2022-12-30:文献追記。
[カルヴァンの生涯]
・カルヴァン(Jean Calvin)は、1509年に北フランスで出生した。フランソワ1世が設立した王立教授団に在籍したカルヴァンは、セネカの註解書を出版して古典研究者としてデビューした。□田上173-5、佐々木毅119-20
・当時のフランス国内には、ドイツから宗教改革を訴える文書が数多く輸入されていた。カルヴァンのキリスト教への関心は1533年頃から始まり、「突然の回心」をして宗教改革運動に参与することを決心した。□田上175、佐々木毅119-20
・当時の国王フランソワ1世は、当初、ハプスブルグ家との対抗から神聖ローマ帝国内のルター派諸侯の意向に考慮する必要があったため、改革思想の進展に比較的寛容であった。しかし、1534年にカトリックのミサを激しく攻撃する檄文が多くの都市に一斉に張り出される事件が起きると(檄文事件)、フランソワ1世は激怒してプロテスタントの迫害を始めた。□佐々木真53、林田167-8
・フランスを追われたカルヴァンは、1536年に主著『キリスト教綱要』を発表する。同年にジュネーヴを訪れたカルヴァンは、同地を本拠地とした宗教改革運動に尽力した。カルヴァンは、『綱要』の改訂、聖書註解の執筆、教会での説教、各地の宗教改革者との連絡、神学論争、宗教亡命者の世話を行い、1564年に没した。□田上175-6、佐々木毅119-20、佐々木真53
[善行と律法の強調]
・カルヴァンも、ルターと同様に「隠れたる神(Deus abscondius)」を主張し、原始キリスト教への回帰と人間の卑小さを強調した。もっとも、ルターが一方で神の愛を説いたのに対し、カルヴァンは激烈に神の全能性と人間の無力を説く。この神観念と人間観から「予定説」が導かれる。カルヴァンにとって、神の意図や世界の設計図を理解しようとする営みは理性の傲慢に他ならない。□SS126-7〔小笠原〕、小野118-9
・カルヴァンにおいて、キリスト教徒の生活全体は、その行為や存在が、神にふさわしいものへと作り替えられていく「聖化(sanctification)」のプロセスそのものである。カルヴァンにおいても、福音主義の遺産である信仰義認説(=人々は、行為の正しさではなく、ただ信仰のみによって神から正しい存在だと認められる)が維持される一方、「義認(justification)」は聖化のための起点と位置付けられた。□田上176-80,160
・「信仰義認説を維持しつつも聖化を意識する」というカルヴァンの論理構成は、カトリックの説く善行主義とは異なる意味で「キリスト教徒は善行をすべきである」との帰結を生み、逆説的に予定説と奴隷意志説を緩和していくことになる。ここで、行為を規律する基準は神が設定した律法に求められた。□田上180-2、小野119-20、宇野88、小泉27-9
問126 しかし善い行いをしなくても、わたしたちは義とされたことを信じることができますか。
答 それは不可能です。なぜなら、イエスキリストを信じるとは、わたしたちに与えられたままに彼を受け入れることです。かれはわたしたちを死から解き放ち、御自身の罪のないことの功績によって父なる神の恵みの中にわたしたちを入れる約束をしただけでなく、聖霊によってわたしたちを新しく生まれさせ、聖なる生活をさせる約束をしました。(中略)
問131 神は、わたしたちが自らを律するために、どのような規則を与ましたか。
答 神の律法です。『ジュネーヴ教会教理問答』[1542](石引正志訳)pp445-6
[峻厳かつ自律した教会]
・カルヴァンは、「地球上に分布していて、ひとりの神とキリストを崇めると告白している人々の総数」として、可視的な教会の重要性を説いた。その教会は、世俗の裁判権とは独立の制裁権を有する峻厳なものだった。1541年に制定した「ジュネーヴ教会規則」と呼ばれるプロテスタント教会法では、「長老会」が教会員の生活を監督指導すること、不品行・瀆神・異端の疑いをかけられた者は長老会を経由して官憲に引き渡されることが提唱された。この意味で、カルヴァンによるジュネーヴ統治は、祭政一致的な不寛容な恐怖政治とも評価しうるものだった。□田上183、佐々木毅121、小野121、宇野88-90
・カルヴァンは教会の自律性にも自覚的であり、国家が教会に介入することを排除した。教会内の紛争処理は審級性とし、どのレベルでも判断を下すのは合議体とした。□田上183-4、SS127-8〔小笠原〕
