2010年 復活前主日 2010.3.28
楽園(パラダイス) ルカ23:1~49
1. 2人の犯罪人
イエスの十字架が2人の犯罪人の間に立てられたことをマタイも、マルコも伝えている。しかし十字架上での3人の対話を伝えているのはルカだけである。ルカがこの資料をどこから得たのか判らないが、ここにこの記録を載せているルカの考えには興味がある。
2. 救い
先ず、ここの場面を支配しているキイワードは「救い」という言葉である。人々はイエスに対して、「他人を救ったのだ、自分も救え」と言う。この言葉は、わたしたちが「伝道」ということを考えるときに具体的な問題になってくる。「他人に救いを宣べ伝える前に、自分のことをしっかりせよ」。例えば他人に福音を語る前に自分の家族を救いに導きなさいというような問題等々。
わたしたちキリスト者に対するこれらの批判に対しては、わたしたちは先ず反省する必要がある。しかしイエスに対する民衆の批判は根本的な間違いがある。イエスがもたらした救いは一口で言うと罪からの救いであり、ここで民衆がイエスに対して要求している救いは十字架刑からの脱出である。その点では十字架の上からイエスを罵った犯罪人の一人の願った救いも十字架刑からの救出である。この救いは自分自身の利益を求める道であり、それはイエスが最も嫌った己の命を求める道である。
3. 自己否定の道
イエスが選び、これこそ人間として真実の道として歩まれたのが、自己の利益を求めず、自己が生きる道、自己だけが生きる道を捨てて、隣人と共に生きる道、隣人と共に命を分け合う道、他者のために自分自身の命を捧げる道であった。つまり、ここで民衆が求め、イエスと共に十字架刑に処せられようとしている一人の犯罪人が求めた道と、まさに正反対の道であった。
その結果が十字架なのである。なぜその結果が十字架なのか。ここに人類の持っている根本的な問題性、つまり後にキリスト教が原罪と名付ける人間の根元的な罪の問題がある。自分自身の利益を求める道は究極的には他者を自分のために利用するという自己中心、つまりエゴイズム、「自分だけ主義」である。ここからわたしたちはどうしたら救われるのか。これがわたしたちの根本問題である。
しかし人間は捨てたものではない。罪だけが人間の特性ではない。罪を批判するもの、罪を罪として自覚する能力を人間は持っている。それがもう一人の犯罪人によって顕わになる。自分が罰せられるのは「当然である」と考える人間がいる。今、彼は十字架刑に処せられようとしている。それを当然のことという。普通、人間は自分に対する刑罰は自分の罪に対して大きすぎると思い、他人の罰は小さすぎると判断し、その判決を不当であると主張する。しかし彼は十字架刑を当然だという。ここに既に悔い改めがある。
4. 「思い出して欲しい」
そして彼がイエスに対して願ったことは「ただ、思い出すこと」であった。彼はいったいイエスに彼の何を思い出して欲しいと願ったのだろうか。彼が願ったことは、恐らくイエスと共に十字架で死んだ一人の犯罪人を思い出して欲しいと願ったに違いない。そこには何も欲がない。ささやかな祈りであった。彼の生涯でのただ一回の祈りであった。この祈りをイエスは聞き、答える。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。ここでのイエスは既成概念に寄って手垢の付いた「神の国」とか「天国」という言葉を避けて、「楽園(パラダイス)」という言葉を用いているのは非常に興味深い。この言葉はキリスト教思想としてはあまりなじまない神話的表現である。それだけに非常に新鮮な響きがする。十字架上の一人の犯罪人の「自分を思い出して欲しい」という言葉に対して、イエスが思い出すのは、「一人の犯罪人」ではなく、「一緒に十字架にかかって死んだこと」である。否、正確には「思い出す」という未来ではなく、「今、ここで」イエスは「思う。イエスは彼に対して、「今日わたしと一緒に楽園(パラダイス)にいる」とお答えになった。ここでの「今日」とは「今の瞬間」という意味である。「今、ここで、一緒にいる」。
この「一緒に」ということ、特に「イエスと共に死ぬ」ということに、重大な意味を発見したのは初代教会であり、特にパウロである。彼はロマ6:3~5で次のように言う。「それともあなた方は知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」。
イエスは悔い改めた犯罪人に言う。あなたは今、わたしと一緒に十字架の上にいる。そして「今、将に一緒に」死のうとしている。だからこれから後も、わたしたちはずっと「一緒にいる」。それが「パラダイス」という言葉の意味である。イエスと一緒にいるということが、パラダイスである。初代教会の信徒たちは、この「パラダイス」という言葉に、「救い」という意味を込めている。つまりイエスと共にいることが救いであり、パラダイスであるというのが初代教会の信仰の体験であった。
