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バークの政治思想

2016-10-15 01:31:32 | 政治史・思想史

エドマンド・バーク(1729-1797)はアイルランドに生まれた。父は法律家でありイギリス国教徒、母はアイルランドの名門ネーグル家出身でありカトリックであった。

1750年にロンドンに出たバークは、父の期待に反して法律家の道をあきらめて文筆活動で身を立てることを決めた。1757年に出版した『崇高と美の観念の起源』は、美学史上、最初に「崇高」という観念に本格的に着目した著書として知られる。同書はカントにも刺激を与えた。

1759年、バークはホウィグ派の一員としてイギリス政界に進出する。1765年には下院議員となり、同年のロッキンガム政権誕生によって政界の中枢へ出たが、わずか1年で下野した。バークは、ロッキンガムとともに国王ジョージ3世への対決姿勢をとり、後は長い野党生活を送った。

バークは、スコットランド出身のアダム・スミス(1723-1790)やデイヴィット・ヒューム(1711-1776)とも交流を持った。1748年のモンテスキュー『法の精神』を愛読し、ヴォルテールやルソーにも関心を抱いた。

 

[アメリカ独立問題での植民地擁護]

1773年、植民地アメリカでは茶法への反発からボストン茶会事件が起きる。硬化するイギリス世論の中で、バークは植民地を擁護する論陣を張った。

・アメリカ人はイギリス流の自由を愛している。その自由はイギリスの歴史の中で築かれたものであって、アメリカ人の自由を否定することは、祖先の偉業を否定することに等しい。もしアメリカに課税すべきものがあるならば、自ら課税するように任せるべきである。アメリカ人から自由を奪う統治は長続きしない。「アメリカ人に自由が許されぬことを証明しようとする我々は、必然的に自由そのものの価値を軽んじる破目に陥らざるをえない」。

・イギリス議会は全帝国を統御すべき立場にある。しかし、本国のみの利害のみを重視してはならず、帝国全体の調和を安全を顧みる必要がある。

 

[政党論]

バークの属したロッキンガム派ホウィグは、明確な野党路線をとった。議会外にて影響力を行使するジョージ3世とその側近を批判する中で、バーク『現代の不満の原因』(1770年)は「政党party」に積極的な意義を与えた。

・政党とは、国家利益の促進のために、ある共有原理に基づいて統合する人間集団である。単なる一時的利害で結びついた派閥とは区別される。

・民衆の指示を得て政権を担った際には政党メンバーが公職に就く。定期的な政権交代への期待が政党のモラルを維持する。

 

[国民代表論]

当時のイギリスでは、選挙民と議員の関係性につき、議員は選挙民の指令に従属すべきという委任代表論と、議員は選挙民の意志とは独立して自由に行動すべきという国民代表論とが対立していた。バークは、ブリストル演説(1774年)において「国民代表」という観念を明らかにした。

・特定選挙区から選出された議員であっても、選挙区の特殊利害ではなく、イギリス国政全体に責任を持つべきである。「諸君は確かに代表を選出するが、一旦諸君が彼を選出した瞬間からは、彼らはブリストルの成員ではなくイギリス議会の成員となるのである」。

 

 [フランス革命批判]

隣国フランスで起きた旧体制の崩壊を見て、1790年11月、バークは『フランス革命の省察 Reflections on the Revolution in France』を出版する。きっかけは、フランス人青年ドゥポンの依頼であった(冒頭にその旨の記載がある。半澤訳p5)。ところが、革命擁護を望んだドゥポンの期待に反し、『省察』は反革命の聖典となった。このフランス革命への自覚的な対応として「保守主義」が誕生する。

イギリスにおける1689年のウィリアム3世即位は、突発的な事態であったものの、法的連続性が強調されて王位継承法の範囲内(例外的事態)として処理されている。結果として王国の基本的原理が維持(回復)され、歴史的に継承されてきた「イギリス人の権利」が確認された。保守するためには変更しなければならないという保守主義の信条。

  • <何らか変更の手段を持たない国家には、自らを保守するconserve手段がありません。そうした手段を欠いては、その国家が最も大切に維持したいと欲している憲法上の部分を喪失する危険すら冒すことになり兼ねません。イングランドに国王がいなくなった王政復古と「革命」という二つの危機的時期に際して、保守と修正の二原理は力強く働きました。>半澤訳p29
  • <これまで我々の行ってきたすべての改革は、昔日に照らすという原理の上に立っています。今後あるいはなされるかも知れないすべての改革も、先例や権威や実例との類比の上に注意深く行われることを願っています。いやそう確信しているのです。>半澤訳p41