[世俗権力の承認・抵抗権の否認]
・カルヴァンの同時代、宗教改革急進派(Radical Reformation)・再洗礼派(Anabaptist)が勢いを増していた。彼らはルターの後継者を自認し、真のキリスト者には政府も法も必要ないと主張してヨーロッパ各地で一揆を起こした。□SS128〔小笠原〕
・カルヴァンは急進派の主張に与せず、『綱要』の献辞では、自身の福音主義は急進派のそれとは無関係であると弁明した。カルヴァンにとって、教会は神の言葉が何であるか・何が異端であるかを決定する一方、国家・為政者は教会と協調して真のキリスト者を保護して異端を抑圧するために必要な存在とされた。すなわち、官憲は、旧約聖書において「神々(Deux)」と呼ばれる神的権威を与えられた神の代官であった。□田上176-7,184-5、佐々木毅122-3、SS127-8〔小笠原〕、井口146-7
この世の政治権力が神からの召しであって、ただ神の前に聖であり、正当であるだけのものではなく、もっとも神聖なものであり、この死すべき人生において、きわめて尊ぶべきものであることは、もはや何びとも疑うべきではない。『キリスト教綱要』[1536(フランス語最終版は1560)](渡辺信夫訳)p236
人間のあいだにおける政治秩序の有用性は、パンや水や空気のそれに劣らないということ、さらに、政治の価値はそれらのものよりはるかに優越している。『キリスト教綱要』[1536(フランス語最終版は1560)](渡辺信夫訳)p233
・カルヴァンにとって、仮に悪しき為政者が登場したとしても、それも神の裁きの現れであって、臣民がそれに抵抗することは認められない。臣民はこの神の裁きを甘受しつつ、自らの罪を悔い改め、為政者の変更を神に祈るほかない。□佐々木毅124-5、SS127-8〔小笠原〕、田上185、井口149-52
公けの益のために支配するものは、主の恵みの真の例証であり、鏡である。そして、不正な、無節度な支配をするものは、やはり主によってその民の不義を罰するために起こされたものである。すべてこれらのものは、ひとしく正当な権力を与えられ、聖なる威厳を帯びている。『キリスト教綱要』[1536(フランス語最終版は1560)](渡辺信夫訳)p259
…官憲の権威…がもっともふさわしくない人のうちに置かれ、かれらができるかぎりその権威を汚しておろうとも…われわれには、ただ服従し、忍耐することのほか、何ごとも命じられていないのである。『キリスト教綱要』[1536(フランス語最終版は1560)](渡辺信夫訳)p265
・もっとも、カルヴァンの意図にかかわらず、宗教と政治の結びつきを強調するカルヴァン主義は、カルヴァンの後継者であるテオドル・ド・ベーズ(1519-1605)の抵抗権論を生んだ(後述)。□SS〔小笠原〕130-4、小野119,121、宇野91-3
[フランス国内の宗教戦争(1):内戦前夜]
・フランスにおけるカルヴァン派は「ユグノー(Huguenot)」と呼ばれ、1540年代からフランス全国に普及した。1550年代には改革派教会として組織された。最盛期である1560年代、フランス国内のプロテスタントは200万人に及び、貴族も多く含まれていた。□佐々木真53、柴田79-80、佐々木毅127-8、林田168
・カトリシズムを支持する強大な王権(フランソワ1世、アンリ2世)は、貴族層にカルヴァン主義が広まりつつあることを危惧し、プロテスタントへの弾圧を強めていった。当初、少数派であるプロテスタントは、カルヴァンの教えに忠実に王権への反抗を否定した。□佐々木真53、柴田79-80、佐々木毅127-8
・1559年にアンリ2世が事故死すると、フランソワ2世のわずか17か月の治世を経て、10歳のシャルル9世が即位し、その母后カトリーヌ・ド・メディシスが摂政となった。カトリーヌはカトリック派とプロテスタント派のいずれにも与せず、全国三部会の開催などを通じて両派の融和を図った。□佐々木真54、柴田79-80、佐々木毅127-8、井口154
[フランス国内の宗教戦争(2):三極の戦い]
