[ジェイムズ1世]
1603年、エリザベス1世が死去してチューダー王朝が断絶した。生前の指名に基づいて、イトコにあたるスコットランド国王ジェイムズ6世がジェイムズ1世となってイングランド国王も兼ねることとなり、イングランド(ウェールズとは1536年に合同している)とスコットランドは同君連合となった。ここにスチュアート王朝が始まる。□アルマ66
外国人である「哲人王」ジェイムズ1世は、脆弱な権力基盤を理論武装するため王権神授説を唱えた。この時期の王権神授説は、国王の権力が神に基づく点が強調され、王権の行使に議会が干渉できないと主張された。□アルマ66、田中110-1
ジェイムズ1世に対して、コモンロー裁判所が抵抗した。1610年、ボナムと医師会が対立した事件(ボナム医師事件)において、判事を務めたサー・エドワード・クック(1552-1634)は、議会制定法が医師会に医師への刑罰権や当該罰金の一部を医師会が受領することを認めている点につき、「何人も自己の事件について裁判官となりえないことはコモンローの確定原理である」と述べてボナムを勝訴させるとともに、不条理な議会制定法を無効にすることができると判示した。1612年、新たに設立された高等委員会(=行政裁判所)とコモンロー裁判所の間で管轄権が争われた事件について、ジェイムズ1世が自ら決定しようとした際、クックは、ジェイムズ1世に「国王といえども自ら裁判しえない」「国王はいかなる人の下にもあるべきではないが、神と法の下にはあるべきである」と対抗した。□戒能42-6、今井編158、田中111、佐藤50-4
ジェイムズの命を受けて、1611年に『欽定訳聖書』が刊行された。この『欽定訳聖書』とウィリアム・シェイクスピア(1564-1616)の一連の作品が、近代英語の形成に重要な役割を果たした。シェイクスピアがスチュアート朝下で発表した作品には「オセロ」「リア王」「マクベスなどがある。□今井編144-5,148
クックが大法官府裁判所と衝突したことを理由に、1616年、ジェイムズはクックを裁判官から罷免した。他方、ジェイムズに重用されたフランシス・ベイコン(1561-1626)が、1618年に大法官に就いた。しかし、1621年にベイコンは賄賂を受けたとして下院から弾劾され、大法官の地位を追われて失脚した。□戒能42-6、今井編158,166、田中111
[チャールズ1世]
1625年、チャールズ1世がイングランド国王に即位した。当時の国教会は、カルヴァン派(予定説)とアルミニウス派(反予定説)が対立していたが、チャールズ1世は後者を採用して国教会の教理に取り入れた。さらに国教会はあわせて宗教的祭礼を重視する政策をとった。カルヴァン主義者(ピューリタン)はカトリックに近接する法王教だと批判し、「カトリックの陰謀論」が生まれる。
1628年3月、チャールズ1世は戦費徴収のために議会を召集する。当時、裁判官から議員に転向していたクックが議会を指導し、特別税を承認する代わりに「権利の請願(Petition of Right)」を提出する。これは、古来の権利やマグナカルタに依拠して「議会の同意なき課税の禁止」「恣意的逮捕からの自由」「軍隊の強制宿泊の禁止」「民間への軍法適用禁止」等を確認するものであった。国王はこの請願を裁可したものの、6月に議会を停会した。翌1629年1月に議会が再開されたが、チャールズは3月に議会を再び停会し、以後1640年まで議会は召集されなかった。□戒能45
1633年、国教会の最上席聖職者であるカンタベリー大主教にウィリアム・ロードが就任する。ロードは、国教会にもカトリック的なヒエラルキーを採用すべきだと主張し、これに反対するピューリタンを弾圧した。ピューリタンは、ロードを登用するチャールズ1世への反感も強めた。
1634年、チャールズ1世は船舶税の課税対象地域を内陸にまで拡大し、その増収分をもって軍艦の建造費にあてた。これに反発する大地主ジョン・ハムデンは船舶税の支払を拒否して政府との係争を引き起こした。裁判自体は1638年に政府の勝利で終わったが、政府は国民の信頼を失っていった。この頃、トマス・ホッブズ(1588-1679)はデヴォンシャー伯爵の家庭教師を務めていた。1634年から3回目の大陸旅行に出かけ、フィレンツェ近郊にて最晩年の老ガリレオと面会している。ホッブズが帰国した1637年は、王党派と議会派の対立が最高潮に達していた。
1640年4月、チャールズ1世は戦費を徴収するため11年ぶりに議会を召集する。議会指導者のジョン・ピムは、国王の無議会政治を厳しく批判した。国王側は議会の抱き込みを図ろうとしたが下院がさらに硬化したため、チャールズはわずか3週間で議会を解散した(短期議会)。ホッブズが同年5月9日付で記した『法の原理』が王党派の中で回覧され、「主権はひとつでなければならない」との主張が歓迎された。