楽園(パラダイス) ルカ23:1~49
1. 2人の犯罪人
イエスの十字架が2人の犯罪人の間に立てられたことをマタイも、マルコも伝えている。しかし十字架上での3人の対話を伝えているのはルカだけである。ルカがこの資料をどこから得たのか判らないが、ここにこの記録を載せているルカの考えには興味がある。
2. 救い
先ず、ここの場面を支配しているキイワードは「救い」という言葉である。人々はイエスに対して、「他人を救ったのだ、自分も救え」と言う。この言葉は、わたしたちが「伝道」ということを考えるときに具体的な問題になってくる。「他人に救いを宣べ伝える前に、自分のことをしっかりせよ」。例えば他人に福音を語る前に自分の家族を救いに導きなさいというような問題等々。
わたしたちキリスト者に対するこれらの批判に対しては、わたしたちは先ず反省する必要がある。しかしイエスに対する民衆の批判は根本的な間違いがある。イエスがもたらした救いは一口で言うと罪からの救いであり、ここで民衆がイエスに対して要求している救いは十字架刑からの脱出である。その点では十字架の上からイエスを罵った犯罪人の一人の願った救いも十字架刑からの救出である。この救いは自分自身の利益を求める道であり、それはイエスが最も嫌った己の命を求める道である。
3. 自己否定の道
イエスが選び、これこそ人間として真実の道として歩まれたのが、自己の利益を求めず、自己が生きる道、自己だけが生きる道を捨てて、隣人と共に生きる道、隣人と共に命を分け合う道、他者のために自分自身の命を捧げる道であった。つまり、ここで民衆が求め、イエスと共に十字架刑に処せられようとしている一人の犯罪人が求めた道と、まさに正反対の道であった。
その結果が十字架なのである。なぜその結果が十字架なのか。ここに人類の持っている根本的な問題性、つまり後にキリスト教が原罪と名付ける人間の根元的な罪の問題がある。自分自身の利益を求める道は究極的には他者を自分のために利用するという自己中心、つまりエゴイズム、「自分だけ主義」である。ここからわたしたちはどうしたら救われるのか。これがわたしたちの根本問題である。
しかし人間は捨てたものではない。罪だけが人間の特性ではない。罪を批判するもの、罪を罪として自覚する能力を人間は持っている。それがもう一人の犯罪人によって顕わになる。自分が罰せられるのは「当然である」と考える人間がいる。今、彼は十字架刑に処せられようとしている。それを当然のことという。普通、人間は自分に対する刑罰は自分の罪に対して大きすぎると思い、他人の罰は小さすぎると判断し、その判決を不当であると主張する。しかし彼は十字架刑を当然だという。ここに既に悔い改めがある。
4. 「思い出して欲しい」
そして彼がイエスに対して願ったことは「ただ、思い出すこと」であった。彼はいったいイエスに彼の何を思い出して欲しいと願ったのだろうか。彼が願ったことは、恐らくイエスと共に十字架で死んだ一人の犯罪人を思い出して欲しいと願ったに違いない。そこには何も欲がない。ささやかな祈りであった。彼の生涯でのただ一回の祈りであった。この祈りをイエスは聞き、答える。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。ここでのイエスは既成概念に寄って手垢の付いた「神の国」とか「天国」という言葉を避けて、「楽園(パラダイス)」という言葉を用いているのは非常に興味深い。この言葉はキリスト教思想としてはあまりなじまない神話的表現である。それだけに非常に新鮮な響きがする。十字架上の一人の犯罪人の「自分を思い出して欲しい」という言葉に対して、イエスが思い出すのは、「一人の犯罪人」ではなく、「一緒に十字架にかかって死んだこと」である。否、正確には「思い出す」という未来ではなく、「今、ここで」イエスは「思う。イエスは彼に対して、「今日わたしと一緒に楽園(パラダイス)にいる」とお答えになった。ここでの「今日」とは「今の瞬間」という意味である。「今、ここで、一緒にいる」。
この「一緒に」ということ、特に「イエスと共に死ぬ」ということに、重大な意味を発見したのは初代教会であり、特にパウロである。彼はロマ6:3~5で次のように言う。「それともあなた方は知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」。
イエスは悔い改めた犯罪人に言う。あなたは今、わたしと一緒に十字架の上にいる。そして「今、将に一緒に」死のうとしている。だからこれから後も、わたしたちはずっと「一緒にいる」。それが「パラダイス」という言葉の意味である。イエスと一緒にいるということが、パラダイスである。初代教会の信徒たちは、この「パラダイス」という言葉に、「救い」という意味を込めている。つまりイエスと共にいることが救いであり、パラダイスであるというのが初代教会の信仰の体験であった。