古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

いわゆるヒミコについてのまとめ 第一のヒミコ モモソ姫 その2

2021年04月03日 23時02分32秒 | 古代史の舞台を訪ねて

モモソ姫 その2

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親戚である出雲王家が 突然卑ボコ子孫勢に吉備、播磨を占領され、出雲王家の救援要請に

動かなかったくせに、フトニ大王は今度は突然吉備播磨に攻め入り、卑ボコ子孫勢を追い出して 

自分がその後釜に座りました。フトニ大王は それほど吉備の鉄が欲しかったのでしょうか。

それとも物部の東征情報を聞いて ヤマトから逃げ出したのでしょうか。

多分後者だと思われますが。

鉄が欲しいだけでは 大王自ら出陣しないとおもいますが。

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「真がね吹く」が吉備の枕詞になったのはそこで良質の鉄が取れて 盛んに野踏鞴(のだたら)で鉄が生産されたからです。

ちなみに「かね」とは出雲族の祖先ドラビダ族の言葉のドラビダ語で鉄を現し、「たたら」

とはドラビダ語で激しく燃える炎を現すそうです。また出雲国教幸ノ神三神のうち 皇子神の

サルタ彦大神のサルタとはドラビダ語で「鼻が長い、鼻が大きい」意味で つまりインドの

象神「ガネーシャ」のことです。

時代が下ると猿田彦と表現されますが 猿の神ではありません。

また鼻が大きいので 男性器の象徴とされ、子孫繁栄の生殖の神とされました。

建御名方(古代出雲王朝第八代副王八重波津身ー記紀では事代主と変えられたーと沼川姫との皇子)

が開拓した信濃諏訪地方では サルタヒコは子孫繁栄の生殖の神、夫婦和合の神とされ 今も道祖神として 

たくさん残っています。

※「諏訪地方を開拓した出雲族」については このブログの2019年12月21日の記事をご覧ください。

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信州白馬村の田頭という場所の手握り夫婦神像です。
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こちらは出雲王朝第六代大名持の臣津野を祀る、出雲市長浜神社の幸ノ神三つ鳥居の手握り夫婦神像です。

上の白馬村の手握り夫婦神像とそっくりですね。
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こちらは白馬村佐野中村という場所の祝言夫婦像です。
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こちらが 白馬村の道祖神です。
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石像は手を取り合っているように見えます。つまり手握り夫婦神像です。
それと直立した男根をもつ木の像がいくつか 奉納されていました。
これはまさしく猿田彦ですね。
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ということで 信濃の国には出雲族の風習文化が 色濃く残っていることを説明しました。

そのほかにも御柱の共通点とか、詳しくはこのブログの2019年12月21日の記事をご覧ください。
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そのころ九州物部王家は物部五瀬(いつせ)を大将として 第一次東征を決行し 紀ノ川河口から大和入り

しようとしますが 高倉下(たかくらじー徐福の長男五十猛と出雲王家大屋姫との皇子で初代ヤマト大王天の村雲の

腹違いの弟、)の子孫の豪族 名草の戸畔(なぐさのとべ)に撃退されて五瀬は戦死します。

 

五瀬の弟の物部稲飯、三毛入りたちは 熊野へ転進し 熊野川沿いに大和入りしようとしますが

磯城家の兵隊のゲリラ戦法で身動きが取れず 物部の大軍は熊野川の中州に留まり続けます。

その地が後に 熊野本宮大社になります。(今の場所ではなくて 明治の大水害で流された大斎原(おおゆのはら)です)

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竈山神社   五瀬は和歌山の竈山神社に祀られて その訪問記は2015年9月8日に載せています。

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大斎原 熊野川河口近くにあり かつてこの地に熊野本宮大社がありましたが

明治の大洪水で流失し、今は鳥居だけが建てられています。

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困り果てた稲飯と三毛入りは ひそかに登美家へ使者を送り大和へ 物部軍をひそかに案内してくれるように頼みます。

登美家当主の賀茂建津之身(かもたてつのみ)は戦乱の続く大和を物部とともに平定しようと考えて 物部軍を案内して

熊野川沿いに北上、磐余(いわれ)の地(登美家の領地)に案内します。これが第一次東征で 物部軍は加茂建津之身に大いに

感謝して彼を「八咫烏(やたがらすー支那の神話に出てくる太陽の中に住むカラス)」と呼び 各地に八咫烏神社を建てます。

※記紀の制作者は三毛入りと稲飯のどちらが物部軍の大将か分からないので 物部ウマシマジなる人物を作り上げて

そいつを磐余彦と名付けました。そして初代大和の大王「天の村雲」を消してその磐余彦と名付けられた

物部ウマシマジを初代大和の大王、神武大王としました。

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浜王子神社 説明看板を読むと 物部三毛入りと稲飯の二人を祀っています。

