2008年 聖霊降臨後第18主日(特定19) 2008.9.14
人生の貸借対照表 マタイ 18:21-35
1. 問題提起
本日のテキストは、イエスに対するペトロの問いから始まる。「親しい人が自分に対して何か悪いことをしたときに、わたしたちがどこまで赦さなければならないのか」。この問いに対するイエスの答えは明白である。「徹底的にどこまでも赦さなければならない」。「徹底的に」と言われても、どうしても許せない場合だってあるだろう。ハッキリとそれを数字で示して欲しい。それが人間である。他人への赦しの範囲をできるだけ小さくしたい。それが人間の本音である。要するに赦したくない。そこで、ペトロは伝統的な道徳基準を持ち出して「7度まででよいのではないか」と水を向ける。もっとも、この伝統的な基準にしても実際的に実行しようとすると非常に難しい。それに対して、イエスは、そんなに赦しの限界を求めるのならば、あえて言おう。「7度を70倍するまで」と言う。イエスの言うことは無茶である。ほとんど不可能に近いことであろう。道徳的基準とは努力目標であり、努力すればできることでなければ意味がない。この問答はわたしたちの道徳的基準を語っているのではない。
2. 譬話の意味
そこで、イエスは一つの譬話を始める。1万タラントンの借金をしている人がいる。貸主は「王」ということになっているので、恐らく借り手は一般庶民というよりも銀行家あるいは大企業の経営者であろう。1万タラントンというと、労働者の日当を1日1000円としても、約600億円に相当すると言われる。要するに、返済不可能な金額を意味している。努力目標にもならない。一生その人の下で働き続けても返済できない。
ところが、この人は友人に100デナリ、約10万円ほどの金を貸している。これは、要するに、努力すればなんとか返済できる金額である。ところがこの人は、友人の借金の返済を迫り、期限をもうけ、返済できそうもないとみなすや、直ちに訴えて、投獄してしまう。このことを知って、王は非常に立腹し、この人を投獄する。
さて、この譬話は、はたして「あなたの友人の罪を徹底的に赦しなさい」という道徳を教えているのだろうか。そうとは思えない。もし、そうだとするとおかしなことが一つある。「徹底的に」赦せというなら、この王も友人の借金を赦すことの出来なかったこの人も赦すべきではないのか。この譬えが語ろうとしていることは、身近な金の貸し借りという事件ではなく、友人に金を貸しているこの人が実はどういう立場に立っているのかという問題である。
この譬え話を聞くとき、わたしたちは、自分自身をここでの登場人物の誰と重ねているのか、ということが重要である。謙遜して「100デナリ」の負債を負う人と考えるのか。おそらく、イエスが始めに語った時にはそうであったのかも知れない。あるいは、自分を王の立場に置くのか。それは少し、無理があるであろう。この物語の重要な点は自分自身を1万タラントンの負債を置く人物として考えよ、ということである。一方で、赦されねばならないと同時に他方で赦すべき立場にある。すべての人間は大なり小なり、そのような立場に置かれている。一方で罪を追求する立場でありつつ、同時に罪を追求される立場でもある。不正を内に秘めつつ、正義をかざす。それが人間の現実である。そして、常に、自分の借金は小さく、他への貸付は大きく考えている。まるで、アンバランスな貸借対照表を持っている。この譬え話は、そういう人間へのメッセージであり、倫理的・道徳的教えというよりも、「赦さねばならない、しかし赦せない」ということで悩むわたしたちに対する挑戦である。「そんなことで悩むあなたとは一体何者なのか」。抽象的な人間論ではなく、現実に生きている人間の問題を語っている。人間は自分自身の一生をかけても返済不能の負債を負っている存在である。
3. 譬話のメッセージ
倫理的・道徳的問題とは、せいぜい100デナリの問題ではないか。7度まで赦せという命令でさえ出来ないのが人間である。しかし、今ここであなたが生きているということのためには、どれほどの負債があるのか知っているのか。それが1万タラントンの問題である。聖書は一貫して、わたしたちが今ここで生きているという事実を1万タラントンの問題として語る。一生をかけても返済不能な負債を負って生まれ、生き、死ぬ。しかも、それをすべてひっくるめて、赦された問題、恵みの事実として語る。「人生、生きているだけで、丸儲け」と言ったタレントいたが、「丸儲け」どころではない。「大儲け」である。
人間は、自分の判断と、自分の努力によって生きていると思っている。しかし、事実は神によって赦されて、生かされている。その事実、1万タラントンの負債を棒引きにされているという事実を悟ることが「天の国」を生きるということである。そこから現実的なさまざまな問題に立ち向かわなければ何も解決しない。信仰によって生きるとは、この事実に固く立つことにほかならない。