対スコットランド戦争への賠償金支払のための費用が必要となったため、同年11月に再び議会が召集され、1653年(形の上では1660年)までつづく(長期議会)。議会は、「議会の同意なき課税の明確な禁止」「大権裁判所の廃止」「枢密院の権限縮小」「国王側近の排除」等を進めた。『法の原理』は直接にチャールズ1世を擁護したものではなかったが、議会派から追及されることを恐れたホッブズは、1640年末にフランスへ亡命した。
1642年1月3日、チャールズは自ら兵士を率いて議場に赴き、議会の中心人物ピムら5名を逮捕しようとしたが失敗した。身の危険を感じたチャールズはロンドンを離れ、国王軍の編成を試みた。王党派と議会派はプロパガンダ活動をつづけ、8月22日にはチャールズ1世がノティンガムに国王軍の集結を命じた。これに対する議会は9月5日に「犯罪者と悪意を抱く不満分子の所領」を差し押さえる旨の布告を出し、両者の分裂は決定的になった。10月末からイングランドで内戦が始まる。議会派はオリヴァ・クロムウェルらが指揮するニューモデル軍が後半の重要な戦いに勝利した。情勢が不利になったチャールズ1世はスコットランドと手を結ぼうとしたが奏効せず、最後は変装してスコットランド軍に身を投じた。1646年7月、国王に見捨てられた国王軍が降伏し、第1次内戦は終わった。
王党派は1648年3月にスコットランドと結んで再び蜂起したが、この第2次内戦は数ヶ月で鎮圧された。同年12月から1649年1月にかけて国王裁判の特別法廷が開かれ、チャールズ1世は死刑となり、1月30日に斬首された。
[共和制]
残党議会は、イングランドとアイルランドの王制貴族制を廃し、5月にイングランド共和国が宣言される。スコットランド長老派はチャールズ2世を担ぎ、1651年に戴冠式を行う。イングランド軍はこれを許さず進軍し、スコットランドはイングランド共和国に吸収された。
フランスへ亡命中のホッブズは、1649年後半から『リヴァイアサン』の執筆に取り掛かる(デカルトと1648年に会ったといわれる)。1651年末、ホッブズは完成した著作をフランス皇太子に献上したが、クロムウェルに媚を売ったものとして猛烈に非難される。ホッブズは同年末にパリを後にし、1652年2月、11年ぶりに帰国した。直ちにクロムウェルの評議会に出席し政権への服従を誓った。
1653年12月、近代的成文憲法「統治章典(Instrument of Government)」が制定されてクロムウェルが護国卿に就任する。ここに「イングランド・スコットランド・アイルランド共和国」が誕生した。
しかし、1658年にクロムウェルが死ぬと立憲軍事政権は機能不全に陥り、1660年に長期議会が再召集された。長期議会は自らの解散を宣言し、革命は終わった。
[チャールズ2世]
1660年5月29日、オランダに亡命中のチャールズ2世がロンドンに凱旋した。この時、チャールズ2世はホッブズを見つけて親しく下問した。「古来の国制(王制、貴族制、国教会)」と家産国家が復活した。フランスでは翌1661年よりルイ14世が即位するが、いとこであるチャールズ2世は親フランス路線を採った。
王政復古(Restoration)後のホッブズは、ロンドンにて読書と思索に耽り、1666年頃には『哲学者と法学徒との対話』を執筆した。同書は絶対的な主権者の権利を擁護して「法律を作成するのは、学識ではなく権威である」と主張し、クックの見解(=コモンローが国王大権を規制できる)を批判した。□戒能47
この頃のジョン・ロック(1632-1704)は、オクスフォード大学にてギリシヤ語の講師をしていた。ちなみに、1660年に王立協会が設立されたところ、ホッブズは入会を拒否される一方、ロックは1668年に入会を許された。ロックはホッブズを避けていたと言われる。
チャールズ2世とカタリナ妃との間に嫡子がなかったため、王位は弟ヨーク公ジェイムスに継承されることが見込まれた。ところが、ヨーク公が少数派のカトリックであることが知れると、1673年頃から、議会内では「ヨーク公の王位継承を認める王党派トーリ(Tory)」と「王位継承を認めない議会派ホイッグ(Whig)」が分かれた。
1679年12月4日、ホッブズが91歳で死去した。
トーリは、ロバート・フィルマー(1588頃-1653)の王権神授説を援用し、国王権力の絶対性と神聖性を説く古い作品を再刊していた。これに対し、ホイッグのシャフツベリー伯は王位継承排除法案を議会に提出し、トーリに対抗していた。ロックはかつて王政復古を支持していたが、1666年からシャフツベリー伯と行動を共にしていた。そしてロックは、シャフツベリー陣営を擁護するため、1683年までの間に『統治二論』を執筆した(この党派的文脈で読み直すと「抵抗権=反チャールズ」とも読める)。シャフツベリー伯はオランダに亡命し、ロックも1683年から1689年までオランダに亡命した。
