古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

日向、薩摩の国を尋ねて 2015年5月30日

2015年06月04日 11時26分11秒 | 古代史の舞台を訪ねて
古代出雲王家の血を引く方々の 古代史舞台を九州南部に尋ねました。
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日向の国
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都萬神社  西都市妻
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3世紀中ごろ 徐福の子孫九州物部家のイ二エ王が第二次東征を決意される。
このお方は出雲王家第七代大名持ち天の冬衣の皇子吾田片隅が豊国へ移住して始められた宗像家の姫君
市杵島姫と徐福の間の長男 穂穂出見の子孫である。

イ二エ王は築紫から南進し薩摩で阿多津姫を娶られて日向の地に都萬国を打ち立てられた。
阿多津姫はイクメ皇子を生まれてこの地で短命な人生を終えられる。

都萬神社はこの阿多津姫を祀る神社である。記紀では「此花咲くや姫」と書き換えられたこの姫の皇子の
イクメが成長して 東征し 大和の磯城王朝を苦労の末に打ち倒して物部王朝を打ち立てられたのだ。

イクメ大王(贈り名は垂仁)が祀られているイクメ神社はのちほど尋ねる。
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まずはじめに訪ねたのが 古代和国の首都 都萬国の都萬神社
西都市の中ほどにこんもりとしたもりがある。
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都萬神社境内
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鳥居を潜って境内へ入る。
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正面に拝殿
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本殿を横から見たところ。もちろん大社造りではなく、九州物部式だ。
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都萬の字が「妻」の字に変わってしまった地名もある。交番の入口左の看板は妻になっている。
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西都原古墳群  西都市
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イ二エ王は阿多津姫亡き後、豊王国の豊玉姫を皇后に迎えられて 都萬豊連合王国を打ち立てられて、
第二次東征を宣言される。

第一次東征に参加した物部の子孫の豪族たちも、当時の大和磯城王家の衰退ぶりと内乱に嫌気を指して
次々に西都原後に集まり始めた。

物部の十千根(魏書にも出てくる 後の出雲王国占領軍司令官)や武内太田根(高倉下の子孫でのちの武内の宿禰。
子孫が平群王朝を創る)
そして朝鮮渡来人ヒボコの子孫 田道間守などである。

当時の和国では大和の磯城王朝、出雲の出雲王朝をしのぎ 和国最大の都市国家となり、着々と東征準備を整えていた矢先
イ二エ王はこの地で病に倒れられる。

その意思を引き継ぎ東征を決行したのが 豊玉姫(魏書に出てくる二人目のヒミコで魏の和国駐在武官
張政から直接和国王を任じられたお方)とイ二エ王の息子イクメ王なのである。

その西都原の豪族たちの古墳が集まるのが王家の丘 西都原古墳群である。
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広い台地に沢山の古墳が点在している。
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数が多すぎてすべては見て回れない。
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比較的大きい者を見て回ったが説明はいっさい書かれていない。
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中に宮内庁の看板がひときわ目立つ場所がある。
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オサホメサホ塚とかいてある。
わざわざ宮内庁が保護しているのだから、ここが西都原の創始者イ二エ王と阿多津姫のお墓であると直感した。

豊玉姫は東征の途中 安芸の宮島で病死されて、宇佐八幡の二ノ宮に祭られていてここにはいらっしゃらない。

また九州から一度も出ずにこの血で病に倒れ 無念の死を遂げられたイ二エ王は記紀では大和の大王に祭り上げられて
ご丁寧に宮内庁により、崇神稜として 天理市にお墓まである。実際のお墓の主は 当時の地元の大豪族 出雲系の登美家の
当主の墓なのであるが。

あまりにも立派なので宮内庁が勝手にイ二エ王の墓にすりかえているのであるが。
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この古墳群は小高い台地の上にあり、西都の街を見下ろせる場所にあり、まさに王家の丘にふさわしい場所だ。
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現在の西都の街並。
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小戸神社  宮崎市末広
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日本全国の神社の神職が挙げる祝詞には「築紫の日向 橘の小戸の阿波岐原で禊たまひし
イザナギの大神 。。。。。」となっていていつも不思議に思っていたのは
なぜ築紫の日向なのかということと、小戸へいつかたずねてみたいものだということだった。

徐福が紀元前2世紀末に和国に二度目に上陸したのが築紫なのである。(一度目は石見の国五十猛海岸)
その子孫のイ二エ王が東征すべく南進して阿多津姫を娶り、日向の国に都萬国を打ち立てて、
阿多津姫がイクメ皇子を産んで産湯を疲らせたのが 小戸という言い伝えから

「築紫の日向橘の小戸」というわけの分からん地名の羅列になったらしい。(斎木雲集書 古事記の編集室)

と言うことでぜひ訪ねてみたかった場所である。
出雲王家の血を引くイクメ皇子が産湯を浸かった場所といわれているのである。
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小戸神社境内
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小戸神社拝殿
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拝殿の内部
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神社の由緒書き。もともとは海岸にあったけど流されたので現在の地に移設されたのだそうだ。
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生目神社  宮崎市生目
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生目神社は道路標識にもあり、またこの地域一体が 生目という地名なのだ。
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参道を歩いていく。
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参道の両側には 休憩所やみやげ物屋がある。
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鳥居の奥が生目神社拝殿だ。
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神社の由緒書きに「イクメ王を祭っているという説がある」とあり 安心した。
なにせ日本全国の神社の由緒書きは ほとんどが「作り話の記紀」に基づいているので、祭神があやふやな者が多い。
古代出雲王家の方々を祭る、出雲や畿内の神社でさえそうなのだ。

