みなさま
明けましてお目出とうございます。今年最初のメールをお送りします。
何か非常に不安な気持ちで新年を迎えました。自民党政権は堂々と悪びれることなく憲法改悪、軍備強化、原発再稼働を主張し始めました。論点が明確になっただけ戦いやすくなったとは言え、「何時か来た道」を思い出します。
ローズンゲンの今年の聖句は「わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです」というヘブライ人への手紙の第13章14節が選ばれました。とは言え、もうしばらくはこの地上にお世話になります。この地上が少しでも永続するために、共に祈りたいと願っています。
S13E00(S)
2013年 顕現日 2013.01.06
説教「 シメオンの賛歌 ルカ2:22-35」
1.顕現日について
顕現日は日本聖公会の最初の祈祷書では「現異邦日」と呼ばれていた。意味は幼子イエスが異邦人である東の博士たちからも拝されたということに因み、異邦人世界、つまり世界に現れたという意味である。それが「顕現日」と改められたのは59年祈祷書以降のことである。英語の「エピファニー(現れる)」という意味によるものと思う。カトリック教会では1月2日から8日までの間の日曜日を「主の公現」と呼ぶ。東方教会(ハリストス)では「イエスの受肉の祝日」、つまり誕生日として重要視されていた。
本日は、幼子イエスがヨセフとマリアの家庭(「聖家族」)から公の場である「エルサレムの神殿」に初お目見えしたということを思い起こし、そこで歌われた「シメオンの賛歌」を取り上げる。
2.メシア待望
イエス誕生の頃のユダヤ人たちの願いを示す一つの言葉がマタイ13:17に見られる。
「はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」。
不要な説明を省略して結論を述べると、この点がユダヤ教とキリスト教とを明白に分ける最重要ポイントである。「多くの預言者や正しい人」、つまり正当なユダヤ教を担っている人々、ユダヤ教の本流中の本流の人々はメシアを見たいと願い求めてきたが、今だに見ることが出来ないで居る。実は、それは2013年の今日でも同じことである。しかしイエスを信じる者たちは、既にメシアを自分たちの目で見、自分たちの耳で聞いているから幸いだ(16節)という。
もちろん初期のキリスト者は成人したイエスに出会い、イエスの話を聞き、イエスがメシアであると確信したのである。ルカはその経験をシメオンの経験に持ち込む。ルカにとってはイエスがメシアであることは成人して急にメシアになったというよりも、生まれたときからメシアであったと確信している。だからシメオンが見たというのは嘘ではない。もっともシメオンという人物そのものがルカの造形によるのであろうと思われる。従って「シメオンの賛歌」は初期のキリスト者の心情を歌にしたものであると言えるであろう。
3.シメオンという人物
シメオンがどういう人物なのか、何も資料がない。彼についてはルカがここで述べていること以上のことは何も分からない。
「エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」(2:25-26)。
聖霊がシメオンに「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」と告げたという。ここでいわれている「主が遣わすメシア」とは難しい議論抜きで言うと要するに、いろいろ「メシア(=キリスト)」と称する人間が現れるが、「ホンモノのメシア」に会うまではあなたは「死なない」。考えてみると、これは実に恐ろしい言葉である。何時現れるのか、どういう形で現れるのかわからないメシアを見るまでは死なない。はっきり言うと、それまでは「死ぬに死ねない」という一種の縛りがかかるということである。従ってメシアを見るということは役割からの解放、束縛からの解放を意味する。
4. ヌンク・ディミティス
シメオンの賛歌は、伝統的にはラテン語の冒頭の句から「ヌンク・ディミティス」と呼ばれている。ヌンクとは「今や」という単語で、ディミティスは「解放された」という意味である。「死ぬに死にきれない」という役割からの解放という意味で「もう死んでもいい」という意味である。この点で強調点の取り違えてはならないと思う。
この幼児を目にして、両腕で抱きかかえた今、シメオンはこの子こそ、私たちが待ち望んでいたメシアであると宣言する。それが神から与えられたシメオンの役割である。実はこの役割、シメオンがこれを果たさなければ「死ぬに死ねない」した任務こそ、歴史的にイスラエル民族が担ってきた役割であり使命である。つまりここでのシメオンは一人の老人というよりもイスラエルそのものの象徴である。今やイスラエル民族はその使命から解放された。ルカがここで語っている最も重要なメッセージはここにある。
5.ヨハネ9:22
話は変わるが、ヨハネ福音書に次のような言葉がある。生まれつきの盲人がイエスによって見えるようになったという奇跡物語の後に展開した出来事である。
「両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」。
