落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

聖霊降臨後第7主日(特定13)説教「其の日暮らし 詩78」

2011-07-27 15:29:30 | 説教
  ↑ ハウステンボスの美術館に保存されているヴァイオリンの自動演奏機(ピアノ伴奏付き) ↑

1.詩78について
詩78は詩119に序で長い詩篇である。しかし500年余りの歴史を72節にまとめていると言うことを考慮すれば当然のことであろう。詩人はこの長い歴史を「いにしえからの神秘」(2節)という言葉で表現し、この歴史から何かを学ぼうという。
出エジプトした人びとにとって最も深刻な問題は飲料水と食糧をいかに確保するかということであろう。人数は確かなことはわからないが、おそらく数百人規模であったであろう。この時の経緯について出エジプト記16章に詳しく描かれている。
2. 食糧問題
いよいよ食糧が尽きたとき、人びとは指導者であるモーセに向かって不平を述べた。
「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」(出エジプト16:3)。
それを見た神はモーセに言われた。「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と」(同16:12)。
モーセはそれを人びとに伝え、「あなたたちはわたしたちのことをどう思っているのか。あなたたちがわたしたちに不平不満を言っているが、それらの言葉はわたしたちに対してではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ」(同16:8)。
その日の夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。この露が蒸発すると、そこに白い「変なもの」が残った。人々は、「これは何だ」と、口々に言った。モーセは彼らに言った。「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。主が命じられたことは次のことである。『あなたたちはそれぞれ必要な分だけ集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。また、だれもそれを、翌朝まで残しておいてはならない』。ただし、よく気を付けるように、神はわたしたちが指示通りにするかどうかご覧になっている」(同16:15)。
人々はそのとおりにした。ところが彼らの中の何人かはその一部を翌朝まで残しておいた。虫が付いて臭くなったので、モーセは彼らに向かって怒った。
人びとはこの食べ物を「マナ」と名付けた。「これは何だ」という意味である。人々は、人の「約束の地」に着くまで40年にわたってこのマナを食べた。
詩78では、マナの出来事とうずらの肉の出来事を4回も繰り返している(19-20、23-24、25、26-28)。重要なのは29-30で「神は彼らの望みを満たされ、彼らは食べて満ち足りた。食物がまだ口の中にあるのに、彼らはなおむさぼり求めた」。
4.「口の中にあるのに」
ここでの「食物がまだ口の中にあるのに、彼らはなおむさぼり求めた」という表現は面白い。祈祷書の訳では「食物がまだ口の中にあるのに、さらに求めたということが神の怒りをかったという意味に理解されている。神は豊かに与えているのに、人びとが「必要以上に」求めること、これを「むさぼり」という。
ところが、この部分を新共同訳では、次のように訳している。
<彼らが欲望から離れず、食べ物が口の中にあるうちに、神の怒りが彼らの中に燃えさかり、その肥え太った者を殺し、イスラエルの若者たちを倒した。>
新共同訳によると、神が十分な食糧を与えてくださっているのに、それに満足せず、さらに欲しがっている様子を見て、彼らの口の中に食べ物がまだある内に、神は怒り、「肥え太った者」から「若者たち」を「倒した」ということになる。
実はこの部分の翻訳に関してはただ単に文法上の議論では終わらない。ここで述べられていることについて古い伝承が民数記に描かれている。民数記11:31-34である。
<さて、主のもとから風が出て、海の方からうずらを吹き寄せ、宿営の近くに落とした。うずらは、宿営の周囲、縦横それぞれ一日の道のりの範囲にわたって、地上1メートルほどの高さに積もった。民は出て行って、終日終夜、そして翌日も、うずらを集め、それを宿営の周りに広げておいた。肉がまだ歯の間にあって、かみ切られないうちに、主は民に対して憤りを発し、激しい疫病で民を打たれた。そのためその場所は、キブロト・ハタアワ(貪欲の墓)と呼ばれている。貪欲な人々をそこに葬ったからである。>(民数記11:31-34)
ここで神は何を怒っているのかが問題である。民数記ではその点がはっきりしない。詩78ではその点について彼らが「欲望から離れず」という点であるという。彼らは捕らえたうずらを殺して「宿営の周りに広げておいた」という。おそらく保存食にするために干していたのであろう。神にはこれが問題であった。マナの場合と同様で「明日必要なものは明日与えられる」。それが神を信頼するという基本的な姿勢である。満ち足りたら、欲望から離れるということが原則。
5.「其の日暮らし」ということ
日本語に「其の日暮らし」という言葉がある。普通は経済的な余裕のない貧しい生活を意味する。ところが聖書では「其の日暮らし」こそ理想的な生き方だという。イエスも「明日のことは思い煩うな」と教えている。其の日、其の日与えられたもので満足して生きる。そこには明日も今日と同じように神は必要なものを与えてくださるという信仰がある。裏返して言うと、明日はどうなるかわからない、というところに、不安があり、不信仰がある。そのために人間は明日のために明日の食べ物を保存しようとする。そんなものはすぐに腐ってしまうということを知っていても、なお保存しようとする。私は私たちの日常的な貯金や食糧の保存のことを言っているのではない。ただ、そういうものはいずれ腐ってしまい、明日の保証にならないということである。

先程引用した民数記では、「貪欲の墓」という地名が出ている。神がそこに貪欲な人びとを粛清して葬ったからだと説明されている。聖書において、最大の罪と呼ばれているのは「貪欲」である。エデンの園において食べるものが十分に与えられているのに、それに満足ができず、神から禁止されていた禁断の実を食べたことが罪の始まりであるという。それが貪欲である。貪欲さとは与えられたもので満足できず「もっと、もっと」と思うことである。

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