このイクメ大王の名前に「イサチ」とついているのは 彼が実際に魏に朝献に行ったときの名前がイサチなのだ。
そのため魏から中朗将の位と錦の襷を授かっている。

そしてよく読むと イクメ大王の皇子のオシロワケ(景行大王)が九州に遠征してきたときに
父君イクメ生誕のこの地に 父君を祀る生目神社を建てたと書いてある。
 一説ではという但し書きがあるものの、真実が書いてあるので大いに安心した。

 記紀ではイクメ大王を「活目入彦五十狭茅天皇」と称している。天皇と言う名は
天武が言い出した言葉なので、イクメの頃は大王(おおきみ)と読んでいたので
記紀の嘘がばれてしまうのだが、しかし 記紀もたまには本当のことを書くときもある。

活目入彦とは生目(イクメ)の地から大和入りした事を 示しているのでこれは真実だ。

そして彼は五十狭茅(イサチ)の名前で義理の母親豊玉姫皇后(魏書にかかれた二人目のヒミコ)
の命で 魏に朝献にいっているので イサチと言う名前も真実なのだ。

しかし記紀はイクメ大王が若かりし頃 自ら魏へ朝献に行ったことは、つまり和国が魏の属国だったことは
絶対に秘密にしているのである。

まあその気持ちは 分かるけど 大和朝廷やその取り巻きの豪族たちのほとんどは
(出雲王家の分家の 磯城家、登美家以外は) 出雲王家の血が濃厚に入っているとはいえ、元をただせば
ほとんど皆さん方は 秦国人徐福の子孫と徐福の忠実な部下の秦国人穂日の子孫なのである。
(穂日の子孫が今の出雲大社宮司なのである。)

秦国人の子孫たちが 自分たちの祖先が 支那の魏の属国だったことを恥としているのは なんか おかしいね。 
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薩摩の国
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鹿児島神宮 鹿児島県隼人市隼人町神宮
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この橋を渡り境内へ進む。
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大きな神社だ。さすがに神宮というだけはある。
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本殿脇に「豊玉彦」が祀ってある。豊玉彦とはこの神社主祭神 の豊玉姫の父君と書いてある。

しかしおそらくは、豊玉姫の長男の豊彦(後に豊来入彦と言われ、記紀では豊鍬入彦と書き換えられた。
また記紀でウガヤフキアエズとも書かれた方だ)のことだと思われる。
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拝殿はとても大きい。
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内部はとてもきれいで豪華な装飾だ。
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神社の由緒書き。

ホホデミー徐福と市杵島姫の長男と豊玉姫ー魏書に書かれた二人目のヒミコ のお二人が主祭神 だ。
この両方ともに出雲王家の血を引くお方なのだ。
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紀元前二世紀末に 石見に上陸した秦国人徐福は 和名を火明かり(ほあかり)と名乗り、出雲王家の高照姫を娶り、
長男五十猛(後の香語山)をもうけた。

そして一旦秦国に帰国して 秦の始皇帝から更なる資金と海童たちや技術者をもらいうけて 再び和国(当時の支那では蓬莱島といった)に来る。

二度目に和国の佐賀浮杯に上陸した徐福は 饒速日(にぎはやひ)と名乗り 筑後平野に住み着く。
そして宇佐の宗像三姉妹の末娘姫の市杵島姫を娶り、穂穂出見(ホホデミ)をもうける。

ホホデミが九州物部家を起こし、その子孫 彦渚武の息子物部の五瀬や、物部のミケイリ、物部の稲飯達が第一次東征を実施する。

それらの物部家が大和入りしたにもかかわらず、大和の大豪族登美家(出雲王家の大和分家)に飲み込まれてしまったのを見た
物部のイ二エ王(崇神)は第二次東征を決意して築紫から南下して日向に 都萬国を打ち立てる。

阿多津姫を病気で亡くしたあと 宇佐の豊王国豊玉姫を皇后に迎えて 都萬豊連合王国を打ち立てて イ二エ王と阿多津姫の息子
イクメ皇子が東征して 大和入りして大王となるのである(垂仁)。

つまりこの鹿児島神宮は 物部の始祖ホホデミと 魏書に書かれた有名な二番目のヒミコの豊玉姫を祀っているのである。

この豊玉姫こそが 当時魏の和国駐在武官 テイシュンから当時の伊都国(和国の迎賓館と大使館があった場所)で
直接親魏和王の印鑑と錦帯を授けられた唯一の和国女王なのである。錦帯を肩から斜め掛けにした豊玉姫は
とても威厳があったと魏書に書かれたそうである。

もっとも和国が一時的にせよ 支那の属国だったことを隠したい後の大和朝廷や記紀の編集責任者藤原不比等らは
 徹底してそれらを隠しているが。

ちなみに 魏書に出てくる最初のヒミコは モモソ姫である。
「その女王が立つと 和国の争いは納まり 平和が訪れた」 と 魏書に書かれたのがモモソ姫である。

巻向の大豪族出雲系の登美家当主太田田根子の庇護を受けて モモソ姫は三輪山に太陽の女神を祭り 
季節の大祭には各地から豪族たちが大勢参加して巻向の都が大いに栄えたといわれる。

またイクメ大王の皇后 ヒバス姫も 265年に晋に使者を送り 晋書に名前が載ったヒミコは
ヒバス姫皇后である。

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