2005年 逝去者記念聖餐式 (2005.10.30)
深い淵から 詩編130:1-8
1. 葬送式と逝去者記念で用いられる詩編
祈祷書には葬送式や逝去者記念礼拝、あるいはそれに関連する諸式において用いられるにふさわしいものとして11編の詩編が選ばれている。ちなみに、番号だけ紹介すると、23編、27編、42編、46編、90編、106編、116編、118編、121編、130編、139編。いずれも人の一生を考えさせる優れた詩編である。毎年この季節に迎える逝去者記念聖餐式ではこれらの詩編の中から一つを選んで、共に人生について考えたいと思う。
さて、昨年は最後の第139編を取り上げたので、今年は最後から2番目の第130編を取り上げる。
第130編は詩編の中でも最も親しまれてきた詩編の一つで、特に最初の「主よ、深い淵から、あなたに叫び、嘆き祈るわたしの声を聞いてください」という言葉は有名である。
2. 葬送式あるいは逝去者記念式で読む詩としての第130編
この詩編は葬送式あるいは逝去者記念式において読まれるとき、懺悔とか悔い改めとかというような個人的な問題を越えて特別な響きを持つ。その秘密が「深い淵」という言葉の持つ神秘性である。この言葉は旧約聖書の世界においては、陰府の世界を意味する。日本聖公会の祈祷書では、この言葉は「死の国」と翻訳されている。要するに、死んだ人が最後の審判を受けるまでの間、待っている場所が陰府の世界あるいは死の国であると信じられていた。使徒信経においても主イエスは「十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちからよみがえり、天に昇られました」と告白されている。イエスも死んで、陰府に行かれた。簡単に言うと、死んで後、天国行くのか、あるいは地獄に行くのか最終的に決定されるまでの間、すべての人間は陰府に留まっていると、信じられていた。いずれにせよ、これは古代神話の世界における信仰であるが、この世とあの世との間に、いわば「中間地帯」を設定していることは非常に興味深い。
3. 死の恐ろしさ
すべての人間は必ず死ぬ。そこには例外はない。そして、古今東西を問わず、死ぬことが恐ろしくない人間はいない。「死ぬことは怖くはない」と啖呵を切る人もいるが、それは決して本心ではない。自爆テロにせよ、自殺にせよ、死ぬことは恐ろしいことである。それでは何が恐ろしいのか。その恐ろしさの理由は何であろう。痛いということか、苦しいということか。確かに、どうせ死ぬなら苦しまないで死にたい、というのもホンネである。しかし、よく考えてみると、痛いとか苦しいという感覚は生きているから感じられるのであって、それらは死に属していない。死んでしまえば、痛さも苦しさもない。むしろ、死は痛さや苦しさからの解放を意味する。
これはまったく個人的な見解であるが(と言っても、実際、死の恐ろしさについての普遍的な規定などあり得るのだろうか)、死の恐ろしさはコミュニケイションの断絶にあると思う。この「コミュニケイションの断絶」ということも、痛さや苦しさと同様、死んでしまったらどうなるのか全然想像も出来ないことではあるが、ただそれらと根本的に異なる点は、肉体に属する感覚とは違う種類の恐ろしさということである。その意味では、死んでも解放されない恐ろしさである。この死の恐怖を象徴化したものが「陰府の世界」である。陰府の世界の恐ろしさはコミュニケイションの断絶、すなわち絶対的孤独である。
4. 「主よ、あなたを呼びます」
詩130編の詩人は「深い淵から」神に「主よ、あなたを呼びます」と叫ぶ。その叫びは絶対的孤独の中からの祈りである。ここからはこの祈りの言葉は神には届かないことを知っても、なお叫ぶ。無駄であることを知りつつなお信じて祈る。これが本当の祈りであり、信仰である。この信仰は詩編第16編にこのようにうたわれている。「神よ、あなたはわたしを死の国に見捨てられず、あなたを敬う人が朽ち果てるのを望まれない」(詩編16:10)。これが旧約聖書における「死の恐ろしさ」を乗り越える信仰である。この詩編第16編は、原始教会においてはイエスの復活を預言する言葉として解釈された(使徒言行録2:31)。イエスこそ、まさにこの祈りを実践した者である。
5. 主を待ち望む
深い淵からの叫びは神に届いているのか。何か空しく、エコーのように返ってくる。絶対孤独、それが陰府である。ここで信仰者はただ神の呼び出しの声を待つ。いつか、必ず呼び出されるはずである。しかし、それは確かではない。ひとり自分の心の中で信じているだけである。この世に残してきた家族や友人たちの励ましの声も、ここではまったく聞こえない。
詩人は「わたしは主を待ち望む」(4節)という。絶望の中で信仰者に出来ることはただ待つだけである。必ず声がかかると信じて待つ。真っ暗闇の中で、必ず時が満ちれば朝日が昇ることを信じて待つ。「夜回りが暁を待ち望むにもまして、わたしの魂は主を待ち望む」(5節)。信仰者がこの世で生きていたときに聞いた主の御言葉だけを頼りにひたすら主の声を待つ。主を待ち望むということだけが、絶対的孤独から信仰者を救い、死の恐怖を乗り越える平安を与えてくれる。
