古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

いわゆるヒミコについてのまとめ 第一のヒミコ モモソ姫 その3

2021年04月07日 12時22分14秒 | 古代史の舞台を訪ねて

モモソ姫 その3 

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大彦は銅鐸を飾り、農業神を祀ることを続けましたが 次第に物部勢に押されて ついに大和を出て

三島に退去します。三島は出雲王家第八代副王八重波津身(記紀では事代主と書かれた)の后の一人

玉櫛姫(別名活玉依姫)の出身家の三島家の領地でしたが 出雲王家の領地になっていて、

このころは登美家の領地になっていました。

三島にいたころに大彦は密かに出雲王家に来て 援軍を頼んだそうですが 出雲王家は

九州物部家が再度東征するという噂があり そのために兵力を避けない」と断ったそうです。

そして以後は富家の名前を使わないように申し入れたので、大彦は以後摂津国三島郡の阿武山に

ちなんで 「阿部」氏と名乗ることを富家に約束したという。

大彦は出雲王家の血を引いていることを誇りにしていて 一時は富彦と名乗ったこともあり、大彦の皇子は

事代主の后の一人沼川姫の名前を取り「沼川分け」と名乗りました。

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阿武山です。昔の摂津国三島郡の阿武山は 現在は高槻市になります。

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次第に強力になった物部軍は 幾度も大彦を攻めて、大彦はついに北へ向かって退却します。

大彦は野洲から北陸を通り 信濃へ行き更級郡布施に住みその地で亡くなり、邸宅跡には布施神社が建てられました。

布施神社は大彦と天の冬衣(古代出雲王朝第七代主王で事代主の父君ー出身は東王家の富家)が主祭神です。

また沼川分けは東海方面から伊豆に移り住みその地に 「三島」の地名が出来ました。

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負ければ賊軍となり、大彦達は蝦夷と呼ばれたり、葛城地方の曾大根(現大和高田市)で育ったので

幼名を中曽大根彦(なかそおねひこ)と名乗りましたので 記紀では「長脛彦(ながすねひこ)」と書かれて 

しかも数百年前の架空の大王の神武東征時の敵にされたり 無茶苦茶な扱いです。

大彦たちは 出雲国教の幸ノ神三神を信仰していたので その主神クナト大神の名前から自分たちの国は

「クナトの国」といったので 「クナ国」と呼ばれました。 

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話はヒミコに戻ります。

物部に抵抗し続けた大彦勢が大和から去り、クニクル大王の次に物部の血を引く大日々が大王となります。

大日々(のちの贈り名は開化)は物部の血を引くので 物部勢と妥協して添上郡春日(奈良市白毫寺町付近)

に宮殿を作り政治を行いました。

 

母クニアレ姫の跡を継ぎ 三輪山の太陽の女神を祀る姫巫女となったモモソ姫は 登美家勢力に守られて

司祭を続けました。モモソ姫の人気は次第に高まり、モモソ姫が司祭する春と秋の大祭には 

大日々大王をはじめとして大和中の豪族が参列し、遠方からも泊りがけでたくさんの地方の豪族が参列しました。

こうした政治方式が磯城王朝時代のヤマト王国の政治方式で祭政一致とよばれます。

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神武天皇像です。大台ケ原の山中に立っています。神武東征はこの地を通ったそうです。

地理を熟知していた八咫烏こと 登美家当主加茂建津之身は わざわざ大台ケ原の山中を通らずとも

熊野川沿いに北上して、伯母峰峠を越えて吉野川沿いに下り 磐余の地に入ったと私は思いますが。

まあ困難多くして大和入りしたと 言いたいのでしょう。

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磐余の地名は 今も桜井市に残っています。

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磐余の道もあります。

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「磐余の道」にはこんなレトロな雰囲気の場所もあります。

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大祭の前後の期間には 三輪山麓の扇状地(現桜井市太田)の巻向にはたくさんの宿舎が建てられて

