古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

佐毘売山(俗称三瓶山)麓の迩幣姫(にべひめ)神社と物部神社 2016年11月20日

2016年11月29日 11時24分22秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて
今回の古代出雲王朝ゆかりの地を廻る旅は 
1.迩幣姫神社、2.物部神社、3.大屋姫神社、4.五十猛神社、5.富神社、それと6.高杉神社を回ります。
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佐毘売山(佐姫山)は古代出雲王朝では 重要な山でした。
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古代出雲王朝の国教は 幸の神三神であった。つまりクナト大神、佐毘売のミコト、それに皇子神の
サルタ彦です。ちなみに サルタとは古代インドのドラビダ語で鼻の大きいとか鼻の長いという
意味で つまり今のヒンドゥーの「象神 つまり ガネーシャ」のことです。

クナト大神は 大神山(おおがみやま)に祀られました。そして大神山は いつの間にか「大山(だいせん)」なんて
俗っぽい名前に変えられて、「大神山神社(おおがみやまじんじゃ)」だけにその名前が残っています。

佐毘売のミコトはもちろん佐毘売山に祀られました。明治時代の陸軍の陸地測量図にも「佐毘売山」
と書かれていたそうで、何時誰が 「三瓶山さんべさん」なんて陳腐な名前に替えたのでしょう。

2500年も続いた 出雲族に親しみのある佐毘売山を復活して欲しいものです。

そして皇子神のサルタ彦は 鼻が高い山すなわち 出雲北山の鼻高山(はなたかせん)に祀られて居ます。
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物部神社へ向かう途中、たまたま「布引池」の前を通りかかりました。
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池の中に鳥居があるのでびっくり。車を止めて良く見ると、
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神社の名前は「迩幣姫神社(にべひめじんじゃ)」というのだそうです。

説明を読むと 西暦684年(日本書紀が世に出る少し前)に佐毘売山の噴火で西側が崩れて
布引池ができたそうです。そのとき 3この瓶が飛び出て 一つは これから向う物部神社へ落ちて
二つの瓶が この池の東側に沈んだそうです。

それからこの池が付近の農作業に欠かせない水を供給するようになったので、二瓶の女神をまつり
二瓶姫(迩幣姫にべひめ)と言う名前の女神にしたらしいのですが、この三つの瓶が飛び出たという
御伽噺を誰が作ったのか わかりませんが 明治以降に程度の低い奴らが この話に飛びついて
佐毘売山を三瓶山に変えたようです。

その程度の低い奴らは 恐らく幸の神三神など 知る由もなく まして佐毘売のミコトがなにものなのか
全く知らなかったのでしょう。

また知っていて あえて変えたとしたら、どういう輩かは大体想像がつきます。

物部の子孫の系統か、もしくは 徐福の忠実な部下で穂日の子孫である韓日差など 物部政権成立に
影で協力し 出雲王朝滅亡の手引きをした 穂日の子孫たちでしょう。その手柄で穂日の子孫果安は
物部イクメ大王(垂仁)から出雲国造にしてもらったのですから 出雲王朝の名残をこの地方から
消してしまいたいはずです。

※ ちなみに穂日の子孫が今の出雲大社宮司です。 
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そして二つのビンのお姫様なんてわけ分からん姫と同時に 祭られているのを読んでびっくり仰天。
なんと出雲王家の九州分家、宗像家の宗像三姉妹なのです。

田紀理姫(たぎりひめ)とは三姉妹の長女、田心姫(たごりひめ)の事で 日本書紀でこう書かれました。
田心姫は 第七代出雲主王(役職名大名持ち)の天の冬衣に嫁がれて 八重波津身(第八代副王ー
役職名少彦、後に徐福と穂日に幽閉殺害されて 記紀では事代主と書かれた)と高照姫をお産みになりました。

高照姫こそ 徐福の第一次和国渡来後 彦火明り(ひこほあかり)と和名を名乗った徐福に出雲王家から嫁がれたのです。

宗像三姉妹の次女多岐津姫(たぎつひめ)は 第八代出雲主王八千矛(やちほこー後に徐福と穂日に幽閉殺害されて
記紀では大国主と書かれました)に嫁がれて 味鋤高彦(あじすきたかひこ)をお産みになり 
さらにその妹姫皇女で大屋姫がお生れになります。

