2006年 顕現後第7主日 (2006.2.19)
赦し マルコ2:1-12
1. 病気と罪
なぜ主イエスは病気を癒してもらうために、ただそのためにだけ万難を排してやってきた中風患者に向かって「あなたの罪は赦される」という場違いなことを言ったのだろうか。その直後に「『あなたの罪は赦された』というのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」と問いかけ、「起きて、床を担いで歩け」と言われているのなら、始めからそう言えばいいではないか。
いろいろ疑問はあるが、要するに重要なことは、主イエスにおいては病気を癒すという行為と、罪の赦しを宣言する行為とは同じレベルの事柄であった、ということである。
2. 病気と罪とは無関係
多くの注解者は当時の人々は、罪が病気の原因であると考えていたとし、主イエスもその常識に従って「あなたの罪は赦される」と言われたのであるとしている。果たして本当にそうなのだろうか。当時の人々だって、明らかに罪人と考えられる人でも肉体的には健康な人間もおれば、とても罪人とは思えない人も病気になるということは経験的に知っていたに違いない。また、何らかの理由で病気になった人でも、罪の赦しというような手続きを経ずして治っている人もいただろう。
むしろ、病気の原因は罪であるとし、病気を治すために罪の赦しという宗教的手続きが必要だと考えたのは伝統的・宗教的因習であろう。主イエスがそのような因習に従ったとは到底思えない。もしこの言葉が主イエスの口から語られたとすると、それは「あなたの病気は罪とは関係ない」という宣言であり、「あなたの罪は赦されている」という宣言は病気との関連ではなく、そこで主イエスが「見た」「彼らの信仰」に対する賞賛の言葉であろう。そうだとすると、少し大胆に解釈すると、この宣言は、ただ単に「あなたは幸せだな」という意味の言葉だと思われる。
3. 罪の赦し宣言
「罪の赦し」というテーマは主イエスが洗礼者ヨハネの元で共に働いていたときから既に重要なテーマであった。洗礼者ヨハネの洗礼とは「罪の赦しを得させるため」であり、恐らく主イエスがヨハネの元を去って、独自の働きをし始めた動機も「罪の赦し」をめぐる議論からであろうと思われる。そいう文脈から考えると、「あなたの罪は赦される」という言葉は、主イエスが独自の働きを始めたときのいわば世間に対する、そして同時に伝統的な文化に対する「挑戦」である。
この「あなたの罪は赦される」という言葉の解釈と翻訳とは非常に難しい。「赦される」という言葉は、日本語には非常に翻訳しにくい。「赦された」ではなく、また「赦されるであろう」でもなく、「赦す」でもない。強いて訳せば「赦されている」というのが最も近い、と思う。田川建三氏は「今ここで赦されるのだ」という事実の宣言、というように解釈している(129頁)。つまり、主イエスはここで「赦しを宣言」しているのではなく、「あなたは今ここで既に赦されている」という事実を指摘している。従って、この言葉を取り上げて、主イエスが罪を赦す権威があるとか、ないとか議論すること自体が見当はずれである。だからと言って、罪なんか初めっからなかったんだ、という無罪宣言とは異なる。確かに、罪はあった。しかし、その罪は既に赦されている、という事実の指摘である。むしろ、ここでの「赦されている」という宣言は、わたしたちは「罪を克服することができる」、という宣言である。
4. 罪を赦す権威
このことと関連して、10節の「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」という言葉について考えたい。罪を赦す権威は神にだけあるという思想は当時の常識であった。当時だけではない。被害者だけが加害者を赦せるのであって、他の人に対する罪や、神に対する罪を赦す権利は人間にはない。これは当然のことであろう。神に対する罪は神だけが赦せる。
「神に対する罪」とは何かという深刻な議論はさておく。ともかく、人間は何となく「自分は罪人だ」と感じるときがある。罪意識は人間に特有の感覚である。そこで、人間はその罪意識から解放されるためにいろいろな装置を発明した。それが宗教である。そして、その装置を独占した者が「権威者」となる。その意味では洗礼者ヨハネの洗礼もそのための手続きである。
主イエスがヨハネから分離独立したとき、一つの確信を持った。それは、神は無限に赦しておられるという事実である。問題は、その罪の赦しが今ここで実現しているかどうか、ということにある。主イエスが中風患者に対して、そしてそれは同時に彼の友人たちも含めて「あなたの罪は赦されている」と宣言できた根拠は、彼らの中にあった信仰(ピステス)であった。この信仰という言葉を教会が成立した後の教会における「信仰」と混同してはならない。従って、これを「信仰」と翻訳するのは適当ではない。むしろ、「信頼」とか「誠実」、「忠実」とか「真実」という意味で、思い切って「友情」と言ってもいいかもしれない。主イエスは彼らの友情(ピステス)を見て、「あなたの罪は赦されている」と宣言されたのである。わたしたちがお互いに赦し合い、愛し合っている状況、交わりが罪の赦しを現実化するピステスである。教会はそれを「信仰」と呼ぶ。