遠方から来た各地の豪族が寝泊まりしました。その地はそれ以前から ヤマトの大豪族登美家の領地であり、

姫巫女の住む場所とされていて ヒミコの宮殿も建てられていました。

登美家第九代当主の太田田根子は出雲王家神門臣家から美気姫を奥方に迎え、登美家クニアレ姫の

愛娘のモモソ姫を支え続けました。太田の地名は太田田根子からきています。

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今の巻向駅周辺です。

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各地の豪族たちは自分たちの地元の土器に土産物を入れて持参し、巻向の神殿に捧げました。

神殿では 物部式と出雲式の折衷的な祭りが行われました。

榊を根から抜き取って 枝に鏡(物部式の神獣鏡)をぶら下げましたが 光る面を参加者に向けて

太陽の女神(出雲式の日霊女貴ーひるめむち)のご神体とされました。出雲国教の幸ノ神では

男神として根の付いた木を用い、根は男性器のシンボルでした。鏡の丸い形は女性器のシンボルであり、

女神のシンボルでした。

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「一人の女を選んで女王としヒミコと名付けた。神霊に通じた巫女で神託により国を治め人々を心服させた。

弟がいて 祭りごとを補佐した。」と魏書に書かれましたが 弟ではなく、登美家当主の太田田根子

のことです。

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当時は魏の駐在武官は九州の伊都国までしか入れず、和国の国情は通訳を通じてすべて聞かされたことを

記録したもので 駐在武官が直接会ったのは 二番目のヒミコ 宇佐豊玉姫だけです。

親魏和王とされたのは 二番目のヒミコの豊玉姫でモモソ姫ではありません。

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三輪山です。隣の大鳥居は大神神社の大鳥居です。

今はJR三輪駅周辺ですが 昔はこの辺りも巻向だったのでしょう。弧文板や弧帯石がこのあたりから

出土しています。(桜井市埋蔵文化センター資料)

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桜井市箸中の畑の中の畦道を歩いていくと 鳥居が建っています。
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宮内庁の立て札があり、それを読むと思わず噴出しました。

「大和トトビモモソ姫」の墓だと書いてある。なんのこっちゃ??。


しかもこのわけの分からん姫君は、磯城王朝第七代フトニ(考霊)大王の皇女だと書いてある。

大和姫とモモソ姫という 全く時代の違う二人の皇女姫巫女を並べてくっつけて書いてあるのです。

つまりこの墓が大和姫の墓なのか、モモソ姫の墓なのか分からないと宮内庁は公にしているのです。

 

今まで述べてきたように モモソ姫は磯城王朝第八代大王のクニクル(孝元)と登美家クニアレ姫との皇女であり

大和姫は初代物部王朝大王イクメ(垂仁)と磯城王朝最後の大王第十一代大王彦道主の皇女ヒバス姫との

皇女であり 約100年ほど離れてはいますが 二人とも父親が大王の れっきとした皇女です。

このお粗末な宮内庁の歴史観は なんとかしないといけませんね。

二人の姫にも失礼だし、二人の父親の大王にも失礼でしょう。

 

おまけに 宮内庁は 大和姫の漢字に 卑字を当てています。

宮内庁が れっきとした大王(後の天皇)の皇女に 卑字を使うなんて 信じられませんよね。

いまだに支那人たちが日本人を蔑んだ蔑字をありがたがっているようでは話になりません。

 

宮内庁の人たちも もっと日本の歴史を勉強して 日本人に誇りをもたなくちゃあ。

もう今は日本は支那の属国ではありません。イクメ大王が支那と連絡を絶ち和国が支那を離れて

もう1700年になろうとしているのに 宮内庁はいまだに大王家の姫に卑字を使い続けているなんて、

不謹慎ですよね。ある意味馬鹿ですけど。 
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以上が 一番目のヒミコ モモソ姫が登場した時代背景と 当時の状況です。

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次は第二のヒミコ 宇佐豊玉姫です。

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※歴史内容については すべて斉木雲州先生はじめ 大元出版のすべての本を参考にしました。

雲州先生もご了解済みです。またすべての写真は私が自分で撮りました。

またウワナリ打ち神事の絵は 雲州先生の本から引用しました。

また地図はMapionから引用しました。

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