・1562年3月1日、カトリック派のギーズ公フランソワが日曜礼拝に集まったプロテスタントを虐殺した。これをきっかけに「宗教戦争(ユグノー戦争)」と呼ばれる内乱が始まった。宗教戦争は、ギーズ公が指導するカトリック派、コンデ公ルイ1世やコリニー提督が指導するプロテスタント派、カトリーヌが指導する王権の三極に分かれた。プロテスタント派は、「ギーズ家が王権を簒奪している」「王国基本法(=王が幼少の場合には筆頭王族が摂政となる)が無視されている」という世俗の国制を根拠として武力行使に及んだ。このプロテスタント派の抵抗に対し、晩年のカルヴァンは、私人が世俗権力へ武力抵抗することを一貫して批判しつつも、筆頭王族であるナヴァル王が指導するならばその抵抗を容認すると述べた。□佐々木真54、柴田79-80、佐々木毅127-8、井口154
・内乱の中で王国は分裂を深めていったが、カトリック派とプロテスタント派を融和するため、プロテスタント派の指導者となったブルボン家のアンリ(後のアンリ4世)とシャルル9世の妹マルグリットとの結婚が決められ、1572年8月18日に婚礼が執り行われた。しかし、その直後の「サン・バルテルミ」の祝日である8月24日、カトリック派のギーズ公アンリと王権は、コリニー提督の屋敷を襲撃して殺害し、さらにルーヴル宮に呪撃していたプロテスタント派の貴族数十名を処刑して、王族のナヴァル王アンリとコンデ公アンリを軟禁状態に置いた。これを受けて、パリの民兵と民衆がプロテスタント派への無差別虐殺を開始し、フランス全土で1万人が死亡した(サン・バルテルミの虐殺)。□佐々木真54-8、柴田80-1、詳説259-60、小泉13
[フランス国内の宗教戦争(3):三アンリの戦い]
・虐殺に衝撃を受けたプロテスタント派の改宗や亡命が相次ぎ、残ったプロテスタント派は、カトリック派との和解の断念とそれに与する王権との徹底抗戦を目指す「暴君放伐論(モナルコマキ)」を主張した(後述)。1574年にシャルル9世が死亡し、弟のアンリ3世が即位した。□佐々木真56-7
・プロテスタント派のナヴァル王アンリは監禁下でカトリックへの改宗を強いられたが、1576年に宮廷を脱出し、プロテスタントに再改宗した。同年、カトリック派を指導するギーズ公アンリは、スペイン王フェリペ2世の支援を受けて「カトリック同盟(リーグ)」を結成した。□佐々木真56-7、林田171
・1584年にアンリ3世の弟アンジュー公フランソワが死亡すると、第一王位継承者の地位にナヴァル王アンリが就くことになった。この事態に衝撃を受けたギーズ公アンリはアンリ3世に圧力をかけた。アンリ3世は、1585年にプロテスタントの礼拝を禁止する「ヌムール協定」に調印し、さらにナヴァル王アンリの権利喪失が宣言された。この結果、内乱が再開された(三アンリの戦い)。□佐々木真57
・カトリック同盟はパリなど諸都市の指示を集めてその勢力を増し、1588年にパリを占拠した。この事態を恐れた国王アンリ3世は、1588年12月に全国三部会が開催されていたブロワでギーズ公を暗殺し、パリ代表を逮捕した。翌1589年、アンリ3世はナヴァル王アンリと面会し、彼を正式な王位継承者と認め、共同で進撃してパリを包囲した。□佐々木真57-8、柴田80-1、詳説259-60、小泉13
・パリ攻撃の直前、ドミニカ会の修道士によってアンリ3世が暗殺され、ナヴァル王アンリがブルボン朝の第一代王アンリ4世として即位を宣言した。□佐々木真57-8、柴田80-1、詳説259-60、小泉13、林田171
[フランス国内の宗教戦争(4):ナントの勅令]
・アンリ4世の即位後も、カトリック同盟はブルボン枢機卿を立てて新国王シャルル10世と称して対抗し、諸都市もカトリック派を支持した。アンリ4世は諸都市の攻撃に苦戦し、パリの攻略もできなかった。□佐々木真58-9、柴田80-1、詳説259-60、小泉13、高山46
・1590年にブルボン枢機卿が死去するとカトリック派は新王選びに手こずった。次第に、カトリック派の中でも平和的解決を目指す現実主義の「ポリティーク」と呼ばれる勢力がアンリ4世を認めるようになっていった。アンリ4世は、カトリック同盟を構成するスペイン勢力、貴族、民衆組織の内部対立を奇貨として、1593年7月にカトリックに改宗し、1594年にパリへ平和的に入場した。□佐々木真58-9、柴田80-1、詳説259-60、小泉13、高山46
・アンリ4世はカトリック貴族を次々と服従させ、1598年、「和平勅令(ナントの勅令)」に署名した。和平勅令は一定地域におけるプロテスタントの礼拝や教育・結婚を認めたものに過ぎなかったが、これによって36年に及んだ内乱は休戦した。□佐々木真58-9、柴田80-1、詳説259-60、小泉13、高山46
