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玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

コロナが教えてくれたこと

2021-11-09 19:32:04 | 雑感

政治家が庶民のことを知らない、知ろうとしないと云うことが判った。

7~8月にコロナ患者が増えて自宅放置までしたのに、誰もその責任を、理由を語らない。そういえば、ろくな挨拶もせずに辞めて行ったような、…?そして新しい顔で選挙に出てきた。

コロナは季節的要因かもしれないし、オリ・パラかもしれない。ワクチンかもしれない。全く振り返らない民族だ。

前へ、前へと進み、決して後ろを振り返らない。成長して太ることばかりを考える、痩せて健康になることを考えない。

ー湘南の街のイメージかな。ー

そういえば、医者が結構冷たいと云うことも分かった。ワクチンでは患者の囲い込みや選別をした。

役所は自己保身ばかりで邪魔や無駄なことばかりする。国が一番ひどい。次に市町村の保健所が、較べれば県はマアマアかも。

でも、よくよく考えると、マスコミが一番悪いと云うことが判った。何にも大事なことを書かない、知らせない。嘘を平気でつき、事実を当り前に隠蔽し、そこらの軽犯罪や小悪人ばかり暴き立てて、皇室スキャンダルで儲けようとする。

日本のマス・メディアはもう要らないなあ、…。これもコロナが教えてくれた。

ー鵠沼の海に続く道よりー

 

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コロナが変えてくれたこと

2021-11-08 19:10:04 | 雑感

これから生きるためには友達が必要だが、これから無くなっていくのに、友達は必要だろうか。

コロナを感染させたり、されたりが厭だったから会わなかったけれど。

いつのまにか、そんなに友達が必要だとは思わなくなった。

まだ総括するには早いけれど、…。コロナが変えてくれたことのひとつだ。

先日、よくお邪魔するブログにおいしそうな銀杏のことが載っていた。それで、つい買った。路地物で百円だった。

かれこれ30年前に東京から湘南に引っ越してきて、最初の家は今より海に近かった。

自転車で鎌倉によく行ったものだ。だから鎌倉の寺はほとんど行っている。

鶴岡八幡宮の参道で必ず銀杏を売っていた。その時食べたいと思ったが、高価なのでやめた記憶がある。

今回は安かったので二つ買って、既に一つは金づちで割ってフライパンで焙って食べました。

実に美味かった。これはコロナのお蔭か、ブログのお蔭かな。

 

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脈々なり、閨閥の國 (後段)

2021-11-04 10:22:56 | 雑感

西園寺の元老政治の後には、天皇の側近として近衛文麿総理と木戸幸一内大臣の二人が残った。この二人の側近の、出自の差、経験の差、性格の差、生き方の差が、統帥権を持つ大元帥閣下の方向を決めたとも言える。

近衛は千年の貴族の血脈である。あの怯懦で腺病質でチャランポランな近衛が英米との戦争に腰を抜かすほどの恐怖感を感じていた。木戸は、桂小五郎(木戸孝允)の妹治子と長州志士の来原良蔵の血脈で、その孫にあたった。木戸幸一の血は武士の血がすべてだった。

近衛の娘の温子(よしこ)の婿である細川護貞は、東條内閣の誕生の時に「東條は軍人で、そんな人に総理を任せたら戦争になってしまう。そんな推薦をしたのは誰ですか?」と聞く。近衛は「木戸だ!」と答えた。

戦後になって、細川は仲人だった木戸にも同じことを聞いた。木戸は「近衛である」と答えた。どちらが東条英機を総理にしたかは自明であろう。

余談として、血統を考えると、細川護貞と温子には二人の男子がいて、一人は細川護熙元首相であり、もう一人は近衛忠輝となり、三笠宮の甯子内親王と婚姻した。まさに近衛家は千年の貴族の家系であろう。

細川護熙元首相は殿様と言われたけど、近衛公の孫とはあまり言われなかったような気がする。近衛文麿の歴史的な評価が定まっていないからだろう。

ともかくも、この國の戦前と戦後は閨閥によって脈々とつながっている。<閨閥:妻の一族を中心に結ばれた人のつながり(広辞苑)>

安倍や麻生は閨閥としての岸信介、吉田茂の孫である。だが、彼らは、一生懸命に勉強していい大学を出る必要もなく、教養を高める必要も無い。親の地盤と金と看板を受け継ぎ、加えて、閨閥の誉れによって、現在の地位があるのではないだろうか。