ここで「決めていた」というのはユダヤ教の公的機関において決定されたということを意味する。明らかにこれはイエスの時代というよりもヨハネの時代、その直前頃の決議を意味している。
エルサレムの神殿がローマの軍隊によって徹底的に破壊された(70年)後、ユダヤ教は混乱し、ほとんど壊滅状況にあった。その中で生き残ったユダヤ人たちは、ローマ帝国への恭順を示し、帝国の認可のもとエルサレムの郊外ヤムニアの地に集まり、帝国の認可を得て、ユダヤ教の神学校を作った。そこでは、新しい時代に相応しいユダヤ教の構築が進められた。それは神殿ではなく律法を中心とするユダヤ教であり、礼拝規定や祈祷文等が作られた。問題はその中に「18祈祷文」がある(1896年に発見)。その第12祈願に次のような文章が記されていた。
「背教者たちに望みが与えられないように。傲慢なる王国は我々の時代に根絶されるように。またナゾラ人たち(キリスト教徒)とミーニーム(異端者)は一瞬にして滅び、生命の書から消されて、義しい人びとと共に書き入れられないように。主なるあなたは讃べきかな。傲慢な者たちを卑しめ給う方よ」。
この祈願はユダヤ教のシナゴグーからキリスト者を追放する規定であると同時に、一種の「踏み絵」という機能も果たしたらしい。ヨハネ福音書の先ほどの文章の背後にはこの出来事がある。
これはパウロが活躍していた50年頃から既に問題になっていたことの最後の決着であった。ルカはこういう問題がホットに議論されている頃、一人の非ユダヤ人キリスト者としてルカ福音書を書いているのである。ルカにとってユダヤ教とは何か。この問題に対する答えがシメオンの賛歌そのものである。ユダヤ教を母体とし、ユダヤ教から重要な「神への敬虔」を学び吸収し、今や、独り立ちしたキリスト教。ユダヤ教の使命はもう終わった。感謝の念を持ってユダヤ教の終わりを宣言する。
6.「万民を照らす光、イスラエルの栄光を示す光」
最後に、31節と32節について考える。31節の意味はイエスによってもたらされた救いは全人類のためのものであるという宣言である。この宣言だけで十分であるが、ルカはダメ押しのように32節を付加する。イエスは全ての民族を照らす光であると同時に、イスラエルの栄光をも照らす光である。福音は今や全人類に開かれたている。その意味ではイスラエルの役割は終わった。しかし、神はもはや無用になってイスラエルを棄てるのではない。むしろ、そのことによってイスラエルの栄光、特にその栄光ある歴史が光り輝くのである。ここにルカのメッセージがある。
明けましてお目出とうございます。今年最初のメールをお送りします。
何か非常に不安な気持ちで新年を迎えました。自民党政権は堂々と悪びれることなく憲法改悪、軍備強化、原発再稼働を主張し始めました。論点が明確になっただけ戦いやすくなったとは言え、「何時か来た道」を思い出します。
ローズンゲンの今年の聖句は「わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです」というヘブライ人への手紙の第13章14節が選ばれました。とは言え、もうしばらくはこの地上にお世話になります。この地上が少しでも永続するために、共に祈りたいと願っています。
S13E00(S)
2013年 顕現日 2013.01.06
説教「 シメオンの賛歌 ルカ2:22-35」
1.顕現日について
顕現日は日本聖公会の最初の祈祷書では「現異邦日」と呼ばれていた。意味は幼子イエスが異邦人である東の博士たちからも拝されたということに因み、異邦人世界、つまり世界に現れたという意味である。それが「顕現日」と改められたのは59年祈祷書以降のことである。英語の「エピファニー(現れる)」という意味によるものと思う。カトリック教会では1月2日から8日までの間の日曜日を「主の公現」と呼ぶ。東方教会(ハリストス)では「イエスの受肉の祝日」、つまり誕生日として重要視されていた。
本日は、幼子イエスがヨセフとマリアの家庭(「聖家族」)から公の場である「エルサレムの神殿」に初お目見えしたということを思い起こし、そこで歌われた「シメオンの賛歌」を取り上げる。
2.メシア待望
イエス誕生の頃のユダヤ人たちの願いを示す一つの言葉がマタイ13:17に見られる。
「はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」。
不要な説明を省略して結論を述べると、この点がユダヤ教とキリスト教とを明白に分ける最重要ポイントである。「多くの預言者や正しい人」、つまり正当なユダヤ教を担っている人々、ユダヤ教の本流中の本流の人々はメシアを見たいと願い求めてきたが、今だに見ることが出来ないで居る。実は、それは2013年の今日でも同じことである。しかしイエスを信じる者たちは、既にメシアを自分たちの目で見、自分たちの耳で聞いているから幸いだ(16節)という。
