2006年 顕現後第1主日・主イエス洗礼の日 (2006.1.8)
鳩のように マルコ1:7-11
1. 主イエスの受洗について
三つの共観福音書はすべて主イエスが洗礼者ヨハネから受洗したことついて述べているが、その述べ方についてはそれぞれニュアンスが異なる。マタイは、主イエスは洗礼を受ける必要がなかった、と考えているようである。しかし、「事実」だからそれを否定するわけにはいかず、何とか理由付けを行っている。また、ルカの場合は、できるだけそういう疑問を持たせないように、ただ淡々と主イエスの受洗の状況を「一つの事件」として報告し,それに対する論評を避けている。これも一つの姿勢である。
それに対して、マルコはヨハネの洗礼が「罪の赦しを得させるための悔改めの洗礼」(マルコ1:4)であることをはっきりと意識している。つまり、「洗礼即悔い改め」である。マタイの場合は、「悔い改めに導く洗礼」(マタイ3:11)という表現であり、全体としての印象は洗礼ということと「悔い改め」という言葉とを分離しようとしている。おそらく、「悔い改め即洗礼」ということになると、主イエスが洗礼を受けたことの矛盾が露骨になることを意識して、ぼやかしたものと思われる。
三つの福音書を読み比べて、その言葉づかいや雰囲気からみて、おそらくマタイもルカもマルコの記事を熟知しており、それを重要な資料として用いていると思われるので、現在これらの福音書を読むわたしたちにとって重要なことは、マタイやルカがマルコの記事をいかに解釈し、削除し、あるいは付け加え、変更したのかということであろう。しかし、それはそれぞれの福音書を読むときの課題として、本日はマルコが語る主イエスの洗礼に集中したい。
2. マルコの語るイエスの洗礼
マルコが語る主イエスの洗礼の場面での大きな特徴は,受洗の場面に他の人を登場させていない、ということである。その点ではマタイも同様であるが、ただ、その場面で洗礼者ヨハネとイエスとの間で人間くさい議論が展開されている。この議論そのものが、そこに第三者が居合わせていたことを推測させる。ルカの場合は、かなり鮮明に「民衆」がそこにいたことを語っている。なぜ、こんなことにこだわるのかと言うと、イエスの洗礼の場面を見ていた目撃者の証言の問題があるからである。要するに、誰が「天が開け,聖霊が鳩のように主イエスの上に降る」という情景を見ていたのか。また、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声を誰が聞いたのか。マタイおよびルカにおいては、明らかに、そこに居合わせた全ての人々が見ていたことであるとしている。マタイは「あなたは」という主語を「これは」という言葉に変えている。(ルカはマルコと同じ。)つまり、それはある種の「異常現象」であったことを示唆している。ルカは、わざわざ聖霊は「目に見える姿でイエスの上に降って来た」(ルカ3:22)と語る。ヨハネ福音書に至っては、洗礼者ヨハネ自身の証言として「わたしは『霊』が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(ヨハネ1:32)と言わせている。ところが、マルコでは「御自分に降ってくるのをご覧になった」(マルコ1:10)である。明らかに、それを見ていたのは主イエスご自身であった。(この点ではマタイはマルコと同じである。)
3. 神の子の宣言
つまり、「聖霊による洗礼」とは、「水の洗礼」という目に見える形での洗礼において、目に見えない、しかしそれを受けている人自身には明確な経験としての内面的な出来事であったことを示唆している。とすると、それはキリストの名によって「水の洗礼」を受けるすべての人が経験する出来事ということになる。キリストの名による「聖霊による洗礼」は、ヨハネによってなされた「悔改めの水の洗礼」以上のもの、それは「悔い改めのため」というよりも「神の子」の宣言を意味する洗礼であるということをマルコは強調したいのである。
このように、見てくると主イエスの洗礼について特に強調している点がはっきりしてくる。つまり、イエスが水による洗礼を受けたときに経験した出来事は、わたしたちも洗礼を受けたときに経験したことと同じ経験である。わたしたちが教会に来て、洗礼を受けたとき、それは悔改めの洗礼でもあったが、それは同時に聖霊の洗礼でもあった。それは決して「異常現象」として経験したことではなかったが、確かにその後のわたしたちの生活を変える出来事であった。
4. 神の子の宣言
イエスが洗礼を受けたとき、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉が聞こえたとされる。この言葉の出典はおそらく詩篇第2編であるが、この言葉を主イエスに結びつける伝承はマルコよりもかなり古い。使徒言行録に残されているパウロの説教(使徒13:37)にも引用されている。使徒パウロは主イエスの復活との関連の中で、「詩編第2編」の言葉として出典を明らかにした上で引用している。ヘブル書(1:5,5:5)にもこの言葉は引用されているし、福音書ではイエスの変容の出来事とも関連づけられている。おそらく、この言葉をイエスの受洗に関連づけたのはマルコであろうと想像している。