[モナルコマキとポリティーク]
・宗教戦争を通じ、プロテスタント派は自らの信仰を擁護するために君主への抵抗を正当化する多数のパンフレットを巻いた。その作者や理論を総称して「モナルコマキ(monarchomachi):王殺し」と呼称した。カルヴァンの後継者であるベーズは、最高の為政者である君主が宗教を侵した場合、下級の為政者は君主に抵抗する権利を有している、と説いた。□SS〔小笠原〕130-4、小野119,121、宇野91-3、高山61
・アンリ4世が即位すると、カトリック派(リーグ)がモナルコマキの抵抗権論を借用し、アンリ4世への抵抗を説いた。□高山61
・カトリックのうち主に法律家からなる穏健派は、宗教問題より政治的安定を主張するようになり、リーグからは「ポリティーク」と蔑称された。ポリティークは、宗教戦争を収めるために強力な王権を求めた。ポリティークの最大の理論家であるジャン・ボダン(1529/30-96)は、宗教戦争最中の1576年に『国家論』を記して「主権」概念を提示した。□SS〔小笠原〕135-40、宇野94-7、佐々木真59、高山44-5,62-3
国家(Republique)とは、多くの家族とそれらに共通の事柄に対する、主権的権力を伴った正しい統治である。『国家論』第1巻第1章
主権とは国家の絶対的で永続的な権力である。『国家論』第8章
・同じくポリティークに属するモンテーニュ(1533-92)は、「三アンリ」の調停役として奔走し、人間理性への懐疑的考察から宗教戦争を批判して「寛容政策」を説いた。主著『エセー(essai)』は1580年に出版され、モンテーニュが1592年に死ぬ間際まで加筆された。□宇羽野178,190、高山46-8
わたしは、こうした現象を、わが国の熱狂的な党派で最初のもの(=ユグノー)のうちに著しいのを実感した。そして、その後生まれた別の党派(=リーグ)は、前者を模倣しながらも、これを凌ぐこととなった。そこで私は、これは民衆の謬見と不可分の特質だと気づいたのである。最初に、ひとつのあやまった考えが出てくると、あたかも嵐の動きで波が起こるように、さまざまな謬見がせめぎ合いを演じることになる。それらに反対して、全体の波の動きとともに右往左往しないような人間は、世間から除け者になる。『エセー』第3巻第10章
わたしは、そのような融通のきく判断力をもつことはできない。昨日はもてはやされてたのに、明日はもはやそうではない善とは、川一本越すと犯罪になる善とは、はたして何だろうか? 山が境界をなして、山の向こう側では虚偽となるような真理とは、いかなるものだというのか? 『エセー』第2巻第12章(レーモン・スボンの弁護)
片方の党派に正義があるといっても、それは飾り物の口実にすぎない。…このたびの戦争では、人間が導き手となって宗教を利用しているのだ。『エセー』第2巻第12章(レーモン・スボンの弁護)
佐々木毅『近代政治思想の誕生』[1981] ※積読からようやく脱した名著。思想史も現実政治も学内学外行政もやる著者は化物。
小笠原弘親・小野紀明・藤原保信『政治思想史(有斐閣Sシリーズ)』[1987] ※小笠原執筆部分の切れ味。
木下康彦・木村靖二・吉田寅編『詳説世界史研究』[1995]
井口吉男「カルヴァンー政治秩序の正統性と抵抗権」藤原保信・飯島昇藏編『西洋政治思想史1』[1995]
宇羽野明子「モンテーニュー幻想なき服従」藤原保信・飯島昇藏編『西洋政治思想史1』[1995] ※2022-01-29追記:エセーを入手せねば…
小泉徹『宗教改革とその時代』[1996] ※記述は著者の専門であるイギリス史にやや偏っているか。
柴田三千雄『フランス史10講』[2006]
宇野重規『西洋政治思想史』[2013]
小野紀明『西洋政治思想史講義ー精神史的考察』[2015] ※6頁の分量にルターとカルヴァンのエッセンスが凝縮されている。
田上雅徳『入門講義 キリスト教と政治』[2015]
佐々木真『〔増補新版〕図説フランスの歴史』[2016]
林田伸一「近世のフランス」福井憲彦編『フランス史上』[2021] ※2022-12-30追記。
高山裕二『憲法からよむ政治思想史』[2022] ※「高」はハシゴ高。2022-12-30追記。有益。