もちろん初期のキリスト者は成人したイエスに出会い、イエスの話を聞き、イエスがメシアであると確信したのである。ルカはその経験をシメオンの経験に持ち込む。ルカにとってはイエスがメシアであることは成人して急にメシアになったというよりも、生まれたときからメシアであったと確信している。だからシメオンが見たというのは嘘ではない。もっともシメオンという人物そのものがルカの造形によるのであろうと思われる。従って「シメオンの賛歌」は初期のキリスト者の心情を歌にしたものであると言えるであろう。
3.シメオンという人物
シメオンがどういう人物なのか、何も資料がない。彼についてはルカがここで述べていること以上のことは何も分からない。
「エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」(2:25-26)。
聖霊がシメオンに「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」と告げたという。ここでいわれている「主が遣わすメシア」とは難しい議論抜きで言うと要するに、いろいろ「メシア(=キリスト)」と称する人間が現れるが、「ホンモノのメシア」に会うまではあなたは「死なない」。考えてみると、これは実に恐ろしい言葉である。何時現れるのか、どういう形で現れるのかわからないメシアを見るまでは死なない。はっきり言うと、それまでは「死ぬに死ねない」という一種の縛りがかかるということである。従ってメシアを見るということは役割からの解放、束縛からの解放を意味する。
4. ヌンク・ディミティス
シメオンの賛歌は、伝統的にはラテン語の冒頭の句から「ヌンク・ディミティス」と呼ばれている。ヌンクとは「今や」という単語で、ディミティスは「解放された」という意味である。「死ぬに死にきれない」という役割からの解放という意味で「もう死んでもいい」という意味である。この点で強調点の取り違えてはならないと思う。
この幼児を目にして、両腕で抱きかかえた今、シメオンはこの子こそ、私たちが待ち望んでいたメシアであると宣言する。それが神から与えられたシメオンの役割である。実はこの役割、シメオンがこれを果たさなければ「死ぬに死ねない」した任務こそ、歴史的にイスラエル民族が担ってきた役割であり使命である。つまりここでのシメオンは一人の老人というよりもイスラエルそのものの象徴である。今やイスラエル民族はその使命から解放された。ルカがここで語っている最も重要なメッセージはここにある。
5.ヨハネ9:22
話は変わるが、ヨハネ福音書に次のような言葉がある。生まれつきの盲人がイエスによって見えるようになったという奇跡物語の後に展開した出来事である。
「両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」。
ここで「決めていた」というのはユダヤ教の公的機関において決定されたということを意味する。明らかにこれはイエスの時代というよりもヨハネの時代、その直前頃の決議を意味している。
エルサレムの神殿がローマの軍隊によって徹底的に破壊された(70年)後、ユダヤ教は混乱し、ほとんど壊滅状況にあった。その中で生き残ったユダヤ人たちは、ローマ帝国への恭順を示し、帝国の認可のもとエルサレムの郊外ヤムニアの地に集まり、帝国の認可を得て、ユダヤ教の神学校を作った。そこでは、新しい時代に相応しいユダヤ教の構築が進められた。それは神殿ではなく律法を中心とするユダヤ教であり、礼拝規定や祈祷文等が作られた。問題はその中に「18祈祷文」がある(1896年に発見)。その第12祈願に次のような文章が記されていた。
「背教者たちに望みが与えられないように。傲慢なる王国は我々の時代に根絶されるように。またナゾラ人たち(キリスト教徒)とミーニーム(異端者)は一瞬にして滅び、生命の書から消されて、義しい人びとと共に書き入れられないように。主なるあなたは讃べきかな。傲慢な者たちを卑しめ給う方よ」。
この祈願はユダヤ教のシナゴグーからキリスト者を追放する規定であると同時に、一種の「踏み絵」という機能も果たしたらしい。ヨハネ福音書の先ほどの文章の背後にはこの出来事がある。
これはパウロが活躍していた50年頃から既に問題になっていたことの最後の決着であった。ルカはこういう問題がホットに議論されている頃、一人の非ユダヤ人キリスト者としてルカ福音書を書いているのである。ルカにとってユダヤ教とは何か。この問題に対する答えがシメオンの賛歌そのものである。ユダヤ教を母体とし、ユダヤ教から重要な「神への敬虔」を学び吸収し、今や、独り立ちしたキリスト教。ユダヤ教の使命はもう終わった。感謝の念を持ってユダヤ教の終わりを宣言する。
6.「万民を照らす光、イスラエルの栄光を示す光」
最後に、31節と32節について考える。31節の意味はイエスによってもたらされた救いは全人類のためのものであるという宣言である。この宣言だけで十分であるが、ルカはダメ押しのように32節を付加する。イエスは全ての民族を照らす光であると同時に、イスラエルの栄光をも照らす光である。福音は今や全人類に開かれたている。その意味ではイスラエルの役割は終わった。しかし、神はもはや無用になってイスラエルを棄てるのではない。むしろ、そのことによってイスラエルの栄光、特にその栄光ある歴史が光り輝くのである。ここにルカのメッセージがある。