2005年 顕現後第2主日 (2005.1.16)
国々の光 イザヤ49:1-7
1. ふところがたな
懐刀(ふところがたな)という武器がある。もともとの意味は、懐に隠し持っている小さな守り刀を意味する。持ち主が最も危険なとき最後に頼りにする武器である。それが転じて、秘密の計画などにあずかる近臣または配下を意味するようになった。普段はあまり目立たない存在であり、むしろ隠している場合が多いが、いざというとき用いられて大きな働きをする。本日のテキストでは、神は「わたしの口を鋭い剣としてみ手の陰に置き、わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して」(49:2)おられると言う。まさに、神の懐刀である。預言者個人を指しているのか、それともイスラエルの民全体を意味しているのか明確でないが、ともかく神は懐刀を準備しておられる。
2. 神の懐刀の出自
預言者は、この神の懐刀について「母の胎にあるわたしを呼び、母の腹にあるわたしの名を呼ばれた」(2節)という。神ご自身が神の懐刀になるべき人物を母の胎内にいるときから選ばれた。従って、その人物が神の懐刀であるのは、彼自身の功績でもなければ、彼がそれを望んだからでもない。そういう人間的なことがすべてなされる以前に、神は彼を選んだ。5節にはもっとすごいことが語られている。単に選んだだけでなく、「母の胎内で御自分の僕として形づくられた」とまで言う。彼の頭だけでなく、体も骨も、手も足も、彼の身体も心も精神もすべてが神の働きのための道具、むしろ武器として作られている。
普通、懐刀といえば非常に優秀な「切れ者」といわれるような人物を想像するが、むしろ、本当の懐刀とは、普段は目立たなく、せいぜい果物ナイフのようなものであるが、それもけっして果物ナイフとしても使われない。つまり、普段の生活のためにはなんの役にも立たたず、人の目から見るならばまさに無用の長物である。しかし、何か危ない目に遭うようなことが起こるかも知れないから、常に懐に携帯されている。これが懐刀である。ここでは「主の僕」とは懐刀のようなものである、と述べられている。
3. 主の僕、主イエス
主イエスは確かに主の僕として生涯を全うされた。イザヤが語るように、主イエスは確かに「人に侮られ、国々に忌むべきものとされ、支配者の僕とされた」(7節)。主の僕の生き様については53章にもっと詳細に語られている。まさに、そこに描かれている主の僕の姿は主イエスの生き方そのものであった。主イエスの弟子たちはそのことを目の前で見てきた。確かに、主イエスが主の僕である。おそらく、弟子たちにとって真実の事態は逆で、主イエスの生きる姿を通してイザヤが預言した「主の僕」という生き方に新しい光が与えられたのであろう。
4. 国々の光
しかし、本日のテキストで語られていることはそのことではない。重要なポイントは、神はその主の僕を「国々の光」(6節)として用いて、「その救いを地の果てまでもたらす」ということである。ここに本日のテキストの最も重要なメッセージがある。
この言葉をどう受け止めるのか。誰か他の人を想定して、あの人が主の僕であるとか、この人が主の僕でないだろうかと詮索するのであろうか。いろいろな理由を挙げて、少なくとも、わたしは主の僕ではないと考えるのだろうか。主の僕とは主イエスのことであるとして、上手にこのメッセージをはねのけるのだろうか。
使徒パウロは自分自身のこととして、次のように語る。「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」(ガラテヤ1:15,16)。明らかに、使徒パウロはイザヤ書のこの言葉を念頭に置いて、自分自身のこととして語っている。
あなた方、つまりわたしたちが「主の僕」であり、主の救いを地の果てまでもたらす「国々の光」として「神の懐刀」である、と神は宣言される。わたしたちは神の期待に十分に応えたい。
国々の光 イザヤ49:1-7
1. ふところがたな
懐刀(ふところがたな)という武器がある。もともとの意味は、懐に隠し持っている小さな守り刀を意味する。持ち主が最も危険なとき最後に頼りにする武器である。それが転じて、秘密の計画などにあずかる近臣または配下を意味するようになった。普段はあまり目立たない存在であり、むしろ隠している場合が多いが、いざというとき用いられて大きな働きをする。本日のテキストでは、神は「わたしの口を鋭い剣としてみ手の陰に置き、わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して」(49:2)おられると言う。まさに、神の懐刀である。預言者個人を指しているのか、それともイスラエルの民全体を意味しているのか明確でないが、ともかく神は懐刀を準備しておられる。
2. 神の懐刀の出自
預言者は、この神の懐刀について「母の胎にあるわたしを呼び、母の腹にあるわたしの名を呼ばれた」(2節)という。神ご自身が神の懐刀になるべき人物を母の胎内にいるときから選ばれた。従って、その人物が神の懐刀であるのは、彼自身の功績でもなければ、彼がそれを望んだからでもない。そういう人間的なことがすべてなされる以前に、神は彼を選んだ。5節にはもっとすごいことが語られている。単に選んだだけでなく、「母の胎内で御自分の僕として形づくられた」とまで言う。彼の頭だけでなく、体も骨も、手も足も、彼の身体も心も精神もすべてが神の働きのための道具、むしろ武器として作られている。
普通、懐刀といえば非常に優秀な「切れ者」といわれるような人物を想像するが、むしろ、本当の懐刀とは、普段は目立たなく、せいぜい果物ナイフのようなものであるが、それもけっして果物ナイフとしても使われない。つまり、普段の生活のためにはなんの役にも立たたず、人の目から見るならばまさに無用の長物である。しかし、何か危ない目に遭うようなことが起こるかも知れないから、常に懐に携帯されている。これが懐刀である。ここでは「主の僕」とは懐刀のようなものである、と述べられている。
3. 主の僕、主イエス
主イエスは確かに主の僕として生涯を全うされた。イザヤが語るように、主イエスは確かに「人に侮られ、国々に忌むべきものとされ、支配者の僕とされた」(7節)。主の僕の生き様については53章にもっと詳細に語られている。まさに、そこに描かれている主の僕の姿は主イエスの生き方そのものであった。主イエスの弟子たちはそのことを目の前で見てきた。確かに、主イエスが主の僕である。おそらく、弟子たちにとって真実の事態は逆で、主イエスの生きる姿を通してイザヤが預言した「主の僕」という生き方に新しい光が与えられたのであろう。
4. 国々の光
しかし、本日のテキストで語られていることはそのことではない。重要なポイントは、神はその主の僕を「国々の光」(6節)として用いて、「その救いを地の果てまでもたらす」ということである。ここに本日のテキストの最も重要なメッセージがある。
この言葉をどう受け止めるのか。誰か他の人を想定して、あの人が主の僕であるとか、この人が主の僕でないだろうかと詮索するのであろうか。いろいろな理由を挙げて、少なくとも、わたしは主の僕ではないと考えるのだろうか。主の僕とは主イエスのことであるとして、上手にこのメッセージをはねのけるのだろうか。
使徒パウロは自分自身のこととして、次のように語る。「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」(ガラテヤ1:15,16)。明らかに、使徒パウロはイザヤ書のこの言葉を念頭に置いて、自分自身のこととして語っている。
あなた方、つまりわたしたちが「主の僕」であり、主の救いを地の果てまでもたらす「国々の光」として「神の懐刀」である、と神は宣言される。わたしたちは神の期待に十分に応えたい。