・ところが、フランス革命はこれと異なり、過去との明確な断絶として実行されている。歴史的権利を持たない抽象的な「人間の権利」に立脚している。自らの過去や父祖の行いに対する敬意をもつことで自己への尊敬を育むにもかかわらず、フランス革命の精神は自己蔑視に他ならない。

  • <フランスの建築師達は、目に入るものはすべて、単なるがらくたとして一掃してしまい、そして、彼らの装飾庭園師にも似て、すべてをまったく同じ水準にした上で、地方と中央の全立法組織を一つは幾何学的、一つは算術的、一つは財政的という別々な三種の基礎に立脚させるよう提案しました。…それは別に立法上の偉大な才能など必要としません。この種の計画のためには、正確な測量技師が鎖と照準器と経緯儀さえ持っていれば、それで十分です。>半澤訳pp218-9
  • <…フランスの空中冒険家共の気狂い染みた飛行の後に従おうとしたりするよりは、イギリス憲法という確固たる地面にしっかりと立って、讃美の眼を上げることでむしろ満足しようではありませんか。>半澤訳p313

・下院は民意に支えられており、政治は民衆の訴えに耳を傾けるべきである。しかし、国王は王国の時間を超えた連続性を体現するものであって、王位継承法によってその地位が決定されるべきである。その時々の民意の選択という不安定な基盤に王国を立脚させるべきではない。 

  • <…千年前の王が其処此処でどうであろうと、またイングランドなりフランスなりを現に治めている王朝の始まり方がどうであろうと、今日この時代、グレートブリテンの国王は、彼の国土の法律に従い、確固たる継承規則によって王なのです。>半澤訳p21
  • <現在に到るまで我々は、取るに足る程の民主主義の実例を見たことがありません。…絶対的民主政は絶対的王政に劣らず正統な統治形態には数え難いという彼らの意見に同意せざるを得ません。…民主政において、多数者市民は少数者に対して最も残酷な抑圧を加えることができます。>半澤訳p158

・人間の理性は脆弱であり、裸の理性のみですべてをゼロから構築しようとすることは驕りである。共同体の中で他者との交流を通じてつくりあげられた歴史的所産である「偏見prejudice」や、「習慣」で補完される必要がある。偏見のうちで第一のものが教会制度であり、家庭の親しみ・先祖への敬意と相まって国家に対する親しみを支えている。 

  • <彼らは自ら探し求めていたものを発見した場合ー実際失敗は滅多に無いのですがー偏見の上衣を投げ捨てて裸の理性の他は何も残らなくするよりは、理性折り込み済みの偏見を継続させる方が遥かに懸命であると考えます。何故ならば、理性を伴った偏見は、その理性を行動に赴かしめる動機や、またそれに永続性を賦与する愛情を含んでいるからです。>半澤訳p111

・あらゆる権利は歴史的に認められてきたものであり、「時効」「相続財産」として尊重される必要がある。これを時々の権力が恣意的に奪うことは暴力に等しい。

 

[バークの保守主義]

(1)保守すべきは具体的な制度や慣習(→イギリス国制British Constitution)である。抽象的な理念ではない。

(2)その制度は歴史的に形成され、世代を超えて維持継承されてきた。

(3)制度(英国国制)を守ることで、人々の自由(歴史的に認められてきた諸権利)を守り、権力の専制化を防ぐことが重要。

(4)社会や政治の民主化を前提としつつも、急進的革命ではなく、秩序ある漸進的変革を目指す。

 

※『フランス革命の省察』は、みすず書房の半澤孝麿訳新装版[1997]。他の引用は孫引き。

勝田吉太郎・山崎時彦編『政治思想史入門』[1969]pp167-90〔勝田〕

小笠原弘親・小野紀明・藤原保信『政治思想史』[1987]pp214-8〔小野〕…有斐閣双書で勝田、有斐閣Sシリーズで小野という、最強師弟が同じ項目を担当。ページ数の違いは執筆時の時代背景か、それとも両者の関心の差か(例えば小野『西洋政治思想史講義 精神的考察』[2015]にはバークの名前が見当たらない)。
 
川出良枝・山岡龍一『西洋政治思想史』[2012]pp177-9〔川出〕
 
曽我部真裕・見平典編著『古典で読む憲法』[2016]p92〔上田健介〕

☆宇野重規『保守主義とは何か』[2016]pp8-13,21-62

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