その閨閥の成れの果ての者たちが、女系天皇を認めないとは?まったく訳の分からん話である。

【参考文献:細川護貞「元老・重臣の動き」『語りつぐ昭和史』朝日新聞社・工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず』中公文庫・勝田龍夫『重臣たちの昭和史』文春文庫】

松山駅ー 先日の自分GO TOでした。このままコロナが収まるといいなあ。

 

 

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脈々なり、閨閥の國 (前段)

2021-11-03 19:15:38 | 雑感

自民党の右傾派の方々がアベのように祖父が官僚や大臣として活躍していた戦前の軍部政治が「美しき国」であると明確に感じているとは思わないが、何を夢想しているのかさっぱりわからない。

憲政の常道とか言って、旧憲法下でも二大政党政治が始まったが、それが崩れていく契機となったのは、浜口雄幸と犬養毅の暗殺だった。

その後、軍人系の総理大臣が続いたが、2・26事件でそれも倒されて、軍政内閣を軍部から希望された。

元老の西園寺公望はそれでも現役軍人を選ばなかった。1936年から41年までの間に、近衛文麿は二回も総理に就いている。この頃、西園寺公と近衛が宮中勢力の中心なのだろうか。

振り返れば、1931・9・18の満州事変以降の十五年戦争期は政党政治は凋落し、宮中と軍部の対抗だったような気がしている。宮中は、軍部の絶対的な暴力性の前には臆病で狡いだけの貴族は全く立ち向かうことはできないが、統帥権を持つ天皇を手中にして抵抗していたと思う。

その真っ只中に、近衛公爵と木戸侯爵と原田男爵の三人がいた。みな学習院・京都大学の同窓であり、西園寺公望の傘下にあった。この四人と天皇が戦前のこの國の軍國化に抵抗していたのかもしれない。

原田熊雄は実は若返った西園寺公の役柄をこなしていた。あるいは、西園寺公の身体の一部に成っていた。

1940年11月11日、「紀元二千六百年奉祝会」が挙行された。11月24日、西園寺が他界して、自動的に原田熊雄も政界から消えた。それ以降、この國は第二次世界大戦に坂道を転がるように駆け急いで突入して行く。

(紙幅の為、次回へ)

レトロかな?―松山駅にて―

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まっとうな野党はどうしたのか

2021-11-02 19:16:51 | 雑感

こんなに自民党が強いとは思わなかった。それが正直な感想だ。そして、野党という存在は反自民という立場でしかない。それがよくわかる今回の構図だった。

年寄りにとっては、福祉や年金が一定程度維持されるのだろうから、今の岸田自民体制はありがたい政権なのだが、この国の将来のことを考えると暗くなってしまう。

都市部は「維新」や「新しい党(れいわ?)」が反自民の受け皿になろうが、地方部は明らかに自民が岩盤であることが厳然と分かった。

元々、この国には純粋でしっかりとした野党が無いのか、階級理念がないのか、政治は世襲制かつ封建的な小選挙区という幕藩体制のようになっているような気がする。むろん幕府は「自民党本部」であるが。そして、残念ながら、立民党には自民党には入れない血筋や家系のない政治家の二軍自民党であることが判ってしまった。

立憲主義という理念を党名にして、小池旋風の「希望の党」の排除論の混乱の中で、辻元氏に担がれて立ち上がった成功体験に固執する枝野党首はもう時代遅れなのかもしれない。自民の中に老害議員がいるなら、立民も害悪となる人材をこの際に選別しなければならない。

何よりも選挙期間中、れいわの山本氏や共産の志位氏への枝野らの第一野党の傲慢さや非礼が目に付いた。「連合」と「共産」を秤にかける、枝野の計算高い顔に、自民党の「数の論理」が垣間見えたのには驚いてしまった。

「政権交代」と言葉だけで舞い上がった野党があっても、国民の側に立ったまっとうな野党が無かった。厳しいが、彼自身が“まっとうさ”を忘れたのではないか。一旦身を引いて、客観的に政治を見て欲しい。

次回の参議院は、憲法改正=軍事強化の立場から、自民にも、維新にも入れる気はないが、立民にも入れる気が失せてきた。困ったことだ、…。

湘南の路地物、リンゴ200円、柿50円。

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