落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

聖霊降臨後第26主日(特定28)説教 憤りの日

2005-11-08 09:52:50 | 説教
2005年 聖霊降臨後第26主日(特定28) (2005.11.13)
憤りの日   ゼファニヤ書1:7,12-18
今日は幼稚園のバザーのため、午前7時半より説教なしの聖餐式が行われる。従って、この説教は実際に「語られる」予定はない。その意味で、初めから「読まれる」ことを想定している。
1. 「終わりの日」
さて、聖霊降臨節の最後の3つの主日(11月6日、13日、20日)は1年を締めくくる主日ということで「終わりの日」について考えることになっている。特に、最後の主日(11月20日)は「王であるキリスト・降臨節前主日」と呼ばれ、「終わり」というよりも「王・支配」ということを主題として特祷や日課が選ばれている。従って、その前の二つの主日が主に「終わりの日」、つまりいわゆる「終末」ということが意識され「主の日」に関するテキストが選ばれている。
教会暦に従って信仰生活をおくるならば、少なくとも1年に一度は終末ということを考えることになる。これは、信仰生活を続けていく上で非常に大切なことだと思う。「終わりよければすべて良し」という西洋の諺があるが、「終わり」を意識するということは、そこに至るすべてを意識する、考えるということである。過去をふり返って反省するということではなく、将来に向かって、といことはつまり終わりに向かって現在を考え、決断することを意味する。
2. 聖書における「世の終わり」
聖書における「この世の終わり」についての記述を読むと、何か現在のわたしたちが考えている、あるいは理解している「この世の終わり」ということとの間にズレというか違和感がある。わたしたちが「この世の終わり」というとき、それは世界あるいは地球に何らかの「形」で「終わり」がきて、すべてが完全に消滅することと思っている。ところが、聖書においては「この世の終わり」の後に新たな「後の世」が始まる。「この世の終わり」は「地球規模の終わり」とか、「世界の終わり」ではなく、天地創造以来の世界の秩序の終わりであり、それはまた同時にまったく新しい世界の始まりを意味しているようである。新約聖書では、ここで用いられている「世」という言葉には「アイオーン」が用いられている。マタイによる福音書12:32では「聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」という言葉がある。これが「アイオーン」である。日本人の言語感覚から言うと「この世」と「あの世」とは平行して現在しているが、聖書では前後関係にある。「この世」での価値観と「あの世」での価値観は異なる。全くの逆転というよりも「更新」である。しかし、聖霊に対する侮辱はどちらのアイオーンでも赦されない、というのがこのテキストの意味であろう。
話しを元に戻して、「この世の終わり」という場合に、何が「終わり」なのかということがはっきりしないと、語る者と聞く者とを間に大きな誤解が生じる。聖書における「この世の終わり」とか再臨論とはこういう壮大な神話的終末論の枠内の話しである。それをいきなり単純に現代のわたしたちの終末観と結びつけようと思ってもそれは土台無理な話である。
3. わたしの終末観
さて、それではわたしたちは「終わりのこと」をどういう風に理解したらいいのだろうか。まだ、起こっていない「世の終わり」のことについて、確実なことを何一つ言えないのは当然である。何も難しいことを考える必要はない。それぞれが自分の考えで「終わりのこと」を考えればいい。ただ、このことを考えるに当たって、真剣であって欲しい。なぜなら、その考えがその人の人生観になるからである。そのために、わたしはわたし自身の終末観をまとめたいと思う。それが皆さん方にとって少しでも参考になれば満足である。
先ず第1のポイントは、この世のすべての物、すべての事には必ず「終わり」があるということである。始まりがあるものには必ず終わりもある。そこは極小さなものから宇宙大のものまで、同様である。ただ、宇宙の「終わり」ということになると、それがわたしが生きている間に起こらないかぎり、現実的ではないので、そのことについては宇宙物理学者にでも任せておこうと思う。具体的にわたしに関係があるだろう最大のものの終わりは「地球の終わり」ということだろうと思う。これも実際にわたしが生きている間に起こるかどうか分からないが、たとえ生きている間に起こったとしても、それが起こった時には、それが起こったということを考える人間は、宇宙船に乗っている人間以外には分からないので、悲劇ということも言えない。悲劇というなら、それが本当に起こったときに生き残った人間こそ、本当の意味での被害者であろう。
しかし、わたしの人生という視点から考えるならば、地球規模の「終わり」も、わたし個人の「終わり=死」も大きな差はない。
次ぎに、第二のポイントとして考えていることは、地球規模の「世の終わり」は、信仰のあるなしは関係ない、ということである。「関係ない」というと少し誤解が生じるかも知れないが、要するに「信仰があれば、世の終わりの悲劇から免れる」という終末観を否定するということである。まさに、世の終わりということにも次の言葉があてはまる。「(天の}父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)。
第三に、世の終わりは何時来るのか、ということで、この点については主イエスも(マルコ13:32)、使徒パウロも(1テサロニケ5:1)同じように「何時かということはわからない」という。ここでの使徒パウロの答えは厳密に言うと、「その時と時期についてあなたがあたに書き記す必要はありません」とある。つまり、「わからない」というよりも、「知る必要がない」であり、非常に強い否定である。次の瞬間かも知れないし、何十年、何百年先のことかも知れない。それはともかく、わたし個人としては「この世の終わり」は遅ければ遅いほどいいと思っている。
最後に、「この世の終わり」に対するわたしたちの心構えということについて述べたい。この点にこそ、わたしたちの信仰は深く関係する。問題は「終わりに向かってどう生きるのか」ということであり、この意味では世界の終わりも、地球最後の日も、わたしの最後の日も同じことである。やはり、ここでわたしは主イエスの言葉に耳を傾けたい。それはルカによる福音書17:20-21である。
「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのか尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがあたの間にあるのだ」。
神の国についての論議は、再臨論にせよ、千年王国論にせよ、最後の審判についての議論にせよ、ハルマケドンにせよ、いつに時代でも宗教的熱狂主義の温床であり、危険思想のアジトである。人々は「これが神の国だ」「あれが神の国だ」「わたしの国は神の国である」「神の国に逆らう連中を皆殺しにしてしまえ」とかまびすしい。
それはともかく、ここでの「神の国」の到来とは「この世の終わり」を意味している。「この世が終わって」「神の国」が来る、あるいは実現する。そのように信じている人々は、常に「それは何時なのか」と質問をする。主イエスのここでの第1の態度は、「何時」という質問には答えようともしない。たとえ「分からない」という答えであったとしても、その質問に答えること自体がこの神話的終末論を承認することになるからであろう。「何時」という質問自体がわたしたちを惑わす。
そして、次ぎに注目すべき答えは、「神の国」あるいは「この世の終わり」は「あれではなく、これだ」とか「これではなく、あれだ」というような「見える形」であることを完全に否定している点である。それら2つの点を明らかにした上で、決定的なことを宣言される。「神の国はあなたがたの間にあるのだ」。目の前にいる人々を指さして、「ほれ、そこにあるではないか」、というのが主イエスのメッセージであった。この「ほれ、そこに」という言葉は強烈である。「ここにある」「あそこにある」というような観念的な議論など吹っ飛んでしまう。ついでに、神話的神国論も神話的終末論もともにむなしくなる。今、ここで生きているわたしたちの足下に「神の国」がある。ここが「神の国」である。ここを大切にして生きること、今の生活を十全にすることが「神の国」の実現である。しかし、それを妨げる力、破壊する力はかなり強いし、執拗である。それらの力には対抗せざるを得ないのが現実である。主イエスのわたしたちに対する呼びかけは、ここにある。

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