玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

鈴木貫太郎は終戦の為の総理大臣だったのか。

2018-08-31 13:42:16 | 近現代史

七十八歳の武骨な海軍大将、鈴木貫太郎は、老齢を理由に内閣総理大臣の大命を固辞した。しかし「私がすすめたら承知した」と、昭和天皇は『独白録』で回想している。けっきょく鈴木は大日本帝国の最後の総理大臣となった。戦後になって、天皇は「鈴木とは苦労をともにした」と述懐した。

その鈴木貫太郎とは、天皇の侍従長として八年間勤め、二・二六事件では陸軍将校に殺されかけた人物である。この武骨ばかりの老人こそが、昭和天皇が軍部の鞏固な抵抗の中で、戦争を閉じる為に大命を降ろした、とっておきの人物であった。そう信じていた者が多いだろう。

歴史家保坂正康は云う。昭和天皇は、既にこの時点(194547日)で戦争の決着を考えていた。天皇は自ら鈴木に「頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」とまで説得したそうだ。さらに鈴木には「戦争終結を模索すること」も伝えられた。(『あの戦争は何だったのか』新潮社)

それでは、昭和天皇はいつ頃に戦争の終結を考えたのであろうか。実はいろんな説がある。一つめは、55日の23日前にお気持ちが変わった(吉田裕『アジア・太平洋戦争』) と、また二つめは、天皇が和平について真剣に考慮するよう最初に求められたのは194569日である(H・ビックス『昭和天皇(下)』)、 又三つめは、天皇がその顔を和平にしっかりと向けたのは6月中旬であった 、と『天皇独白録』には寺崎英成の私見として記されている。いったいどれが本当なのか、昭和天皇の心のなかは図り知れない。

だが、以上の三つの説は、いずれも鈴木大将が総理大臣に就任した194547日以降に天皇の戦争終結意思が固まったことを示している。どうも保坂の語る天皇と元侍従長との戦争終結の美談は、二人だけの特別な関係の中に以心伝心があったとするしかない。

そこで、保坂はどこからその根拠を得たかと探したら、どうも東郷茂徳『時代の一面』らしい。そこには、要約すると以下のとおりに書かれている。

東郷茂徳は、鈴木内閣から外相就任の要請があったが、東郷は戦争は1年以内に、鈴木は戦争は23年持つ、と戦局の見通しが合わないので、就任を躊躇していたのだ。そこへ旧知の松平康昌秘書官長が現れ、鈴木総理の戦局見通しはまだ確定していないので、あなたが入閣して啓発してほしい。また「天皇陛下も終戦をご考慮遊ばされておるように拝察される」からあなたの戦局見通しと離れていないのではないか、と言われて就任した。

たぶんこれか、あるいは類似の史料を根拠に、保坂は、鈴木内閣は成立の当初から戦争終結の使命を帯びた内閣であったと位置付けたのだ。ということは、昭和天皇は、東條内閣失脚以降、戦争を終結させたかったのだが、軍部の強固な抵抗の為に、なかなか止められず、やっと腹心の部下の鈴木を総理にして、戦争終結のための天皇聖断ができたというストーリーになる訳である。

結局のところ、歴史家は史料を自在に使って、自分で歴史を創っているのではないか、と疑りだしてしまう。まったく始末が悪いと云うしかない。しかし、不思議なことに、松平康昌はこの時点で、既に「終戦」という言葉を使っている。後から取って付けたようだね。

 

九段会館(旧軍人会館))

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東條は「能」役者だった

2018-08-28 13:13:32 | 近現代史

東條内閣ができた時に、「虎穴に入らざれば虎子を得ずだね」と昭和天皇は木戸内大臣に云ったそうである。深い意味があるのかと、虎穴を陸軍、虎子を中堅幕僚にあてこんで考えていたが、『木戸日記』をよくよく読むと、「危険を冒さないと大事なことは果たせない」という程度の意味のようだ。 

豈図らんや、東條に内閣をやらせてみると、徐々に天皇の信頼を勝ち得ていく。「東條は一生懸命仕事をやるし、平素云っていることは思慮周密でなかなか良いところがあった」という天皇の評価が戦後の『天皇独白録』のなかにある。

