秦の始皇帝はこの世に叶わない物は何も無く、故に永遠の命を、不老不死に薬を求めたという。その延長線上に位置するのか、彼の墓には兵馬俑が埋められたという。何のためにか?
秦が滅びた後に、楚の項羽と漢の劉邦が出てくる。『史記』には人間を生き埋めにするという叙述が出てくる。残忍な項羽は攻略してしまうと、全部の人間を穴埋めにして殺した。疑うと、降参した20万人の兵士でも一夜にして生き埋めにした。
ところが、秦の時代では兵馬俑が埋められた。それも一体一体、顔も身なりも違っていたという。この時代は生き埋めして殉死させれば肉体は腐ってしまう人間の兵士よりも、絶対に死なない兵馬俑の方が、永遠の命が求める覇者には価値があったのではないか。だから始皇帝が自分の墓の守りとしたのか。何となくそんな気がし始めた。そう思うのだが、これは間違いなのだろうか?
更に、やぶにらみ的な余談だが、隣国は埋めて隠してしまうのが簡単な解決方法らしい。事故を起こした新幹線車両すら埋めたというのだから。この日本では、まずそんな広い土地が無い。隣国だが、随分と違う歴史と人間を造ってきたのだろう。何にせよ、難しいお隣さんだということかな。
「ヨ!大統領」ではないが、幕末に、高杉晋作は徳川家茂の行列を見て「ヨ!征夷大将軍」と声を掛けたとか、掛けてなかったとか。仮に声を掛けたとして、そのことが、実は大変なことだと、自分が理解するのにかなりの時間を要した。我々が学校で習った歴史の用語というのは、当時全く普及していなかったのだ。誰も天下の将軍職が天皇から与えられた官職だと知ってはならない、言葉を発してはならない禁止用語だったはずである。それを、尊皇攘夷論者の高杉は言ったというのだ。それこそが徳川封建時代の終焉の兆であった。
この江戸時代を見る時に、将軍は朝廷の官職である征夷大将軍でしか過ぎないこと、そして、政治を委任された「幕府」の長であること、しかし、その当時に生きていたならば、たとえそれを知っていたとしても、何一つ口外できるような社会ではなかった、と言うことを、過去の歴史の中に見なければならない。誰も、表立って、「幕府」などとは言ってないのだ。「幕府」と云い始めたのは、幕末の尊王思想がある程度志士間に行きわたり、徳川幕府が朝廷・天皇の下部機関であることを示すことから、揶揄を含んでそれを云い始めたのである。その時、庶民はというと、「御公儀」とか、ただ「お上」、とか言っていたのだろう。徳川宗家が居並ぶ三百諸侯の中でとび抜けて肥大化した大名であること、決して権現様の生まれ変わりでなく単なる徳川宗家であること、それを広く世に知らしめる運動が尊王攘夷運動でもあった訳である。
我々は、歴史を通して過去を振り変える時、後の世に便宜上定義した言葉を安易に手掛かりとして、歴史の物事を覗いていないだろうか。ふと、この不確かな高杉のヤジに歴史の大きな意味があった、と考えたい。
先週、旧藤沢宿の永勝寺にある「飯盛女の墓」に行った。実は10年前にも行ったのだが、記憶があいまいで、もう一度見ておきたいと思ったのだ。
幕末には京都~江戸間の人・モノの交通が異常に増加した。そのため宿場は伝馬制の負担がのしかかり、本来の宿商売が廃れた。その打開策として、旅籠に二人の飯盛女を置くことにした。要するに、宿場に色街機能を持たせた訳だ。ここ永勝寺では死んだ飯盛女が丁重に葬られていた。
39基の墓は墓地内に四角く並べて、互いに見合わすように建てられていた。実は、このことが、私の記憶から消えていた。
施主は皆 旅籠 小松屋源蔵。
豆州アジロ コマツと読める。
豆州川奈村与八娘とある。(写真をクリックしすると見えます!)遠くから身売り同然で来たのだろう。墓が立てられただけ、まだましな境遇だったというべきなのだろうか。しかし、概説を読むと、
ここにある墓は、1761~1801年までの40年間に造られたという。小松屋源蔵一代の義侠心というべきなのか、…。