大屋姫は 徐福の長男「五十猛(いそたけ)」に嫁がれて 高倉下(たかくらじ)をお産みになります。

宗像三姉妹の末娘が市杵島姫(いちきしまひめ)で記紀には、狭依理(さより)姫と書かれました。
市杵島姫こそ 徐福が出雲から一旦秦国へ帰国して、秦の始皇帝からさらに 大量の資金と海童たち、
そして技術者たちを もらい 二度目に佐賀の浮杯に上陸してから 宗像家から迎えた姫が 市杵島姫なのです。

そして九州では饒速日(にぎはやひ)と名乗った徐福(記紀では素戔嗚すさのお と書かれました)との間に
生まれたのが 穂穂出見で、物部家の始祖なのです。そしてその妹の穂屋姫と 五十猛との間に生まれた天の村雲こそが
大和に進出して、既に大和に地盤を築いていた 出雲王家の大和分家の登美家、高鴨家の協力で
大和の初代大王となられたのです。

※ 記紀では天の村雲の名前は 完全に消し去られて居ます。そして神武と言う架空の名前の人物になっていますが
二代目の沼川耳から玉手看、スキトモ、カエシネ、クニオシヒト、フトニ、クニクル、オオヒビまでは
そのまま実名で掛かれていますが その後はオホド大王までグチャグチャです。このブログのはじめのほうを読んで頂くと
そのグチャグチャの史跡を訪ねた記録があります。

そして今回の出雲訪探では 第七代フトニ大王(孝霊)の神社も尋ねます。
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五十猛が 腹違いの妹の穂屋姫との間に生まれた 天の村雲が初代大和大王になったことは
記紀の作成を指示した 持統女帝の気に入らなかったのでしょう。当時でも腹違いとはいえ
兄妹で 子供を作るのはタブーだったのかもしれませんねえ。持統の気に触ったのでしょう。

つまりこの三ビンの話と 二ビンの話は記紀が出来た後で 記紀に寄り添うように 出雲の気配を消して
藤原不比等ら 政権の中枢に ゴマすりをするため創られた事が想像できます。

尤も記紀の内容に合わない各地の風土記は 書換えさせられたり 焼却処分させられたので
記紀によりそうしかなかったのは分かりますが。

つまり この話を作ったのは 出雲王国内で 国造でありながら、完全に浮いていた 穂日の子孫たちなのでしょう。
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布引池の周りを見渡しても 神社の建物は見当たりませんでした。松江に来たくしてネットでしらべると
どうやら、池の南東隅の島にあるようです。機会があればまた訪ねてみたいと思います。
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この池の周りの集落には 土蔵に「龍」の鏝会がありました。これは 古代出雲王国内で 幸の神三神とともに
信仰された 龍蛇神信仰の名残です。
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池の近くのダムは 「佐毘売湖」と名前がついていました。山も佐毘売山に 戻して欲しいものです。
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続いて 物部神社を尋ねます。
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九州物部王家はイクメ王を中心とする勢力が 日向の西都原を出発し、瀬戸内海を東進し、吉備で 
吉備王国と激戦を繰り広げていました。

一方九州物部家別動隊は 曙立王(この方は出雲王家親戚の大和登美家の方です)と 宇佐王家の
菟ノ上王たちの軍勢が 穂日の子孫の導きで 出雲郡の手薄なところを通り 西出雲王家「神門臣家」に
攻め込み、激戦の末当時の第十七代出雲主王山崎タラシ大名持ちを降伏させました。 

一方物部軍の田道間守(たじまもり)は 朝鮮辰韓の王子ヒボコの子孫ですが ヒボコが西暦150年頃に
出雲王国に上陸しようとして 大名持ちから「出雲の法律を守るか」と聞かれ 拒否した為上陸を断られて
但馬の丸山川上流へ行き 苦労して湿地帯を開拓した事を 恨んでいたのです。

