七十八歳の武骨な海軍大将、鈴木貫太郎は、老齢を理由に内閣総理大臣の大命を固辞した。しかし「私がすすめたら承知した」と、昭和天皇は『独白録』で回想している。けっきょく鈴木は大日本帝国の最後の総理大臣となった。戦後になって、天皇は「鈴木とは苦労をともにした」と述懐した。
その鈴木貫太郎とは、天皇の侍従長として八年間勤め、二・二六事件では陸軍将校に殺されかけた人物である。この武骨ばかりの老人こそが、昭和天皇が軍部の鞏固な抵抗の中で、戦争を閉じる為に大命を降ろした、とっておきの人物であった。そう信じていた者が多いだろう。
歴史家保坂正康は云う。昭和天皇は、既にこの時点(1945年4月7日)で戦争の決着を考えていた。天皇は自ら鈴木に「頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」とまで説得したそうだ。さらに鈴木には「戦争終結を模索すること」も伝えられた。(『あの戦争は何だったのか』新潮社)
それでは、昭和天皇はいつ頃に戦争の終結を考えたのであろうか。実はいろんな説がある。一つめは、5月5日の2,3日前にお気持ちが変わった(吉田裕『アジア・太平洋戦争』) と、また二つめは、天皇が和平について真剣に考慮するよう最初に求められたのは1945年6月9日である(H・ビックス『昭和天皇(下)』)、 又三つめは、天皇がその顔を和平にしっかりと向けたのは6月中旬であった 、と『天皇独白録』には寺崎英成の私見として記されている。いったいどれが本当なのか、昭和天皇の心のなかは図り知れない。
だが、以上の三つの説は、いずれも鈴木大将が総理大臣に就任した1945年4月7日以降に天皇の戦争終結意思が固まったことを示している。どうも保坂の語る天皇と元侍従長との戦争終結の美談は、二人だけの特別な関係の中に以心伝心があったとするしかない。
そこで、保坂はどこからその根拠を得たかと探したら、どうも東郷茂徳『時代の一面』らしい。そこには、要約すると以下のとおりに書かれている。
東郷茂徳は、鈴木内閣から外相就任の要請があったが、東郷は戦争は1年以内に、鈴木は戦争は2・3年持つ、と戦局の見通しが合わないので、就任を躊躇していたのだ。そこへ旧知の松平康昌秘書官長が現れ、鈴木総理の戦局見通しはまだ確定していないので、あなたが入閣して啓発してほしい。また「天皇陛下も終戦をご考慮遊ばされておるように拝察される」からあなたの戦局見通しと離れていないのではないか、と言われて就任した。
たぶんこれか、あるいは類似の史料を根拠に、保坂は、鈴木内閣は成立の当初から戦争終結の使命を帯びた内閣であったと位置付けたのだ。ということは、昭和天皇は、東條内閣失脚以降、戦争を終結させたかったのだが、軍部の強固な抵抗の為に、なかなか止められず、やっと腹心の部下の鈴木を総理にして、戦争終結のための天皇聖断ができたというストーリーになる訳である。
結局のところ、歴史家は史料を自在に使って、自分で歴史を創っているのではないか、と疑りだしてしまう。まったく始末が悪いと云うしかない。しかし、不思議なことに、松平康昌はこの時点で、既に「終戦」という言葉を使っている。後から取って付けたようだね。
九段会館(旧軍人会館))