とどのつまり、事細かに事柄を報告し、いちいち細かく裁可を仰ぐ忠実な部下として、統帥権者の目から評価したのであろう。 

サイパン陥落後、理由はわからないが、木戸内相は三つの課題で東條首相を辞職に追い込んでいく。一つは統帥の確立、二つは嶋田海相の更迭、三つは重臣をいれた内閣改造を行う、という課題に対して、東條はまず自らが参謀総長と陸相の兼職を解き、嶋田海相に辞職を迫り、挙国一致の内閣に大改造して延命を図ろうとした。 

しかし、木戸は東條が大きな壁にぶち当たるように仕組んだのだ。重臣の米内光正は入閣を拒否することになっていた。岸信介国務相は事前に木戸と相談をして辞職を拒絶することになっていた。東條は三つの課題の最後が果たせない、ということは、天皇との約束が果たせなくなったので辞職に追い込まれる訳である。 

東條は、この三つの課題が木戸と天皇とが示し合わせた踏み絵であることに気づいてしまう。それで、はじめて天皇の信任を失ったことを知り辞職を決意したのだろう。 

東條の辞意を受け、急遽重臣会議を開いた。あれほど東條失脚に奔走していた重臣たちには不思議に後任の目途が全くなかった。ただ、東條が、陸軍が、憎かっただけなのだろうか。特に第二次内閣を東條に奪われた近衛、陸相を引っ込められて内閣が瓦解した米内、そして陸軍青年将校の2・26事件で襲われた岡田。その三人すら明確な後継候補を持っていなかった。 

陸軍名簿から適当に拾った三名の候補をもって、木戸が報告に行くと、天皇は木戸に「陸相には結局東條が居座るということあらざるかと思うが如何」と尋ねる。この手のひら返しの仕打ちは何だろう。そういうお上なのか、現人神なのか。 

ここまで来ると、東條は単なる道具に過ぎないことが分かる。サイパン陥落にみる戦局の圧倒的不利の責任追求が東條に行くと、彼を信頼して使っていた自分にもその火の粉がかかってくる。それがただ厭わしかったとしか思えない。天皇にとって、東條は「能」でいうならワキ役に過ぎなかったのだ。

(以上、参考文献:『昭和天皇独白録』『木戸幸一日記(下)』『高木惣吉日記』)

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なんかピンとこないね

2018-08-23 20:50:58 | 政治

けっして田中角栄のことが好きではないが、世間が田中角栄を忘れない。先日、平野貞夫の『ロッキード事件』講談社を読んだ。いかに確たる家柄もなく、学歴もなく、下層から、首相にのぼりつめることが、この国では未曽有なできごとだということを知った。

戦後のこの國の首相は、田中角栄が首相になるまでは、東久邇宮の皇族を除き、石橋湛山の早稲田を除き、みんな帝大出身だった。平野貞夫は、ロッキード事件は、日本型エスタブリッシュメントによって、今太閤が落とし込められた、と結論付けている。

平野氏の云うエスタブリッシュメントは「薩長閥、旧華族、帝大出官僚」であるそうだ。ロッキード事件では、田中を最後まで追い詰めたのは司法官僚だとも言った。戦前の政治に陰湿に暗躍した司法系官僚の平沼騏一郎が思い浮かんだ。

19764月に東京地検特捜部が米国史料を手にしたが、そこには田中角栄がロッキード社から金が渡った証拠がいっさい記されて無かったそうだ。捜査に窮した検察は刑事免責を条件とした嘱託尋問で追い詰めていった。これって法治主義を根元から歪めていないか。

事実、最高裁判例では「日本の刑事訴訟法上、刑事免責の制度を採用しておらず、刑事免責を付与して獲得された供述を事実認定の証拠とすることを許容していないものと解すべきである以上、アメリカ連邦法上に基づいて行われた嘱託証人尋問調書については、その証拠能力を否定すべきである」となった。既に角栄はこの世にいなかったが。

田中角栄は推定無罪ではないか。あの時の世間は、彼の金権体質の延長線上で、よってたかって推定有罪にしてしまった。

今、安倍政権のモリカケ問題では、司法官僚は腑抜けて、文書改竄の起訴すらできない。佐川氏が同じ高級官僚だからか?帝大ではない文科官僚の子弟裏口入学にすっかり汗しているが、なんかピンとこないんだ。

