古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

ヒバス姫伝説の地 比婆山を訪ねる 2015年6月6日

2015年06月13日 11時01分48秒 | 古代史の舞台を訪ねて
ヒバス姫は 約300年続いた大和の磯城王朝最後の大王「ミチヌシ大王」の皇女であり、
もちろん出雲王家の血を引くお方である。

第二次東征で 大和に乗り込んできた九州物部家のイクメ王(このお方も宗像家の市杵島姫ひいては出雲王家の血を引くお方である)
にミチヌシ大王は負けて 皇女のヒバス姫は イクメ大王の皇后となられる。

そして父君ミチヌシ王は彦タツヒコと名を変えて因幡国造となられて因幡へ行かれて
生涯を終えられる。

ヒバス姫皇后は265年に晋の国へ 朝貢されるが 晩年父のご遺体を大和へ運ばれて
大きな古墳を築かれる。天理市の和邇下神社東の東大寺山古墳である。

またヒバス姫ご自身も 大和の地に埋葬されて大きな古墳が築かれる。みな出雲系野見の宿禰 の子孫で
土師氏と呼ばれる集団の築造と出雲古老に伝わる。

ヒバス姫の御陵を尋ねた記録はこちらです。
http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/e/47906ea050aaa8d2c1c7608f3e25f1b2

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記紀ではヒバス姫は イザナミの命のモデルとされ、イクメ大王はイザナギの命のモデルとされた。

そして父君の終焉の地因幡の地の西の比婆山に イザナミの命が埋葬されたという作り話が書かれた。

その比婆山を歩いてみた。
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広島県民の森は広島県、島根県の県境の森だ。公園センターからブナの森を上っていく。
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途中から 登山道というか参道は石段になる。比婆山は「御陵」と表記してある。
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参道途中には どう見ても手水桶のような石が置いてある。
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岩に絡みついた「門栂もんとが」と呼ばれるイチイの木から奥が聖域だという。
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山頂標識にも御陵と書いてある。
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小さな祠がある。
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七本のイチイの巨木に囲まれた岩が御陵だという。
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標高1264mのこのあたりは、島根県の大膳原や吾妻山への道や、縦走していくと烏帽子山や出雲峠への道が交錯する。
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御陵の説明文。イザナミの命の御陵だと書いてある。
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比婆山の伝説を説明した看板。

明治政府の田舎侍どもが比婆山を御陵と呼ぶのを禁止したと書いてある。

全くあの知識教養の無い田舎侍どもは 山岳修験道を禁止したり、神仏分離令や廃仏毀釈令を出して 幾多の貴重な仏像を燃やしたり
日本の歴史の恥で 闇を作った張本人どもだ。

程度の低いやつらが権力を握るととんでもないことになるいい例だ。
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もともとイザナギ、イザナミの命は出雲の地で作られた神だ。

イクメ大王の東征にあわせて 九州から日本海を東進した豊王国軍勢と朝鮮人ヒボコの子孫田道間守の軍勢は
相次いで古代出雲王朝の西王家 神門臣家と東王家向家を滅ぼす。頑強な守りのとりでの尺店を敵に教えて物部豊連合軍を
手引きしたのが 秦国人徐福と共に渡来した穂日の子孫唐日狭であり、その功績によりイクメ大王から唐日狭は出雲国造家にしてもらう。

第17代で終わりを告げた出雲王家の旧宮殿に駐留した物部十千根は宮殿を改造して饒速日(徐福)を祀るカモス神社とする。

しかしイクメ、オシロワケ、ワカタラシと短命に終わった物部王朝のせいで 十千根の子孫秋上家は支持基盤を失う。
そこで秋上家はカモス神社を向家に返そうとするが 向家に断られる。

そこで秋上家は古代出雲王朝の信仰のクナト大神、佐毘売の命をイザナギ、イザナミの命と書き換えて
カモス神社に祀る。それが今の松江市の神魂神社(かもすじんじゃ)だ。
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持統女帝が藤原不比等に命じて作らせた記紀は 自分たちが渡来人の子孫であることや、出雲王朝を倒した征服王朝であることを隠すため、
また和国が魏や晋の属国であったことを隠すために さまざまな嘘と作り話で記紀を塗り固めた。

もちろん各地の風土記は古事記が書かれた後で製作されたため、記紀と内容が異なる記事はすべて削除された。

そしてもちろん出雲風土記はあの穂日の子孫唐日狭やウカツクヌが編集したもので 自分たちの祖先が出雲王家の第八代主王
八千矛(記紀では大国主と書かれた)や第八代少彦八重波津身(記紀では事代主と書かれた)を幽閉殺害したことは
いっさい隠している。

大国主、事代主が幽閉殺害された場所は こちらです。
http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/e/f4ea65d35648dfaec19543d2603822d3

ちなみに今の出雲大社宮司が徐福の忠実な部下の「穂日」の子孫である。
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