記紀では絶対に出てこない名前の二人です。

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八咫烏神社 奈良県宇陀市榛原

登美家当主 加茂建津之身に感謝した物部軍は各地に八咫烏神社を建てました。

これはその一つです。

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ヤタガラス神社の由緒書きです。


熊野に上陸した九州物部軍を磐余の地へ導いた、加茂建津之身(賀茂建角身)を祀っているとかかれています。


そして賀茂建角身は山代の加茂族の祖と書いてある。かなり正確です。

まあ記紀に迎合したところは 少しあるが、神社の由緒書きの中ではかなり上出来のほうです。
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記紀制作者たちにとり、困ったことに古代出雲王朝の存在を「なかったことに」しなくては 大王家が

万世一系の王朝とはならないのです。

記紀編纂者は不比等の指示で 前後100年近く離れた2回にわたる物部の東征を一つにまとめて神武東征

としました。そしてその東征を古代出雲王朝の最初の紀元前5世紀までさかのぼらせたので 数百年も

歴史が引き延ばされました。そのために 大王の在位期間が200年近い人が何人も出てきました。

そして足りない大王を補うために 九州を一度も出たことのないイニエ王(第二次東征を始めた九州物部の王)を

大和の大王にしてしまい ご丁寧にのちに贈り名を崇神とつけてしまい、ついでに嘘の上塗りで ヤマトにたくさんある

登美家の墓の一つを崇神陵としてしまいました。

また三韓征伐で有名な息長帯比売(神功皇后)の家来の豊前中津彦を 大王に格上げして大王を増やしました。

後の贈り名は仲哀です。そうしないとつじつまがあわないからです。一度嘘をつき始めると 嘘を嘘で上塗りしないと

自分で自分の首を絞めることになるのです。宮内庁の存在も記紀の内容そのものに 基づいているので

そうしないといけないのです。

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しかし三韓征伐の第一の立役者の日向襲津彦大王を記紀では大王にしていません。大王が足りないのに。

記紀では 魏書を読んだ和国民に 息長帯比売ー神功皇后を「ひみこ」と思わせるために 立役者の

襲津彦大王の存在を消して 息長姫が一人で活躍したように見せかけたのかもしれません。

私個人の考えですが。不比等のような陰険なやつは何を考えていたか分かりませんが。

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伯耆の国で出雲王国軍と戦争をしていた磯城王朝のフトニ大王はこの時点で ヤマトの大王ではなくなり

伯耆の国の王となりました。フトニ王軍と出雲王国軍とは自然に休戦状態になり、フトニ王は

皇后の細(くわし)姫を追い出して 地元の愛人と余生を送ります。

彼が住んだ土地の山は のちに彼の贈り名をとり 孝霊山と名付けられました。

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孝霊山山頂から弓ヶ浜半島の先に美保関がみえます。事代主の后の一人沼川姫が住まれたところです。

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高杉神社の「ウワナリ打ち神事」斉木雲州先生の「古事記の編集室より」

フトニ王亡き後このあたりで大飢饉が発生したそうです。人々はこれはてっきり フトニ王が

地元の愛人におぼれて追い出した本妻の細姫(くわしひめ)の祟りだと言って、付近に住む後家さんたちを集めて

棒で叩いて 細姫の恨みを晴らしたところ 飢饉は収まったそうで 以後毎年これを高杉神社の神事として

行うようになったということだそうです。「ウワナリ」とはこの地方で 後妻さんという意味だそうです。

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※孝霊山登山記録はホームページの「その他の山」からはいり「アウトドア日記」の2016年

11月22日の記録に載せています。

愛人と住んだその住居跡に建てられたのが 高杉神社です。2016年11月22日の記事に載せています。

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磐余の地に落ち着いた物部は態度を豹変させて 登美家や尾張家を迫害し始めます。

さすが秦国人徐福の血を引く 恩知らずの集団ですね。

伯耆の国へ去ったフトニ大王(のちの贈り名は孝霊)には 細姫以外に別の姫との間にクニクル皇子がいて 

クニクルが磯城王朝の第八代大王になります。

クニクル(のちの贈り名は孝元)は登美家のクニアレ姫との間に 大彦皇子、モモソ姫をもうけ、

物部の姫(ウツシコメ姫)をも迎え入れて その姫との間には 大日々皇子がいました。

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クニアレ姫は登美山の登美の霊畤で太陽の女神を祀る姫巫女でした。その娘のモモソ姫も信仰心厚く

クニアレ姫に続いて登美の霊畤の姫巫女に推挙されます。姫巫女は登美家か磯城家の姫しかなれませんでした。

モモソ姫の兄の大彦は 徹底した物部嫌いで 最後まで物部と戦い続けました。

戦闘の神「フツの御霊」を祀る物部と 銅鐸を吊り 農耕神を祀る大王家や尾張家との宗教戦争でした。

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モモソ姫 その3へ続く

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※歴史内容については すべて斉木雲州先生はじめ 大元出版のすべての本を参考にしました。

雲州先生もご了解済みです。またすべての写真は私が自分で撮りました。

またウワナリ打ち神事の絵は 雲秀先生の本から引用しました。

また地図はMapionから引用しました。

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「古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて」のトップページはこちらです。

http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html

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