田道間守は東出雲王家の向家の霊畤(祭祀場所)の田和山神殿を急襲し、激戦の末に破壊して 大和へ向います。
当時の出雲王朝少彦は 富太田彦で後の野見の宿禰 です。

大和入りしたイクメ大王の言う事を聞かず 自分が大和王の様に振舞う 田道間守に手を焼いた 
イクメ大王に請われて 富家太田彦は 野見太田彦と名前を変えて (そのまま富性を名乗ると登美家に反感を抱いていた
大和の豪族たちに気を使ったといわれて居ます)出雲兵を率いて大和入りしました。

そして 田道間守の兵を蹴散らした 野見太田彦は イクメ大王に感謝され 物部の重鎮の称号「宿禰」と
領地を大和に貰い野見の宿禰 として 有名です。

しかし記紀では 野見の宿禰 と但馬のケハヤ(當麻のケハヤ)の相撲話に
置き換えられました。戦争が 大相撲の起源に変えられた ばかばかしい記紀の作り話です。
自分たち大和朝廷が 渡来人の征服王朝の子孫だという事を隠すため そんな戦争などあってはならないのです。

田和山神殿跡は 松江市の遺跡公園として 公開されています。
沢山の壊れた武器と 痛んだ遺骨が発掘されました。激戦を物語る物です。
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物部神社は その九州物部軍の東征の日本海東進舞台の 石見本陣のあとに建てられました。 
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物部神社はとても大きな神社です。大きな鳥居を潜ります。
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正面に立派な拝殿が見えてきます。
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注連縄は出雲式の太くて短い注連縄と違います。
出雲式の注連縄は 龍蛇神信仰の 蛇神を現すといわれて居ます。
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拝殿の奥に 本殿が見えます。
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本殿は奇妙な作りです。出雲式の妻入りですが 大社造の九本柱ではなくて 12本柱のように見えます。
また大社造のように 階(きざはし)で妻入りするのではないようです。
春日造りのようにも見え 大社造りを真似たような 奇妙な建物のようです。
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石見一ノ宮(石見の国で一番古くて権威あるお宮)というだけあって 立派な神社です。
創建1500年とありますが 物部東征は西暦246年頃に始り その本陣跡が神社になったといわれるので
1500年は 妥当な数字かもわかりませんね。
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この社の主祭神 は 鶴に乗ってこの地に降りてきたと書かれています。
ということは 主祭神 は地元のお方ではなくて 遠くからやって来たお方だといっているのです。
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神社の由来書を呼んでさらに驚きました。なんと 物部ウマシマジだというのです。
ウマシマジは 記紀が創り上げた架空の人物です。
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物部第二次東征の約120年ほど前に 九州物部軍の第一次東征がありました。

彦渚武王(ひこなぎさたけ)の3人の皇子達が 瀬戸内海を東進しました。紀ノ川の河口から大和入り
しようとして 河口付近で 紀の国国造家高倉下の子孫の名草姫たちの強烈な反撃で 長男物部の五瀬は戦死します。

五瀬は戦死したその場所に葬られ、和歌山竈山神社が創建されて 今も子孫たちが守り続けていらっしゃいます。
その竈山神社を後ほど紹介します。

一旦紀伊水道へ引いた残りの物部軍は 南下して熊野から上陸しますが、ここでも磯城家のゲリラ戦で前進出来ず
熊野川河口に 留まり続けます。その跡が熊野本宮大社です。

困り果てた物部軍は さらに九州久米地方から兵力を増強しました。そして 大和へ密使を送り 登美家の「加茂建津之身」に
道案内を頼みます。加茂建津之身が 物部軍を先導して 熊野川沿いに進み 無事に磐余(いわれ)の地に落ち着きます。

もちろん磐余は登美家の領地で、今も櫻井市磐余付近には「トビ」と言う地名がたくさんあります。

感謝した物部軍は加茂建津之身を「ヤタガラス」として 末代まで感謝したという事です。
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熊野に上陸した物部軍は 五瀬の弟の 物部稲飯(いないい)と三毛入(みけいり)ですが
どちらが大将なのか良く分かりません。困った記紀製作者は 物部ウマシマジという架空の人物を創り上げました。
そのウマシマジが この物部神社の主祭神 だというのです。

