落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

聖霊降臨後第4主日(特定7)説教 日々の十字架

2010-06-16 10:57:11 | 説教
2010年 聖霊降臨後第4主日(特定7) 2010.6.20
日々の十字架  ルカ9:18~24

1. イエスにとって「キリスト」とは
イエスにとって「キリスト」とは「必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(22節)人物である。キリストとは十字架に架かって死ぬことが運命づけられた人ということであろう。イエスがキリストであるという意味は、イエスはこの生き方を自分のものとして引き受けたことを意味する。ここで重要な言葉は「必ず」と「ことになっている」。これが「キリストの必然性」である。
一寸脇道に逸れると、弟子たちはそういうことを知った上で「あなたはキリストです」などと言ったのだろうか。知っていたら、そんなことは簡単に言えるものではない。わたしたちにとってはそれは既に過去のことになっているから、簡単に「イエスはキリストである」などと告白できるが、これを他の人に簡単に言えるような事柄ではない。
2. イエスの弟子であるとはどういうことか
さて、そこからが重要である。「キリストの必然性」が語られた上で、キリストの弟子の生き方が述べられる。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9:23)。この「自分の十字架を背負う」という表現に注意したい。イエスの場合もそうであったが、当時最も厳しい処刑の仕方が十字架刑で、その場合、囚人たちはそれぞれ「自分の十字架を背負わされて」処刑場に歩かされたようである。重い十字架を背負って町の中を通り処刑場に行くということ自体が刑罰の一部となっていた。ここでイエスが述べようとしていることは、キリストの弟子になることは、師であるキリストの道に従うのは当然であり、それは文字通り、命がけのことであるということである。このことについては当時のキリスト者の共通の理解であったように思う。
特にマルコが最初にこの言葉を述べた時の状況では、イエスの弟子であることは、家族からさえ密告される危険があったと思われる。「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなた方はすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マルコ13:9-13)。
マタイは十字架を担うということを次のように言う。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10:37-38)。マルコにおいては「十字架を背負う」という意味は文字通り殉教死を意味していた。マタイではそれが少し意味に変化がみられる。いわば、そこでは「殉教死」というよりも「出家」が問題である。
3. 日々の十字架
ところがルカにおいては、この言葉に「日々」という言葉が加えられ、十字架を背負うということが「わたしたちの日常生活」のレベルにおいて問題とされる。つまり、日常化される。ここでは「十字架を背負う」ということが「死」ではなく、「生きる」事柄として、いわば「日常性における十字架」として捉えられている。日常性における十字架とは、いわゆる「生活苦」とか「生きる苦労」、非キリスト者もキリスト者も同じように経験する苦労ではない。キリスト者であるがゆえに背負う苦労、負担、重荷である。それは、その意味では「逃げることが出来る」苦労、「見て見ぬふりをして通り過ぎることができる」負担かも知れない。時にはそれは些細な損得の問題かも知れないし、ときには生死をかけるような事柄かも知れない。誰でも平気でしているようなことでも、わたしたちがキリスト者であるが故に、それがどんなに損なことでも、してはならないことをしないという程度のことかも知れない。十字架の内容については、それぞれの状況により異なる。ときには、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)ということかもしれない。もっと一般的に、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7:12)ということで言い表すことでもあるだろう。それが「日々の十字架」である。
4. この言葉の重さ
日常性における十字架が日常的なものだからといって軽く考えてはならない。なぜなら、それはその人の一生に関わる事柄だからである。太田先生はご自分の半生を記録した書に「自分の十字架を背負って」という題を付けておられる。この著書の出版にあたって次のような言葉を述べている。
<敬愛するイタリア・アッシジのキリスト者、フランシスは、「イエスに倣う」人であったと同時に、この世の誘惑と試練を自分に架せられた十字架とし、その「自分の十字架を背負って」従った生涯であったと伝え聞きます。わたしもそれに倣って生きたいと願っています。>
日々自分の十字架を背負って生きるということは、自分自身をまるごと、良いことも悪いこともひっくるめて全部、丸ごと神からの贈り物のとして受け止め、生きることを意味する。こちら側に「私」というものがあって、向こう側に十字架があり、その十字架を背負うのではなく、私自身が丸ごと十字架であり、同時に神からの贈り物である。これが「私の十字架」である。そこでは十字架と私とは完全に一体になっている。それが「日々、私の十字架を背負う」という意味である。その時、十字架は十字架のままで、私の喜びに変わる。

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