人生の貸借対照表 マタイ 18:21-35
1. 問題提起
本日のテキストは、イエスに対するペトロの問いから始まる。「親しい人が自分に対して何か悪いことをしたときに、わたしたちがどこまで赦さなければならないのか」。この問いに対するイエスの答えは明白である。「徹底的にどこまでも赦さなければならない」。「徹底的に」と言われても、どうしても許せない場合だってあるだろう。ハッキリとそれを数字で示して欲しい。それが人間である。他人への赦しの範囲をできるだけ小さくしたい。それが人間の本音である。要するに赦したくない。そこで、ペトロは伝統的な道徳基準を持ち出して「7度まででよいのではないか」と水を向ける。もっとも、この伝統的な基準にしても実際的に実行しようとすると非常に難しい。それに対して、イエスは、そんなに赦しの限界を求めるのならば、あえて言おう。「7度を70倍するまで」と言う。イエスの言うことは無茶である。ほとんど不可能に近いことであろう。道徳的基準とは努力目標であり、努力すればできることでなければ意味がない。この問答はわたしたちの道徳的基準を語っているのではない。
2. 譬話の意味
そこで、イエスは一つの譬話を始める。1万タラントンの借金をしている人がいる。貸主は「王」ということになっているので、恐らく借り手は一般庶民というよりも銀行家あるいは大企業の経営者であろう。1万タラントンというと、労働者の日当を1日1000円としても、約600億円に相当すると言われる。要するに、返済不可能な金額を意味している。努力目標にもならない。一生その人の下で働き続けても返済できない。
ところが、この人は友人に100デナリ、約10万円ほどの金を貸している。これは、要するに、努力すればなんとか返済できる金額である。ところがこの人は、友人の借金の返済を迫り、期限をもうけ、返済できそうもないとみなすや、直ちに訴えて、投獄してしまう。このことを知って、王は非常に立腹し、この人を投獄する。
さて、この譬話は、はたして「あなたの友人の罪を徹底的に赦しなさい」という道徳を教えているのだろうか。そうとは思えない。もし、そうだとするとおかしなことが一つある。「徹底的に」赦せというなら、この王も友人の借金を赦すことの出来なかったこの人も赦すべきではないのか。この譬えが語ろうとしていることは、身近な金の貸し借りという事件ではなく、友人に金を貸しているこの人が実はどういう立場に立っているのかという問題である。
この譬え話を聞くとき、わたしたちは、自分自身をここでの登場人物の誰と重ねているのか、ということが重要である。謙遜して「100デナリ」の負債を負う人と考えるのか。おそらく、イエスが始めに語った時にはそうであったのかも知れない。あるいは、自分を王の立場に置くのか。それは少し、無理があるであろう。この物語の重要な点は自分自身を1万タラントンの負債を置く人物として考えよ、ということである。一方で、赦されねばならないと同時に他方で赦すべき立場にある。すべての人間は大なり小なり、そのような立場に置かれている。一方で罪を追求する立場でありつつ、同時に罪を追求される立場でもある。不正を内に秘めつつ、正義をかざす。それが人間の現実である。そして、常に、自分の借金は小さく、他への貸付は大きく考えている。まるで、アンバランスな貸借対照表を持っている。この譬え話は、そういう人間へのメッセージであり、倫理的・道徳的教えというよりも、「赦さねばならない、しかし赦せない」ということで悩むわたしたちに対する挑戦である。「そんなことで悩むあなたとは一体何者なのか」。抽象的な人間論ではなく、現実に生きている人間の問題を語っている。人間は自分自身の一生をかけても返済不能の負債を負っている存在である。
3. 譬話のメッセージ
倫理的・道徳的問題とは、せいぜい100デナリの問題ではないか。7度まで赦せという命令でさえ出来ないのが人間である。しかし、今ここであなたが生きているということのためには、どれほどの負債があるのか知っているのか。それが1万タラントンの問題である。聖書は一貫して、わたしたちが今ここで生きているという事実を1万タラントンの問題として語る。一生をかけても返済不能な負債を負って生まれ、生き、死ぬ。しかも、それをすべてひっくるめて、赦された問題、恵みの事実として語る。「人生、生きているだけで、丸儲け」と言ったタレントいたが、「丸儲け」どころではない。「大儲け」である。
人間は、自分の判断と、自分の努力によって生きていると思っている。しかし、事実は神によって赦されて、生かされている。その事実、1万タラントンの負債を棒引きにされているという事実を悟ることが「天の国」を生きるということである。そこから現実的なさまざまな問題に立ち向かわなければ何も解決しない。信仰によって生きるとは、この事実に固く立つことにほかならない。