稲飯と三毛入たちは 磐余に落ち着いて 「磐余彦」と呼ばれました。

記紀では この物部東征の 第一次と 第二次を一つにして 架空の大王「神武」を創り上げて
「神武東征」話をつくり 神武を 磐余彦としました。(記紀ではカムヤマトイワレビコ)

しかも その神武時代を出雲王朝初期まで引き上げたものですから 各大王の時代も存在期間も 
凄い事になっていて 百歳以上の大王も居ますし 九州から一歩も出ずに亡くなったイクメ大王の父上の
イ二エ王を大和の大王にしてみたり(贈り名は崇神) 嘘が嘘を呼んで大変です。

熊野上陸地点の 稲飯と三毛入を祀る「浜王子神社」もあとで載せます。
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広居境内には 面白い末社がたくさんあります。
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石見で生まれて 出雲王家の血を引くといわれる柿の本人麻呂は 記紀政策に大きな貢献をしたと 
出雲王家に伝えられて居ます。しかし 記紀完成後に 不比等らに幽閉されて非業の死を遂げました。
 
その人麻呂を祀る人麻呂神社です。人麻呂神社本社は島根県益田市にあります。
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布引池から飛んで来たという瓶を祀る一瓶社もありました。
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しかし説明を読むと 二瓶姫神社の説明とは違います。ウマシマジが大瓶をこの地に奉納したと書いてあり
その瓶は現存して 祭祀に使用されていると書いてます。
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淡島神社は全国にあり、和歌山県加太の淡島神社が「人形の呪いを解く」神社として 有名ですが
ここでは 鳥取県米子市の「粟島神社」の事だと思います。

徐福の命令で 穂日や息子の夷鳥、そして沢山の海童たちにより、幽閉殺害された八重波津身
(出雲王朝第八代少彦)は米子市の中海に浮かぶ粟島の志都の岩屋で殺害されましたが そこには
粟島神社が立てられています。

記紀が書かれた時代には 約800年前の大国主、事代主殺害がまだ人々の記憶に新しく
万葉集に読まれた 志都の岩屋の歌が 岩屋に建てられて居ます。

「大名持ち 少彦の 居ましけむ 志都の岩屋は 幾世 経ぬらむ」
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こんなポスターが貼ってありました。この神社の式祭だそうです。いずれ機会があれば見てみようと思います。
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物部ウマシマジの像だそうです。神社のパンフに載っています。

凄いですねえ。架空の人物が一人歩きしています。
もっとも 神武やヤマトタケルなどの記紀が創り上げた人物像も 日本中に建っています。

 明治政府の中の無教養な天皇至上主義者たち 狂信者によりたてられたものか、
戦争に走り出した馬鹿な旧日本軍が 天皇制度を利用して 戦争を鼓舞するためにつくったものか。
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参考写真
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熊野灘に面して 世界文化遺産熊野古道中辺路沿いにある 浜王子神社です。熊野古道を歩いていて
偶然見つけました。
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浜王子神社の主祭神 は 物部稲飯と三毛入です。このお二方がここに上陸して 登美家の加茂建津之身の
先導で大和桜井の磐余に入られました。
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物部の五瀬は 紀ノ川河口上陸作戦で 地元の名草の戸部(高倉下の子孫の姫君)たちにより戦死させられました。
その後遺体を この竈山神社に祀り 家来たちがその後2千年近くお守りしていて 現在のこの神社の社家
もその五瀬家来の御子孫です。

五瀬亡き後 二人の弟の稲飯と三毛入は 物部軍を率いて 紀州を諦めて熊野へ周り 上陸しました。
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神社境内には 五瀬の墓稜もありますが入れません。
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八千矛王幽閉殺害の「猪目洞窟」は2013年3月14日、八重波津身副王の幽閉殺害場所の粟島神社は
2013年3月15日の 記事に載せています。
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次は 徐福の長男 五十猛とそのお后の大屋姫を祀る 「五十猛神社」と「大屋姫神社」です。
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