「ロッキード事件」の画像検索結果「ロッキード事件」の画像検索結果

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いろんなことが分からない

2018-08-20 20:30:27 | 近現代史

かつての日本は軍国国家であったと覚えている。もっとも今はそう云わないかもしれないが。1945815の終戦の一年前の7月に、あの評判の悪かったと云われる独裁的な東条英機首相は、ほんの数日間で政権の座からすべり落ちた。

東條英機はヒットラーのような独裁者ではない。とうてい独裁者の条件にはあたらない。首相を辞任した時の、彼の心情を咀嚼すれば、首相にしてもらった天皇と木戸内相の信頼がなくなったから自動的に辞職したのであろう。天皇の信頼があって、憲兵を使い政敵を弾圧し、陸軍内の人事を私物化できた。ちなみに海軍の人事権は彼にはない。時には庶民のゴミ箱を見て、生活状況を把握していた。そんなパフォーマンスの人でもあった。

それでも、戦争遂行国の首相が辞職したら、その後どうなるのだろうか。事実は、首相経験者の7人の重臣たちが集まり、議論の末後継者を3人絞って、戦争中の権力空白を作らないために、近くにいた朝鮮総督だった小磯国昭を首相とした。

しかし、二日間は首相辞任は伏せられて、何事もなかったように、その後も戦争は続いたのである。戦争をやめる、平和にするために東條内閣を倒したのではなかった。東條は陸相であり、参謀総長であり、内閣総理大臣だが、戦争最高責任者ではなかった。

その後もレイテ沖海戦をやっているし、新たに特攻作戦も始めている。これは戦争責任者が首相以外にちゃんと居るということではないか。その人も含め、政権中枢にあった者たちは、もう一度だけ連合軍に打撃を与え、少しでも有利な条件で講和をすることを考えていたのか?

政権中枢の人たちが、どうしても残したいものがあった。それは国体の護持である。平たく言えば、天皇制の継続であろう。つまりは三種の神器を守ることなのである。

727日、ポツダム宣言が示される。810日早朝に政府は国体護持を条件にポツダム宣言を受ける旨の回答をした。この約十日の間に日曜日が2回あった。72985、その両日とも、木戸内相は家で来客と会い、齋藤何某の療治を受けて、静かな休日を過ごしている。

『木戸幸一日記』では、ほかに「731日、午後130御文庫にて拝謁」とある。「伊勢と熱田の神器は結局自分の身近にお移して、御守りするのが一番良いと思う」と天皇は言ったそうである。それから1週間後、広島に原爆が落とされた。

淡々としたありのままの事実が、国民に普通に伝わっていない。いろんなことが見落とされている、欠落しているのが、この国の近現代史である。

伊勢神宮

 熱田神宮

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わかりたくないことがある

2018-08-14 22:59:59 | 近現代史

先日、ケーブルテレビで『日本のいちばん長い日』を見た。ふと終戦詔書が815文字であったことを思い出した。数えたことがないので本当かどうかはわからないが、米内海軍大臣が数えたそうである。

本を取りだして、そこの箇所を確認していたら、終戦詔書は89日の御前会議の後に、迫水久常内閣書記官長を中心に連日徹夜の三日間で原案が練られ、川田瑞穂・安岡正篤ら漢学者が筆を入れ、814日の閣議で6時間かけて原案の一部修正された、とあった。(出典 佐藤卓己『八月十五日の神話』)

実際の作成に係わった者たちは随分と長く苦しい作業であったに違いない。終戦詔書には、負けたとは書かれていない。戦局必ずしも好転せず、とある。

「玉音」放送から7時間後、鈴木貫太郎首相はラジオで「…勝利を得られなかったことについて、国民はことごとく陛下に心よりお詫び申し上げる」と云った。

817日には東久邇宮内閣が成立した。828日、記者会見で、東久邇首相は「一億の国民が総懺悔する」ことが国家再建のための第一歩だ、と述べた。(出典 ジョン・ダワ―『敗北を抱きしめて』)

東条政権失脚以来、まるで道具のように首相が代わる。あたかも穢れを掃うかのようにスバヤイ。

最近、或る本で、「一億総懺悔」とは、全国民の総懺悔によって、天皇に敗戦の失態を詫びようという趣旨であった、と書かれていた。なんとなく、嫌なことが少しずつ分かってきた。

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