深い淵から 詩編130:1-8
1. 葬送式と逝去者記念で用いられる詩編
祈祷書には葬送式や逝去者記念礼拝、あるいはそれに関連する諸式において用いられるにふさわしいものとして11編の詩編が選ばれている。ちなみに、番号だけ紹介すると、23編、27編、42編、46編、90編、106編、116編、118編、121編、130編、139編。いずれも人の一生を考えさせる優れた詩編である。毎年この季節に迎える逝去者記念聖餐式ではこれらの詩編の中から一つを選んで、共に人生について考えたいと思う。
さて、昨年は最後の第139編を取り上げたので、今年は最後から2番目の第130編を取り上げる。
第130編は詩編の中でも最も親しまれてきた詩編の一つで、特に最初の「主よ、深い淵から、あなたに叫び、嘆き祈るわたしの声を聞いてください」という言葉は有名である。
2. 葬送式あるいは逝去者記念式で読む詩としての第130編
この詩編は葬送式あるいは逝去者記念式において読まれるとき、懺悔とか悔い改めとかというような個人的な問題を越えて特別な響きを持つ。その秘密が「深い淵」という言葉の持つ神秘性である。この言葉は旧約聖書の世界においては、陰府の世界を意味する。日本聖公会の祈祷書では、この言葉は「死の国」と翻訳されている。要するに、死んだ人が最後の審判を受けるまでの間、待っている場所が陰府の世界あるいは死の国であると信じられていた。使徒信経においても主イエスは「十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちからよみがえり、天に昇られました」と告白されている。イエスも死んで、陰府に行かれた。簡単に言うと、死んで後、天国行くのか、あるいは地獄に行くのか最終的に決定されるまでの間、すべての人間は陰府に留まっていると、信じられていた。いずれにせよ、これは古代神話の世界における信仰であるが、この世とあの世との間に、いわば「中間地帯」を設定していることは非常に興味深い。
3. 死の恐ろしさ
すべての人間は必ず死ぬ。そこには例外はない。そして、古今東西を問わず、死ぬことが恐ろしくない人間はいない。「死ぬことは怖くはない」と啖呵を切る人もいるが、それは決して本心ではない。自爆テロにせよ、自殺にせよ、死ぬことは恐ろしいことである。それでは何が恐ろしいのか。その恐ろしさの理由は何であろう。痛いということか、苦しいということか。確かに、どうせ死ぬなら苦しまないで死にたい、というのもホンネである。しかし、よく考えてみると、痛いとか苦しいという感覚は生きているから感じられるのであって、それらは死に属していない。死んでしまえば、痛さも苦しさもない。むしろ、死は痛さや苦しさからの解放を意味する。
これはまったく個人的な見解であるが(と言っても、実際、死の恐ろしさについての普遍的な規定などあり得るのだろうか)、死の恐ろしさはコミュニケイションの断絶にあると思う。この「コミュニケイションの断絶」ということも、痛さや苦しさと同様、死んでしまったらどうなるのか全然想像も出来ないことではあるが、ただそれらと根本的に異なる点は、肉体に属する感覚とは違う種類の恐ろしさということである。その意味では、死んでも解放されない恐ろしさである。この死の恐怖を象徴化したものが「陰府の世界」である。陰府の世界の恐ろしさはコミュニケイションの断絶、すなわち絶対的孤独である。
4. 「主よ、あなたを呼びます」
詩130編の詩人は「深い淵から」神に「主よ、あなたを呼びます」と叫ぶ。その叫びは絶対的孤独の中からの祈りである。ここからはこの祈りの言葉は神には届かないことを知っても、なお叫ぶ。無駄であることを知りつつなお信じて祈る。これが本当の祈りであり、信仰である。この信仰は詩編第16編にこのようにうたわれている。「神よ、あなたはわたしを死の国に見捨てられず、あなたを敬う人が朽ち果てるのを望まれない」(詩編16:10)。これが旧約聖書における「死の恐ろしさ」を乗り越える信仰である。この詩編第16編は、原始教会においてはイエスの復活を預言する言葉として解釈された(使徒言行録2:31)。イエスこそ、まさにこの祈りを実践した者である。
5. 主を待ち望む
深い淵からの叫びは神に届いているのか。何か空しく、エコーのように返ってくる。絶対孤独、それが陰府である。ここで信仰者はただ神の呼び出しの声を待つ。いつか、必ず呼び出されるはずである。しかし、それは確かではない。ひとり自分の心の中で信じているだけである。この世に残してきた家族や友人たちの励ましの声も、ここではまったく聞こえない。
詩人は「わたしは主を待ち望む」(4節)という。絶望の中で信仰者に出来ることはただ待つだけである。必ず声がかかると信じて待つ。真っ暗闇の中で、必ず時が満ちれば朝日が昇ることを信じて待つ。「夜回りが暁を待ち望むにもまして、わたしの魂は主を待ち望む」(5節)。信仰者がこの世で生きていたときに聞いた主の御言葉だけを頼りにひたすら主の声を待つ。主を待ち望むということだけが、絶対的孤独から信仰者を救い、死の恐怖を乗り越える平安を与えてくれる。