[ジェイムズ2世]
1685年、ヨーク公がジェイムズ2世として即位した。ジェイムズ2世は、議会との約束に反してローマカトリックを国民に強制し、国教会の七司教を起訴した。
かつてチャールズ2世を支持していたトーリも、ジェイムズ2世のカトリック化政策に抵抗して反国王に転じた。トーリ、ホイッグ両派と国教会の賢人たちは、クーデターを企ててオランダ総督オラニエ公ウィレム3世を招聘した。ウィレムはオランダ軍を率いて1688年11月5日にイングランドに上陸し、ロンドンへ向けて進軍した。この時、ロックもウィレムとともに帰国した。ジェイムズ2世はフランスへ亡命した。
[ウィリアム3世とメアリ2世]
1689年2月の仮議会で「権利の宣言(Declaration of Rights)」を受諾したウィリアム(ウィレム)3世と妃メアリ3世は、イングランドの合同君主として即位した。
この立憲革命における中心的文書が、1689年に成立した「権利章典(Bill of Rights)」である(権利の宣言とほぼ同内容)。前王ジェイムズ2世の悪政が列挙され、「古来の権利と自由」を守るために13項目の事柄が宣言された。国王による法律の停止免除の禁止、宗務官裁判所や議会の同意なき金銭徴収や常備軍の禁止、請願の自由、自衛のための武器携行権、自由な選挙、議会での討論の自由、適正な保釈金と刑罰、正当な方法による陪審員の選定の保障、頻繁な議会召集など。また、王位の順序と、本人or配偶者がカトリックである者は王位から排除される旨も定められた。ホイッグ史観では、これを名誉革命(Glorious Revolution)と呼ぶ。
この体制の特徴:(1)議会主権(sovereignty of Parliament)の憲法原理。議会が毎年開かれることが定例化し、行事(event)から制度(institution)へと変わった。もっとも、国王の大きな権能・影響力、庶民院と対等の貴族院、庶民院自体も旧態依然の選挙制度に基づいた地主的議会であった、という点は注意。(2)著しい伝統志向。正当化のロジックに「古来の権利と自由」「古来の法」が用いられ、法的連続性が強調された。
他方で名誉革命後のイングランドでは、ジェイムズ2世が亡命したフランスからの軍事介入と、それに呼応するジャコバイトの策動がつづいていた。ロックは、祖国イングランドをフランスへの隷属から防衛するとのナショナリスティックな意図から、1689年末、匿名で『統治二論』を出版した。著者がロックであることは公知の事実となったが、彼はそれを明らかにしたがらなかった。
名誉革命の反省から、1701年に「王位継承法(Act of Settlment)」が制定され、自らがカトリック教徒かカトリック教徒と結婚した者は王国及びアイルランドの王冠と政府を保有も継承もできない、と定められた。同法は、2013年に新たな「王位継承法(Succession to the Crown Act 2013)」が制定されるまでつづいた。
1704年10月28日、ロックは74歳で死去した。ロックは遺言の中で、『寛容についての手紙』『統治二論』などが自身の著作であることを認めた。
田中英夫『英米法総論上』[1980] ※2022-6-11追記
ジョン・ダン『ジョン・ロック』[原著1984、加藤節訳1987]
小笠原弘親・小野紀明・藤原保信『政治思想史』[1987]pp164-173〔小笠原弘親〕
今井宏編『世界歴史体系イギリス史2-近世-』[1990]pp171- ※2017-3-11追記
阿部照哉編『比較憲法入門』[1994]pp20-4〔松井幸夫〕
小泉徹『宗教改革とその時代』[1996]pp33-5
川北稔・木畑洋一編『イギリスの歴史』(有斐閣アルマ)[2000]pp67-80〔川北稔〕
加藤節「解説」『完訳統治二論』(岩波文庫)[2010]pp595-619
近藤和彦『イギリス史10講』(岩波新書)[2013]pp113-46
『山川詳説世界史図録』[2014]pp138-9
田上雅徳『入門講義キリスト教と政治』[2015]pp227-36
佐藤幸治『立憲主義について』[2015] ※2022-07-25文献追加
田中浩『ホッブズ』(岩波新書)[2016]pp13-31,54-6,63-65,115-20,123-5
戒能通弘「「法」と法の支配」森村進編『法思想の水脈』[2016] ※2022-06-11文献追加
君塚直隆『立憲君主制の現在』[2018] pp66-71,129-32 ※2022-06-04文献追加
加藤節『ジョン・ロック』(岩波新書)[2018]pp2-33 ※2022-06-04文献追加