い詰められていただろうと推察されている。□杉本37-8

 

[バラスの庇護とジョゼフィーヌとの出会い]

・1795年8月、国民公会は新憲法(共和国3年憲法)を制定した。これにより、立法府は国民公会に代わって五百人会と元老会の二院制となり、執政府は5人の総裁による集団指導制へと移行した。もっとも、国民公会の多数を占めていたポール・バラス率いる穏健共和派は、自らの勢力を残すために国民公会議員の三分の二を抽選で立法府に残す法律を制定していた。10月5日、この「三分の二法」に反対する王党派が蜂起した。これを鎮圧するため、バラスは、ナポレオンを国内軍司令官副官として現場の指揮を任せた。政府軍を指揮するナポレオンは葡萄団を使用して王党派に応戦し、圧勝した。この功績により、ナポレオンはバラスの後任として国内軍司令官に就いた。□杉本39-43

・ナポレオンはバラスらの屋敷で開かれる社交界に招かれるようになったが、バラスの愛人ジョゼフィーヌと知り合った。1796年3月9日、二人は結婚した。□杉本43-6

 

杉本淑彦『ナポレオン』(岩波新書)[2018]


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