マルコがこの「神の子宣言」をイエスの受洗という出来事と関連づけた意味あるいは目的は、わたしたちの洗礼経験と深く関連している。つまり、イエスの洗礼がわたしたちの洗礼と同じ経験であるというマルコの主張によれば、この「神の子宣言」もわたしたちの経験である。わたしたちの洗礼において神の子と宣言された。洗礼を受けたとき、わたしたちも神の子となる。
このことを神学的に、ということはマルコとは反対の方向を向いているが、明確に語ったのが、ヨハネである。「言は、(ロゴス、すなわちキリストは)、自分を受け入れた人、その名を信じる人には神の子となる資格を与えた(1:12)」。
(これ以下は、あまりにも専門的になるので、実際の説教では省略する。)
5. そのことが起こった
マルコではもう一つ重要なことが隠されている。9節冒頭の「そのころ」とは、それまで述べていた事件との関連の中で、これから述べようとする物語に重厚性を持たせるために冒頭に置く表現であり、マタイの「その時」とは意味が全然異なる。
非常に重要な所なので少し専門的になるが、日本語の翻訳には出てこない重要な言葉が「そのころ」という言葉に含まれている。それは「起こった」という動詞である。いくつかの邦訳聖書を読み比べてみると、ただ一冊だけ、かなり古い翻訳であるが、通称「永井訳」と呼ばれている新契約聖書だけが、この部分を次のように訳している。「またそれらの日にかくありき」(新契約聖書)。つまり、これから述べようとすることは「同時に起こったことなのだ」ということをわざわざ強調する言葉である。そして、その言葉を受けて、具体的にどういうことが「起こったのか」ということを、それに続く4つの動詞(不定詞)が受けている。
①「(ナザレから)来て」、②「(洗礼を)受け」、③「(聖霊が降るのを)ご覧になり」、④「(神の子としての宣言が)聞こえた」。
なぜこの事が重要であるかというと、この記事がマルコによる福音書においては主イエスが初めて登場する場面であるからである。この場面において、マルコはこの4つの不定詞を結合し、イエスという人物の「生き方の出発点」、「生涯を決定する方向性」、つまりマルコ福音書の主要主題であるイエスの生きる姿が福音であるということを明確にしている。
鳩のように マルコ1:7-11
1. 主イエスの受洗について
三つの共観福音書はすべて主イエスが洗礼者ヨハネから受洗したことついて述べているが、その述べ方についてはそれぞれニュアンスが異なる。マタイは、主イエスは洗礼を受ける必要がなかった、と考えているようである。しかし、「事実」だからそれを否定するわけにはいかず、何とか理由付けを行っている。また、ルカの場合は、できるだけそういう疑問を持たせないように、ただ淡々と主イエスの受洗の状況を「一つの事件」として報告し,それに対する論評を避けている。これも一つの姿勢である。
それに対して、マルコはヨハネの洗礼が「罪の赦しを得させるための悔改めの洗礼」(マルコ1:4)であることをはっきりと意識している。つまり、「洗礼即悔い改め」である。マタイの場合は、「悔い改めに導く洗礼」(マタイ3:11)という表現であり、全体としての印象は洗礼ということと「悔い改め」という言葉とを分離しようとしている。おそらく、「悔い改め即洗礼」ということになると、主イエスが洗礼を受けたことの矛盾が露骨になることを意識して、ぼやかしたものと思われる。
三つの福音書を読み比べて、その言葉づかいや雰囲気からみて、おそらくマタイもルカもマルコの記事を熟知しており、それを重要な資料として用いていると思われるので、現在これらの福音書を読むわたしたちにとって重要なことは、マタイやルカがマルコの記事をいかに解釈し、削除し、あるいは付け加え、変更したのかということであろう。しかし、それはそれぞれの福音書を読むときの課題として、本日はマルコが語る主イエスの洗礼に集中したい。
2. マルコの語るイエスの洗礼
マルコが語る主イエスの洗礼の場面での大きな特徴は,受洗の場面に他の人を登場させていない、ということである。その点ではマタイも同様であるが、ただ、その場面で洗礼者ヨハネとイエスとの間で人間くさい議論が展開されている。この議論そのものが、そこに第三者が居合わせていたことを推測させる。ルカの場合は、かなり鮮明に「民衆」がそこにいたことを語っている。なぜ、こんなことにこだわるのかと言うと、イエスの洗礼の場面を見ていた目撃者の証言の問題があるからである。要するに、誰が「天が開け,聖霊が鳩のように主イエスの上に降る」という情景を見ていたのか。また、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声を誰が聞いたのか。マタイおよびルカにおいては、明らかに、そこに居合わせた全ての人々が見ていたことであるとしている。