赦し マルコ2:1-12
1. 病気と罪
なぜ主イエスは病気を癒してもらうために、ただそのためにだけ万難を排してやってきた中風患者に向かって「あなたの罪は赦される」という場違いなことを言ったのだろうか。その直後に「『あなたの罪は赦された』というのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」と問いかけ、「起きて、床を担いで歩け」と言われているのなら、始めからそう言えばいいではないか。
いろいろ疑問はあるが、要するに重要なことは、主イエスにおいては病気を癒すという行為と、罪の赦しを宣言する行為とは同じレベルの事柄であった、ということである。
2. 病気と罪とは無関係
多くの注解者は当時の人々は、罪が病気の原因であると考えていたとし、主イエスもその常識に従って「あなたの罪は赦される」と言われたのであるとしている。果たして本当にそうなのだろうか。当時の人々だって、明らかに罪人と考えられる人でも肉体的には健康な人間もおれば、とても罪人とは思えない人も病気になるということは経験的に知っていたに違いない。また、何らかの理由で病気になった人でも、罪の赦しというような手続きを経ずして治っている人もいただろう。
むしろ、病気の原因は罪であるとし、病気を治すために罪の赦しという宗教的手続きが必要だと考えたのは伝統的・宗教的因習であろう。主イエスがそのような因習に従ったとは到底思えない。もしこの言葉が主イエスの口から語られたとすると、それは「あなたの病気は罪とは関係ない」という宣言であり、「あなたの罪は赦されている」という宣言は病気との関連ではなく、そこで主イエスが「見た」「彼らの信仰」に対する賞賛の言葉であろう。そうだとすると、少し大胆に解釈すると、この宣言は、ただ単に「あなたは幸せだな」という意味の言葉だと思われる。
3. 罪の赦し宣言
「罪の赦し」というテーマは主イエスが洗礼者ヨハネの元で共に働いていたときから既に重要なテーマであった。洗礼者ヨハネの洗礼とは「罪の赦しを得させるため」であり、恐らく主イエスがヨハネの元を去って、独自の働きをし始めた動機も「罪の赦し」をめぐる議論からであろうと思われる。そいう文脈から考えると、「あなたの罪は赦される」という言葉は、主イエスが独自の働きを始めたときのいわば世間に対する、そして同時に伝統的な文化に対する「挑戦」である。
この「あなたの罪は赦される」という言葉の解釈と翻訳とは非常に難しい。「赦される」という言葉は、日本語には非常に翻訳しにくい。「赦された」ではなく、また「赦されるであろう」でもなく、「赦す」でもない。強いて訳せば「赦されている」というのが最も近い、と思う。田川建三氏は「今ここで赦されるのだ」という事実の宣言、というように解釈している(129頁)。つまり、主イエスはここで「赦しを宣言」しているのではなく、「あなたは今ここで既に赦されている」という事実を指摘している。従って、この言葉を取り上げて、主イエスが罪を赦す権威があるとか、ないとか議論すること自体が見当はずれである。だからと言って、罪なんか初めっからなかったんだ、という無罪宣言とは異なる。確かに、罪はあった。しかし、その罪は既に赦されている、という事実の指摘である。むしろ、ここでの「赦されている」という宣言は、わたしたちは「罪を克服することができる」、という宣言である。
4. 罪を赦す権威
このことと関連して、10節の「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」という言葉について考えたい。罪を赦す権威は神にだけあるという思想は当時の常識であった。当時だけではない。被害者だけが加害者を赦せるのであって、他の人に対する罪や、神に対する罪を赦す権利は人間にはない。これは当然のことであろう。神に対する罪は神だけが赦せる。
「神に対する罪」とは何かという深刻な議論はさておく。ともかく、人間は何となく「自分は罪人だ」と感じるときがある。罪意識は人間に特有の感覚である。そこで、人間はその罪意識から解放されるためにいろいろな装置を発明した。それが宗教である。そして、その装置を独占した者が「権威者」となる。その意味では洗礼者ヨハネの洗礼もそのための手続きである。
主イエスがヨハネから分離独立したとき、一つの確信を持った。それは、神は無限に赦しておられるという事実である。問題は、その罪の赦しが今ここで実現しているかどうか、ということにある。主イエスが中風患者に対して、そしてそれは同時に彼の友人たちも含めて「あなたの罪は赦されている」と宣言できた根拠は、彼らの中にあった信仰(ピステス)であった。この信仰という言葉を教会が成立した後の教会における「信仰」と混同してはならない。従って、これを「信仰」と翻訳するのは適当ではない。むしろ、「信頼」とか「誠実」、「忠実」とか「真実」という意味で、思い切って「友情」と言ってもいいかもしれない。主イエスは彼らの友情(ピステス)を見て、「あなたの罪は赦されている」と宣言されたのである。わたしたちがお互いに赦し合い、愛し合っている状況、交わりが罪の赦しを現実化するピステスである。教会はそれを「信仰」と呼ぶ。