マタイは「あなたは」という主語を「これは」という言葉に変えている。(ルカはマルコと同じ。)つまり、それはある種の「異常現象」であったことを示唆している。ルカは、わざわざ聖霊は「目に見える姿でイエスの上に降って来た」(ルカ3:22)と語る。ヨハネ福音書に至っては、洗礼者ヨハネ自身の証言として「わたしは『霊』が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(ヨハネ1:32)と言わせている。ところが、マルコでは「御自分に降ってくるのをご覧になった」(マルコ1:10)である。明らかに、それを見ていたのは主イエスご自身であった。(この点ではマタイはマルコと同じである。)
3. 神の子の宣言
つまり、「聖霊による洗礼」とは、「水の洗礼」という目に見える形での洗礼において、目に見えない、しかしそれを受けている人自身には明確な経験としての内面的な出来事であったことを示唆している。とすると、それはキリストの名によって「水の洗礼」を受けるすべての人が経験する出来事ということになる。キリストの名による「聖霊による洗礼」は、ヨハネによってなされた「悔改めの水の洗礼」以上のもの、それは「悔い改めのため」というよりも「神の子」の宣言を意味する洗礼であるということをマルコは強調したいのである。
このように、見てくると主イエスの洗礼について特に強調している点がはっきりしてくる。つまり、イエスが水による洗礼を受けたときに経験した出来事は、わたしたちも洗礼を受けたときに経験したことと同じ経験である。わたしたちが教会に来て、洗礼を受けたとき、それは悔改めの洗礼でもあったが、それは同時に聖霊の洗礼でもあった。それは決して「異常現象」として経験したことではなかったが、確かにその後のわたしたちの生活を変える出来事であった。
4. 神の子の宣言
イエスが洗礼を受けたとき、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉が聞こえたとされる。この言葉の出典はおそらく詩篇第2編であるが、この言葉を主イエスに結びつける伝承はマルコよりもかなり古い。使徒言行録に残されているパウロの説教(使徒13:37)にも引用されている。使徒パウロは主イエスの復活との関連の中で、「詩編第2編」の言葉として出典を明らかにした上で引用している。ヘブル書(1:5,5:5)にもこの言葉は引用されているし、福音書ではイエスの変容の出来事とも関連づけられている。おそらく、この言葉をイエスの受洗に関連づけたのはマルコであろうと想像している。
マルコがこの「神の子宣言」をイエスの受洗という出来事と関連づけた意味あるいは目的は、わたしたちの洗礼経験と深く関連している。つまり、イエスの洗礼がわたしたちの洗礼と同じ経験であるというマルコの主張によれば、この「神の子宣言」もわたしたちの経験である。わたしたちの洗礼において神の子と宣言された。洗礼を受けたとき、わたしたちも神の子となる。
このことを神学的に、ということはマルコとは反対の方向を向いているが、明確に語ったのが、ヨハネである。「言は、(ロゴス、すなわちキリストは)、自分を受け入れた人、その名を信じる人には神の子となる資格を与えた(1:12)」。
(これ以下は、あまりにも専門的になるので、実際の説教では省略する。)
5. そのことが起こった
マルコではもう一つ重要なことが隠されている。9節冒頭の「そのころ」とは、それまで述べていた事件との関連の中で、これから述べようとする物語に重厚性を持たせるために冒頭に置く表現であり、マタイの「その時」とは意味が全然異なる。
非常に重要な所なので少し専門的になるが、日本語の翻訳には出てこない重要な言葉が「そのころ」という言葉に含まれている。それは「起こった」という動詞である。いくつかの邦訳聖書を読み比べてみると、ただ一冊だけ、かなり古い翻訳であるが、通称「永井訳」と呼ばれている新契約聖書だけが、この部分を次のように訳している。「またそれらの日にかくありき」(新契約聖書)。つまり、これから述べようとすることは「同時に起こったことなのだ」ということをわざわざ強調する言葉である。そして、その言葉を受けて、具体的にどういうことが「起こったのか」ということを、それに続く4つの動詞(不定詞)が受けている。
①「(ナザレから)来て」、②「(洗礼を)受け」、③「(聖霊が降るのを)ご覧になり」、④「(神の子としての宣言が)聞こえた」。
なぜこの事が重要であるかというと、この記事がマルコによる福音書においては主イエスが初めて登場する場面であるからである。この場面において、マルコはこの4つの不定詞を結合し、イエスという人物の「生き方の出発点」、「生涯を決定する方向性」、つまりマルコ福音書の主要主題であるイエスの生きる姿が福音であるということを明確にしている。
仏典でもよくありますが、その場にいあわせなくとも、後で霊眼で確認するという手法もあるのではないでしょうか。